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カテゴリ「SS」に属する投稿24件]

Icon of reverseroof リュウ みなつむSS だれかの日記


―月―日
    今日はアイドリッシュセブンの晴れ舞台!ライブの日の彼らは何度観ても、どこから見ても、むしろ見る度にどんどんすごくなる!私の自慢のアイドル。私の自慢の虹!
    うーん、もっと演出勉強して、今日よりもみんなを輝かせたいな。
    そういえば今日は皆さんを招待してたんだ。彼にも……今日の感想、聞いてみようかな。

―月―日
    最近、ちょっと忙しい。空き時間に勉強してるからかも。スキマ時間以外はずっと仕事。
    あ、そういえば……連絡、返したっけ?返してないかも……今からラビチャ返そう。怒ってない……よね?

―月―日
    しばらく日記書くのも忘れてた。
    疲れたなあ。
    会いたいな。

―月―日
     今日、久々に彼に会った!お仕事だったのに、帰りに家に寄ってくれた。
    夕ご飯を一緒に食べた。今日の煮物はお口にあったみたい。彼の好物はメモしてるから、追加しておこうかな。

―月―日
    あー。生理近づくと、こう……アレだね、アレ……むらっとするというか……。
    日記だとなんでも書いちゃうな。
    最近、彼とそういうことないな。私も彼も忙しくてそもそも会えてないしね。
    一日中ずっとそういうことする日とか、欲しい……なんて、彼には内緒ね。

―月―日
    体調が悪い。
    経血が多い。
    女ってめんどくさいなぁ……。
    今日のお仕事は万理さんに代わってもらった。申し訳ないよお……。

―月―日
    生理痛で寝込んでて、ふと起きたら彼がベッドにいた。びっくりした。痛み止めとお腹をあっためるものを持ってきてくれてた。
    日記だから書いちゃうけど、見た目があんなにすごいかっこいいのにこんな風に気遣いも出来ちゃったり、ほんとに……私にはもったいないくらいの……でも自慢の彼!
    気を使ってささっと帰ってくれた。でも……キスくらい、して欲しかったな、なーんて……。

―月―日
    彼と喧嘩した。もちろん、私たちの関係性は……うん。日記にも書けない、けど。
    確かに覚悟はしてた。でも、たまーに……。
    街中で腕を組んでるカップルとかが、他の人の目も気にせずに「あれほし〜買ってよ〜」とか言ってるのとか……高校生カップルが手繋いで渋谷歩いてたり……カフェでデートしてる人達とか……。
    あ、プレゼントが欲しいってことじゃない!違う、そうじゃなくって。
    ……仲直り、するべきだよね。
    私が悪かったんだ。

―月―日
    もう、私たち、ダメなのかなー……
    ……こんな仕事じゃ、恋愛なんかろくにできないか。
    いや、でもまあ、彼がそもそも普通の人でもないから……。
    ……日記ですら色々と書けないのが、少し心苦しい。

―月―日
    びっくりした。今日、家に帰ってきたらいつの間にか鞄にラッピングされたものが入ってて、慌てて開けたら手紙がついてた。彼からだった。
    この前は私も言いすぎました。これからも私と一緒にいてくれませんか、だって。苦労はかけるかもしれませんが、貴方と一緒にいたい気持ちは同じなんです、信じられないかもしれないけれど……だって。
    信じられないわけない!私だって、アイドルのマネージャーやってるから、アイドルの彼らをずっと見てるから。彼のやりたいこととか、夢とか、そういうもの、理解できないわけじゃないから。ただ、ちょっと……寂しくなっちゃった、だけだったから……。
    あーあ。彼はこんなにも考えて考えて、向こうから行動も起こしてくれたのに、私といえば子供っぽいわがままばっかで困らせて……。
    ……プレゼント、嬉しいな。……ストールだ。……お仕事でしれっと、使っちゃっても……いいよね?
    あー。誰かに自慢、したいよう……彼から貰った、って言いたいよう……。
    お返し、何がいいかな。

―月―日
    あの喧嘩のあとから、私に気を使ってくれてるんだと思うけど、空いてる時間に通話のお誘いが来るようになった。会うのは難しいけど、喋るのなら時間が作りやすいからって、そうやって考えてくれていたことが嬉しい。
    ほんとは会いたい!もう、いまも会いたくて……ぎゅって……してほしい。……また長いこと会えてない。彼の匂いを忘れてしまいそうで、怖い。力いっぱい抱きしめてくれる時、力強くて痛いくらいなのも、忘れたくない……。
    でも、声が聞けるだけでも……とっても嬉しい。さっきもちょっとだけ喋った。えへへ、いま、しあわせ。

―月―日
    誕生日のお祝いをさせてくださいって言われた。覚えててくれたんだ……せっかく会っていたのに嬉しすぎて、私変な顔してなかったかな?
    お店どこがいいですかって言われて、思いつくお店あげてみたけど少しだけ困った顔をされただけだった。まあ、そりゃ、やっぱ私たちじゃ、こう……年相応のカップルが行くようなミーハーなとこはダメだよね……。むしろ彼が広告になってるくらいだもんね……(これって、ギリセーフかな……日記にどこまで書いていいかいつも悩むなあ)
    サプライズじゃなくてすみません、って言われたけど、むしろ楽しみができて仕事に張合いが出たって言ったら笑われちゃった。貴方は仕事ばっかり、だって。
    よーし!楽しみもできたし、二週間休み無しフル活動だけど、アイドリッシュセブンのために頑張るぞ!

