No.7670
「お、らっしゃい。今日はどんな花を見に来たの」
最寄り駅のすぐ近くの花屋さんは、若いお兄さん。名札にはひらがなで、にかいどう、と書いているから、きっと二階堂さんなのだろうけれど、よくお兄さんは〜と話す癖があるようで、だから常連からは皆、お兄さんと呼ばれているし、私もそうしていた。カラッとしていてサッパリとしている爽やかな、眼鏡の青年。
「前に買ってったのは元気?そこそこ手間のかかる子だったけど」
「ええ、とても綺麗に咲いています。お兄さんが丁寧にメモを作ってくださっていたから」
「はは。違うよ。お客さんの愛」
「でも」
「スポーツと一緒。勝てば選手のおかげ、負ければ監督のせい、ってね」
「ふふ、相変わらずお兄さんは……謙遜しますねえ」
「偉そうな花屋店員よりいいっしょ」
「フレンドリーではありますけれど」
「馴れ馴れしいって?」
「言ってませんよ」
おどけたように笑う"お兄さん"に、自然と笑みが零れる。小さな花屋に並ぶ苗を見ながら、彼を盗み見ていると、鋏で茎を整えながら、お兄さんはこちらを見つめていた。
「……またなんかあったんだ?いつものクソ上司?それとも得意先のセクハラ男?」
「……私、そんなにわかりやすいでしょうか」
「どうでしょ。お兄さんのカンがいいだけかもよ。……今日もどの子か連れて帰るの?お家、ワンルームなんでしょ。ベランダ埋まっちゃうんじゃない」
「……そうですねえ」
「どうせなら今度はシダ植物なんてどう。暗くて寂しいところで育つ、きっとお客さんの心の翳りの中でも、なーんて。……ちなみに俺も、どっちかっつーと日光は少なくて良い派。……そんなインドアなお兄さんと、奥でコーヒーでもどう?」
「……本当に馴れ馴れしい花屋さんですよね」
「ホントは酒がいいんだけど、この前ミツ……たまに手伝いに来てるちっこいのに、花屋で酒出すやつがいるかって言われてさ」
「ごもっともですね」
「はあ、お客さんも手厳しいねぇ。昼間っからお客さんと飲むビールの美味さってのが、わかっちゃいねぇ」
そうやってまた微笑むお兄さんの表情は、さっきよりも優しい。ほっと、緊張していた心が和らぐのを感じて、甘えるように店の奥、靴を脱いでちょっとした土間に上がり、座った。しばらくして、マグカップを二つ、現れたお兄さんは自分の前と私の前にカップを置いて、で、とレンズ越しに私をじっと見据えた。
「全部ここに置いていきなよ。酸いも甘いも、辛いもすべて」
「……ありがとう、お兄さん……あのね――」
ありがとう、また来てよ、と笑うお兄さんに手を振り返しながら、私は新しく腕にビニール袋を抱えて帰る。袋の中には勧められた葉っぱのような植物の苗と、土と、適切な肥料、そして……お兄さん直筆、育てかたのポイントまとめの紙が入っている。
あの日、あの時。心も天気も土砂降りだったあの日にたまたま目が合ったお兄さんに貰った観葉植物から始まった、私のちいさな恋は……まだ、部屋に溢れている植物たちよりも、ずっと育つのが遅いようだが、それでいい。
育ちきってしまったら、きっともう、"お兄さん"とは会えなくなるのだから。
畳む



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