―月―日
    体調が悪い。
    疲れが溜まってるのかな。
    気付いたら寝てて、彼からのラビチャ、不在ばっかり……ごめんなさい……。

―月―日
    あと三日で休み。
    あと三日で休み。

―月―日
    ーーーー(ぐちゃぐちゃとした線がまばらに描かれているが、意図も文字も読めない)

―月―日
    ……もう、生きていたくない……。
    みんなに、申し訳が立たない……。
    週刊誌の表紙やインターネットを見るのが、怖い。

―月―日
    部屋でぼーっとしてたら、いつの間にか彼がいた。お父さんが案内してきてくれたんだって言ってた。顔が合わせられなかったのに、涙止まんなくて、私が泣き止むまで抱きしめててくれた。
    貴方のせいじゃありませんからねって何回も言われたけど、言われるたびに苦しくなった。
    一番恐れていたことになった。
    私は彼の人生を壊した……もう、何しても償いきれないよ……。

―月―日
    彼、今日も来た。会いたくない、って言ってドア越しに追い返しちゃった。なんか……悲しそうだった気がする……ごめんなさい……。
    会いたいよ。ぎゅってしてほしいよ。不安だよ。でも……。
    ……お別れ、しないと。そんでもって、広まってるスキャンダルは事実無根ってことでなんとかしないと……。
    ……私たち、付き合っていたことすら嘘にしなきゃいけないんだ。
    彼と付き合うまでは、当然だって思ってた。有名人の熱愛発覚って、結構ショックだったし。でも、いまは……。
    彼も、私も、ただひとりの人間としてお互いを好きになっただけなのに、どうしてこんなに知らない人達にやんや言われないといけないんだろう。
    彼の精神が心配。でも私に出来るのは、謹慎くらい……。

―月―日
    一ヶ月も引きこもってたから、現場復帰初日の今日、ガチガチに緊張しちゃった。
    あっちこっちでひそひそ言われてるの聞こえてた。また彼に迷惑かけちゃったな。アイドリッシュセブンのみんなもなんかこう、腫れ物触るみたいだったし……申し訳ない……。
    ずっとラビチャも無視してたから、今日彼のユニットメンバーづてに伝言を預かった。結局私の誕生日を祝えなかったから、祝わせて欲しい、いつなら空いているか、だって。こんな形で皆さんにバレるの、最悪だったな……。
    ……最後に。本当に最後に、会いたいって思っちゃってる自分がいる。これって……甘えても、いいのかな……。
   お別れのプレゼント、用意しておこう。

―月―日
    明日、彼との食事の日。
    楽しみなのに、これが最後だと思うと苦しいな。変な汗ばっか出るし。色々思い出して、きついな〜……。
    別れましょうって、ちゃんと言えるかな。練習していこう。
    泣かないようにしなくちゃね。

―月―日
    別れを切り出したら、なんか、結婚する話になってた。
    ……?
    今日は、寝よう……久しぶりに彼と抱き合ったりしたし、頭が働いてないのかも……。今日の彼、なんか……優しかったな……。

―月―日
    だんだん落ち着いてきたら冷静になってきた……けど、え!?ってなった。私、プロポーズされたってこと……?
    彼に本気だったのか改めて通話で聞いてしまった。何馬鹿なこと言ってるんですかって一蹴されちゃったけど。
    でも確かに、彼が言うように、結婚報道を間近に控えていました、バレちゃいましたけど、っていうのは鎮火にはいいのかも……?
    ……。
    私、なんかうまく言いくるめられてたり、する?

―月―日
    あれ、なんか……一緒に住む家の話とか決まってる……。

―月―日
    引越しの日取りが決まってた。
    彼が家に来て、判子あります?って聞かれたからここにありますよ〜って言ってたら、なんか婚姻届完成してた……んだよね。
    明日出しに行きましょうね、って言われた。珍しく二人ともオフなので、そのままちょっとデートしましょう、だって。
    うーん……?

―月―日
    名字が変わった。
    棗紡。
    二文字になったなぁ、って思った。
    デートでいっぱい手繋いでくれて、エスコートしてくれて、嬉しかったな。
    もう隠す必要ないですからね、少しくらいなら見せつけてやっていいんですよ、って言われて。嬉しかったなぁ。
    これからはもう少し、二人でお外に行けたりするんだろうか。

―月―日
    結婚報道の日だった。ずっと怖くてヒヤヒヤしてたけど、ナギさんが彼なら大丈夫ですよって、一緒に会見を見守ってくれた。
    ネットでは賛否両論。でも結婚間近で用意してて、実際にもう結婚してます、っていうのがなんか、よかったらしい?
    本当のファンならそのうち戻ってきますよ、って彼は笑ってた。芸能人ってやっぱりタフだなって思った。

―月―日
    一緒に暮らし始めた。彼……ってもう書かなくていいのか、付き合ってるっていうか結婚してるの報道されたから……巳波さんはびっくりするほど物が少ない!だから私の物で部屋がいっぱいになっちゃったけど、そのままでいいですよって言われた。
    結婚式してないから結婚の実感はなかったけど、巳波さんに一日「お嫁さん」だの「妻」だの「奥さん」だの呼ばれてるうちに、なんか……ああ、結婚したんだなぁって思った。
    でもいつか……ウエディングドレス、着たいなぁ。

―月―日
    家族親戚とお世話になっている関係者の方々をお招きして結婚式をした。
    巳波さんは本当に綺麗で……惚れ惚れしちゃった。ウエディング雑誌の表紙の撮影みたいだなって思ってたのに、私に誓いの言葉言うし、私にキスするし、現実なんだなぁって思った。
    お父さん、めちゃくちゃ泣いてて面白かったな。皆さんが用意してくれたプレゼントや余興もすごく嬉しかった。
    今日、一生忘れられない日になりそう。

―月―日
    幸せだなあ。

―月―日
    ここを区切りに、日記の存在を忘れてしまったのか、書く必要がなくなったのかは知らないが、途切れている。たまたま見つけてしまっただけなのだが……読んでしまった。
    また紡さんが日記を書こうとした時にびっくりさせてみたいので、ここには今日の私の日記を書いておく。彼女、どんな顔を見せてくれるだろうか。
    ねえ、紡さん。私も今、幸せですよ。
    一生離さない。
    次に私か貴方のどちらかがこの日記を思い出し、中を開く時にも、私たちは一緒に幸せでいましょうね。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS R18 欲望


金さえ出せば、世の中とんでもない物が手に入ったりするものだ。手に入った錠剤を見た時には懐疑的だったが、こっそり溶かした水を彼女が飲んで一時間、その説明の全てが嘘ではなかったことに驚いた。
「なつめ、さん」
    荒くなっていく息と、熱を帯びていく体。濡れた瞳が、私をじっと見据えて、欲情していた。

    眠ればすべて、その日の相手の記憶が消える媚薬。手にしたのは胡散臭い上に倫理的に問題がある一錠だった。しかし、そもそも注文した時から理性など壊れてしまっている。彼女に一服盛ることに対しての罪悪感はもはやなかった。
    性的に解放的になった女性に冷めてしまうのではないかと少し思っていたが、彼女はそれでも男慣れしていないことを隠せておらず、そういったところが酷く扇情的に思えて……私は彼女が声を上げるところへ、体を震わせる所へ、手を滑り込ませ、舌先でなぞり、足を絡めた。邪魔な衣服を乱暴に脱がせてしまうと、ふとひとつ、何か彼女のジャケットのボタンが飛んだような気がしたが、私も私で余裕がなく……まあ、いいか、などとらしくなく放り出し、露わになった彼女の首筋から乳房まで唇を這わせた。彼女が声をあげるほどに、私の体の中に一本通っている筋が抑えられなくなっていく。
「……ねえ、名前を、呼んで……」
    彼女にそういった意識が残っているのかはよくわからなかったのに、私はそう言った。気づいたら、言っていた。抑えきれずに彼女の秘部と私の秘部が擦れ合い、淫らな音を立てる部屋の中で、私のそんな願いは、酷く不似合いにも思えた。だが。
「……な、つめ、さん」
    彼女は無自覚にであろう、私のものに自分の秘部を擦り付けながら……時に入口へ誘おうとしながら、甘い声でそう言った。
    びりっ、と、脳のどこかが痺れる感覚がした。ぷつん、となにかの糸が切れた音が聞こえた。私は動きを止め、しっかりと彼女の入口を自分の先で捕らえてから、そのまま思い切り――奥まで押し込んだ。彼女が荒く叫びながら体内を震わせて、私をぎゅうぎゅうと絞るように刺激する。甘い。耐えられない。唇を合わせて、舌を絡め、体を好きに触り、舐めまわし、しかし腰は止めずに。彼女はいくらでも喘いだ。私も獣のように彼女の中に自分を打ち付けるのを辞めなかった。
「……ねえ、名前、名前を、呼んで……」
「あ、あ、な、なつめ、さ」
「……みなみ、って……」
    巳波って呼んで。なんて馬鹿なのだろう、と思いながらそう言って抱きしめると……小さく、しかし彼女は確かに呼んだ。
    みなみ、さん……。
「……ああ、小鳥遊さん。……紡さん……紡。紡、紡……」
    角度を変えて、もう一度。それを繰り返し。言えば彼女は私の名前を呼んだ。それ以外は、喘いでいるだけなのに。私はずっと彼女の名を呼んでいた。呼び続けた。呼び続けながら、中に、奥に、その奥に。どこまでも彼女の奥へ行きたくて、仕方がなくて、また体位を変えて、もっと奥へ、奥へ、乱暴に彼女を抱き続ける。何度も彼女が達する度に、中で私を締め上げる。耐え難いほどの、快楽。私も、気を抜いたらうっかり……すべてをぶちまけてしまいそうな、快感。けれど、まだ。まだ、感じていたい、まだこのままでいたい、と耐えて、耐えて、息を吸っては吐いて、彼女を貪った。
    彼女は……どんな相手に告白されても同じ言葉で断っている。そんな様子を見ているうちに、芽生えていたこの恋情を叶えるのは無理だと早々に諦めようとした。けれど、出来なかった。彼女を見る度に、心が締め付けられていく。私が離れようとしても、彼女は私のパーソナルスペースに土足で踏み込んでくるし、私はそれが嫌ではない。どうしようもなかった。
    だから。
    だから、これで、最後にしたかったのだ。
「ああ、紡……紡、紡……」
    名前を呼んだ。何度も。何度も。未来永劫、呼ぶことがないであろう人の名前を。愛する人の名前を。立ち上ってくる快感と絶頂の気配に、私は……彼女を抱きしめて、押さえつけて、そのまま欲望のすべてで彼女を突き続けた。
    ――一日ですべて忘れてしまう薬。彼女はもう、明日すべて忘れているのだろう。達する直前、私は抑えられない声を吐き出しながら、また彼女に言った。
「呼んで。呼んで。私を……呼んで」
「あ、ああ。ああ……あっ、……み、………」
    ――みなみ、さん。
「……つむ、ぎ……」
    荒い息を吐き出しながら。全身で呼吸しながら。しかし、私は彼女の体を離さなかった。ひとつになったまま。彼女の奥と、繋がったまま。私は彼女を抱きしめたまま……その間には僅かコンマ数ミリの厚みすらない、私たちは真に繋がったまま、しばらくそうしていた。どろ、どろりと、自分の中から彼女の中へ、何かが流れ込んでいくのを感じながら。それに――満足しながら。彼女の唇を奪って、また、何度も唇を重ねて。
「……愛してる」
    ぎゅっと抱きしめた彼女は、もうすやすやと眠ってしまっていた。私はしばらくしてから彼女から体を離し、タオルで彼女の体を綺麗に拭いてから、服装を戻していく。しかし……彼女の中から私の欲望が流れ出していくのが嫌で、指で詰め込んだ。何度も押し戻した。何度も、何度も。無駄だとわかっているのに、もう、流れてこなくなるくらいまで……。
「……本当に好き、だったのにな」
    私に残るのはこんな思い出だけ。相手に薬を飲ませて、それでいいようにして、果ては避妊もせず無責任に欲望のままに貪っただけ。
    虚しい。性行為の後の脱力感も加わり、私はなんだかより惨めになってしまった気分のまま、彼女のアパートを後にした。

    何度もシミュレートして、いつも通り彼女に挨拶をして。翌日以降の彼女はいつもと何も変わらないままだった。天真爛漫な笑顔のまま、誰との距離も近く、しかし最後のラインは超えさせない。超えたことは、私の中だけの秘密だ。
    休憩時間が重なって、彼女とのんびり会話をしながら、自分の感情に特に変化はなかったのかもしれない、なんて思う。一晩ですっぱりと諦められる恋ではなかった。ましてや、あんな姿を見て……。しかし、最初から最後まで許されざる行為をした自分には、今度こそ彼女に想いを伝える資格などないと思った。今では毎日、少しずつ小さな諦めを重ねてみている。いつか、もういいや、となれるように。良き友でいられるように。
    やがて時が経ち、休憩時間を彼女と二人で過ごしていると、そういえば、と彼女が切り出した。
「最近、体調があまり思わしくなくて。……その、男性に言うのはアレかもしれませんが……生理も、しばらく来てなくて不安なんですよね……」
「……え」
    ピリッ、と急に空気が冷えた気がして、私は頬をかいた。
    大丈夫ですか?病院には行きましたか。普通ならさらっと言えたであろう言葉が、すぐに言えない。
    ――言えるわけが無い。
「心当たりは、何も無いんですよね。私、その……こ、恋人も……いなくて……」
    ――心当たりなら、思い切り、ある。
「……す、すみません。棗さん博識だから、こういう時どうしたらいいかアドバイスくださるかなー、なんて一瞬思ってしまって。あとそういえば私、ジャケットのボタンも一個どっかに落としてて……あ、すみません、どうでもいい話ばっかりで……あはは、それでは……」
「……あ、ま、待って!」
「え……」
    離れようとした彼女の腕を慌てて掴んだ。彼女はぽかんとしたまま、私をじっと見つめている。純粋な眼のまま。私を何一つ疑わぬ、無垢な顔のまま。
「……ます」
「え?」
「……ついて行きます。婦人科……一緒に、予約取りましょう……」
「……なんで棗さんが……え?婦人科?」
「……私は……」
    しばらく言葉が出てこなかった。彼女の言葉に混乱していたし、しかしここですべて言ってしまって、全然違ったらどうする、という不安もあって。事実を知ったら、彼女は自分をどう思うかとか、他にも様々な弱い考えが一瞬頭を巡り……しかしやがて、小さく息を吸って。
「中途半端な男のままで、いたくないんですよ」
    今夜でも予定が合うなら夜間診察のところへ行きましょう、と半ば強引に誘い、他の人には口止めして、彼女を離した。終始混乱気味の彼女と別れてから、私は壁にもたれ掛かり……大きく、それはもう大きなため息をついた。
「……これが、責任、ってやつ……」
    もし、私が想像している通りだったら、彼女は突然の妊娠に何を思うのだろう。私との子供だと言われて、喜ぶだろうか?私が彼女をいいようにしたことが、果たして許されるのだろうか?
    嬉しい、では済まされない。気持ちいい、では終われない。勝手に私の感情が落ち着いてしまっても、これが現実。けれど、彼女へ言ったとおりだ。両頬をぱんと叩いて、前を見る。
    ――らしくない。
「……はあ。事実をまとめて、説明できるようにしておかないといけませんね……」
    みなみ、さん。
    忘れようとしていたあの日の彼女が私を呼ぶ声が聞こえた気がして、私はそっと、目を閉じた。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS 普通の女の子になったら


    彼女が退職する、と聞いた時には耳を疑ったものだが、アイドリッシュセブンがデビューし、売れ始めてから。さらに言うのなら、私たちズールがアイドルを始めてから。もう、長い時間が流れたのだと思い直せば、別に彼女が別の道を選ぶことや、第一線から退くことについては、なんらおかしいことではないのだと思い直した。
    私たちも全員よくお世話になったから、亥清さんや狗丸さんが率先しつつ、四人で彼女への餞別を用意することにした。よく一緒に仕事をした他の十二人も同じことを考えていたようで、十六人としても、各ユニットとしても、そして人によっては個人としても。二つから三つのプレゼントをこっそり用意するアイドルたちは、多忙に流されながらもそれを見守り、サポートし、応援してくれる彼女への想いを各々再確認しているように見えた。
    そこに、恋情を抱えたままの人間は見当たらなかった。ここ数年で、一時期は少しだけ噂になった八乙女さんも、距離が近いからと少し疑われたことがある和泉さんや七瀬さんも、現在は別に彼女に対して恋愛感情を持っていなかった。
    割り切れていないまま、ずっとずっとそれをひた隠しにしてきていたのは、私だけだった。
    私は、ある時から彼女への恋情を自覚し……しかし、彼女と私の立場、彼女のスタンス、私の活動についての事情、アイドルというもの、その他様々な事情から、この想いはそのまま消えていくまで誰にもわからないように押し込めておこうと思っていた。誰かに告げたところで変な噂が立つ。それは私にも、彼女にとってもマイナスなことだ。面倒見がよく、可愛らしく、頼りにされがちな彼女はよく芸能人から声をかけられていたけれど、その全てをきっぱりとひとつ同じ理由で断っていたのを見て……私もまた、絶対に言うまいと心に秘めたまま過ごしてきていた。
    タレントのマネージャーをしている以上、タレントとは付き合わない。それが彼女の決意のようだった。
    それならば、と私は、自室で雑誌を捲りながら――大人の女性に人気のファッションブランドを見て、彼女に何が似合うか思いうかべながら――ぼんやり思う。
    マネージャーではなくなる彼女は、タレントとの恋愛関係をどう思うのだろうか、と。

    彼女の退職が近づいてくると、現場によっては彼女の送別会が行われたり、プレゼントが渡されたり、彼女はそんな待遇に「自分がタレントではないのに」と困ったようにしていたが、それだけ色んな人に慕われる存在だったのだと皆が言った。彼女はそれを聞いて、心から嬉しそうにするのだった。
    私と彼女も終わりがけの現場で一緒になることがあった。彼女は相変わらず私に屈託のない笑顔で接する。これまで色んな男性が勘違いさせられ、または惑わされてきたこの笑顔が、私もまた、好きだった。休憩時間に少し手持ち無沙汰にしていた彼女に私は声をかけて、ケータリングのパンを手渡して、隣で食べた。
「小鳥遊さん、その。どうして、このお仕事を辞められるんですか」
    これだけ噂になっていて、いつもの現場で彼女の退職を知らない人はいないくらいだったのに、不思議なくらい、その理由は聞いていなかった。彼女はパンを口いっぱいに頬張っており、それをなんとか飲み込んでから、笑って言った。
「現状に不満があって辞めるわけじゃないんです。このお仕事はとても好きですし。ですが……私、高校卒業してすぐずっとこのお仕事やってきて。うーん、言葉にすると難しいな。何でしょう、少し……自分を見つめ直したい……とか?」
「業界に戻ってくる予定はあるんですか?演出家のお仕事も」
「そうですね……演出も、しばらくはお休みする予定なんです。ただ、アイドリッシュセブンのみなさんについてはやらせて頂くこともあるかと思います……えへへ、みなさんが……そう希望してくださって……」
「……彼らは貴方のお仕事が好きなんですよ。……私も」
「棗さんにそう言っていただけて恐縮です」
    そう言いながら笑う彼女は、結局綺麗な言葉で言語化できない気持ちを持て余していたようで、聞いてみればそれが数年間続き、一区切りとして一度業界を離れることを提案されたという。転職先はもう決まっていて、業界とは少し遠いところにある業種の事務をやるのだと言っていた。
「……結婚でもするのかと思っていました」
「け、結婚!?」
「だって貴方、タレントさんに好かれやすいのに全てお断りしていたんでしょう。仕事と恋愛をはかりにかけた結果だったのかな、なんて思っていました」
    そう言って私は笑った。しかし心中は穏やかではなかった。聞きたかったけれど、聞けなかったこと。誰かと結婚するから、理由をつけて業界を離れることにしたのではないか。本当は誰か相手がいたのでは無いか。逆に、一般男性とだって、十二分に。
    けれど。
「まさか!恋人だっていませんよ、もうずっと……業界に入ってから。恋愛なんかしてる暇、ありませんでしたからね」
「……そうですか」
    私はそう返しながら、安堵と落胆に同時に襲われた。
    彼女に今、意中の相手はいない。これは私にとってはチャンスだろう。しかし。
    意中の相手がいたら、すっぱり諦めてしまえたのに。
    休憩時間が終わる。彼女は私に軽く頭を下げてから去っていく。私はパンの残りを無理やり口に押し込んで、ミルクティーで飲み干した。ろくに噛まず胃に押し込んだ。硬いまま飲み込めば、想いも一緒に流して消化できるのではないかと思ったが、結局魚の小骨のように喉元から消えることはなかった。

    彼女の送別会を、十六人のアイドルとそのマネージャーや関係者で行った。いよいよ退職間際のことだった。
    人気アイドルが十六人、個人のために一堂に会するのは圧巻の出来事だっただろう。私たちはスケジュールの網の目を縫って計画し、実行した。実際に遅刻してくる者も、途中で抜けていく者もいたが、十六人と彼女、それから各々のマネージャーたちで集合写真を撮ることが出来た。面倒見のいい百さんが全員分用意して、データと一緒にアナログ写真をくれた。現代において、アナログ印刷された写真はなんだか特別な意味を持つような気がしていたが、それは彼女も同じようで……貰ってからずっと、彼女はその写真を大切そうに眺めていた。同じように、彼女へ宛てた大量のプレゼントは、机の上にまとめてある。私もそっと、そこに自分のプレゼントを置いた。
    私たちはとっくにもう全員成人している。彼女はあまりお酒に強くない。ここでは無理に飲みを強要する者はいないが、浮かれた彼女は自分でそれなりの量を飲んだようだった。すっかり彼女とのお別れを終えた各々が歓談し始める中、彼女は少しふらつきながら窓の傍に体を預け、外を見ているようだった。ズールのメンバーも各々自由にし始めたところで、私はさりげなく彼女のもとへ水を持って行った。
    どうぞ、と水を差し出すと、彼女はふにゃふにゃになった顔でありがとうございます、とへらへら笑った。しかし手はなかなかグラスを掴めていない。私はそっと彼女の手を取り、その手にしっかりとグラスを持たせてから手を離した。ちびちびと水を飲みながら、彼女はありがとうございます、と笑った。
「嬉しくって、ちょっと飲みすぎちゃいましたぁ」
「だいぶだと思いますよ。そんなに酔ってるの、その、あまり見かけませんから」
「そうですか〜?よく飲まされてますよぉ」
「そうですけど……仕事の緊張感がないから酔ってしまったんじゃないですか。もうこれ以上はオススメしませんよ」
「……えへへ。棗さん、お父さんみたいだなぁ」
    無邪気に、にぱ、と笑う彼女を見て、今日はもうダメみたいだな、と内心笑ってしまう。仕事の時に一瞬も気を抜いていない彼女だからこそ、こんな顔を見てしまったら……もちろん今日は私だけが見ている訳でもないのに……嗚呼。独占深い感情が渦巻くのをどうにか振り払い、私も彼女の傍で烏龍茶を飲んだ。
「何を見ているんですか」
    彼女がずっと眺めているのは夜景だった。今夜は月が大きな日だったが、都心では星はほとんど見えない。時計の針が一番上を通り越しても眠らない街を、彼女はじっと見つめていた。
「……何も、見てないんです、いま。しいていうなら……全部が始まった日のこと、かな、思い出を見てる……」
「……どんな日だったか、聞いても、いいですか」
「……始まり……と、呼べるのは……どこでしょうね……ですが……みなさんが……いや……私が……」
    彼女はいざ話すとなると迷い始め、そして呂律は回っていなかった。考え始めたら思考が回らないことに気がついたのか、しばらくして何も言葉が出ない、と言って私に笑った。私もまた、微笑み返す。
    やがて彼女が潰れそうになっているのに気づいた百さんが場を閉める。今夜はマネージャーも全員飲んだ。各々事務所の運転係を呼んで、解散となった。

    彼女の退職が来週になった。スケジュールを確認して、その日までにアイドリッシュセブンやメッゾと現場が重なる日は数える程しかなかった。現場に来るのが彼女とも限らない。もう、会えないかもしれないのか、と思うと非常に落ち着かず、どうしようもない気分になった。我ながら、愚かしいとすら思った。
    残念と言うべきか、自分はこんなに彼女を想っていても、今以上に親しくなろうと努力をしたことがまるでなかった。時間の経過と会う回数が私たちをここまで親しくさせてくれたけれど、それ以上でもそれ以下でもない。何らかの理由をつけて二人で食事に行ったことすらなかった。だから……彼女から見て私は、良くも悪くも親しい方の仕事仲間でしかない。他の人のようにもっと休日に遊びに誘うような仲になっていたら、退職後も連絡をする理由があるのかもしれないけれど……私にはそれが全くないのだ。
    そして、たとえ退職後の彼女に勇気を出して連絡をしても、彼女が無視をすることだって可能だし、彼女はプライベート用にラビチャのアカウントを変えるかもしれない。そうしたらもう、連絡を取る手段もない。
    こんなに希薄な関係なのに、彼女を想い続けてしまっている自分を嘲笑いつつ、私は……送別会で置いてこなかった、否……置いてこれなかった小さなプレゼントを、鞄の中で手で回したり、転がしたりして、どうしたらいいのか考えあぐねていた。
    彼女は私をどう思っているのだろう。ふと、そんなことを思う。もしかして、本当にもしかしたら、私のように実はずっと想いを秘めていて……いや。そんなろくでもない期待、するべきではない。息を吐いて、そっと鞄から手を出した。スマホをタップして、ラビチャの彼女とのトークを開いた。履歴は事務的な話ばかり。たまに私の仕事ぶりを褒めてくれたり、その逆もある。しかし、本当になんてことのない他愛ない会話は無いに等しかった。これが、私たちの関係の全てで、現実なのだ。他人から見た通り、私たちは悲しいほどに、何でもなかった。
    彼女の退職日が近づいていく。自分でも無自覚に、その日にだけスケジュール帳に印を付けてしまっていた。終えた日にはバツを付けていく。会えなかった。今日も。また今日も。近づいていくその日が、何故だか恐ろしかった。そうして、最後に会える可能性を秘めたその日……私は二階堂さんと共演するドラマの番宣に出たバラエティ番組で、彼女と会った。
    悲しいほどに、私たちはいつも通りだった。会って挨拶をして、収録をして、休憩中に談笑して、そうして収録が終わる。二階堂さんに次のスケジュールを告げている彼女を少し離れたところで見ながら、私も次のスケジュールに時間があまりないことを頭では考えながら……その場から動けずにいた。先に現場を出たのは二階堂さんで、彼女はひたすら現場で終わりの挨拶をして回る。……やがて彼女は私を見つけて、何故か立ちすくんでいる私にも挨拶をしに近づいてきた。
「棗さん、本日はお疲れ様でした。大和さんとの共演、よろしくお願いいたします」
    それだけ、それだけだ。いつも通りで、彼女らしくて、その顔は次の仕事のことしか考えていない。私が恋した彼女そのまま。私も反射的によろしくお願いしますね、と口にしているようだった。なんだか幽体離脱でもしたかのように、自分が遠い。私はどうやら彼女とほんの少し世間話をしている。何を話しているのだろう。わからない……頭と、口と、心と、体が、すべてバラバラで、失敗したジェンガのように崩れていくような感覚に襲われて。
    ――やがて、棗さん、棗さん、と呼ばれながら体が揺れているのに気づいて、はっとした。彼女が私の腕を掴んで体を揺さぶっていたのだ。動き回っていた彼女の手は、スタジオにずっといた私の体温より冷たかった。
「大丈夫ですか?なんだか、ぼんやりされていて……もしかして、その、体調が……」
「……ああ、すみません、ええと。私……何か変なこと、言っていましたか?」
「え?いいえ……ただ、なんか、途中で電池が切れたみたいに動かなくなっちゃったから……心配で……あ!」
    突然、すみません、と言って彼女は慌てて私の体から手を離した。勝手にお体に触ってしまいすみません、ともう一度彼女は慌てて頭を下げた。私は彼女が掴んでいたところをそっと手で撫でてから、お気になさらず、と呟くように言った。間、これではもう仕事に差し支える、どうせ終わるのなら終わらせてしまおう、私の側面の一つである極端な思考が勝って、挨拶をそこそこに踵を返そうとした彼女の肩を、今度は私が掴んだ。彼女は動きを止めて、こちらを見て目を丸くしている。
「……あの、小鳥遊さん」
「は、はい……」
    私から彼女に、こんなに乱暴なアクションをしたことはなかった。私も相手に鼓動が聞こえていないだろうかと心配するほどであったが、彼女もなんだか身を硬くしながらその続きを待ってくれている。……しかし、実は何も続きなんて考えていなかった。苦し紛れに声をかけた。名前を呼んだ。時間が過ぎてしまう。もう会えないかもしれない。時間が無い、時間が……。
    ……いや。私は俳優だ。そう思い直すと、ほんの少し冷静になって……そう、これはきっと、恋愛ドラマの一場面で。私は想いが叶うことがない、"主人公"に振られてしまう噛ませ役で。ずっと想いを抱えていたが、彼女に会えるのは今日が最後だ。だから。いつもは大人しく、彼女を見守っているだけだった"彼"は……少し、大胆な行動を取るのだ。そうして、物語は最大の見せ場を得る。視聴者は次回、彼女がメインの"お相手"と別の男との関係にどのような表情を見せていくのか、展開が気になっていく。そうだ。
    見せ場を作るのは、苦手では無い。
「……今夜、お時間ありませんか」
「……え」
「夕食、ご一緒にいかがですか。……私たち、二人で」
「……え……っと……」
「……嫌いなものはありますか?お店、予約しておきますから」
「あの、棗さ……」
「時間、あとでラビチャしてください。今日は私、夜のスケジュールは空いていますので、合わせられますから……それでは、すみません、次の現場へ向かわないと」
「あ、あの…………」
「ご連絡、待ってますからね」
    そう言いながらも、彼女の返事は待たない。そう。"主人公"の返事を待たず、"彼"は去っていく。"彼"は至って冷静な雰囲気を保ってはいるが、内心非常に穏やかではなく、しかし"彼"は期待と歓びで高揚しながら、次の仕事へ向かう。"彼"の足取りは、今までずっと想いを秘め続けていたその時よりも、遥かに軽いのだ。
    役名は、棗巳波。"主人公"に振られ、"主人公"と"お相手"の愛を深める為だけに用意された、哀れな傀儡だ。その"お相手"がいつどこで誰なのかは、私にも分からないが。

    役名、棗巳波の本日の私は、その後の仕事を完璧にやりおおせた。はずだ。隙間時間には慌ててディナーのための店を探した。しかしながら、今日調べて今夜予約できるような洒落た店はあまり存在しない。かと言って、私の一世一代の……否。"彼"の一世一代の名場面が、大衆居酒屋なんてのはあまり相応しくないように思えて、懸命に探した。私があまりに真剣にしているからかもしれないが、途中までグループの皆は私に話しかけてこなかったが、不意に肩を叩かれた。
    御堂さんだった。
「何を探してる」
「……えっと」
    ふと後ろを見ると、三人並んで立っている。椅子に座って私が扱っているスマホの画面がちらちら見えたのだろう、検索ばかり行っているのがバレている。
「俺達も探すよ、何、大事なもの?」
「ほら、人づての方が早いかもしんねえしさ」
「……えと……」
    急に親しい人間に話しかけられて、私はすっかり私に戻ってしまっている。おたおたとしていると、御堂さんがいつになく鋭い目で私を見つめていた。そういえば、さっき切り出したのも御堂さんだったか。
    ――嗚呼。何も言わないでいてくれているけれど、恐らく、彼に……何かが、バレているのだろう。
「……御堂さん、ちょっと……」
    そっと手招きすると、亥清さんと狗丸さんは何やら微妙な顔をしていたけれど、御堂さんは素直にそっと私の顔に耳を寄せてくれた。
「……そうおっしゃるからには、良いお店でもご紹介してくださるんですよね」
「……なんで『お願いします、教えてください』とか言えないんだ?」
「……そ、その……いえ……それではお願いします、教えてください」
「なんで今度は素直にそんなこと言うんだ。なんか巳波らしくないぞ」
「……」
「はあ、からかってすまなかった。今夜でいいのか?いいムードのホテルを知ってる、そこでよければ」
「ホテル……ホテルに……来てくれますかね……」
「ディナーを食べに行くだけだ、で押し切って、いい感じだったらそのまま部屋を取ればいいじゃないか」
「馬鹿ですか!?今日初めてアプローチするんですよ……」
    あ、言ってしまった、と思いつつ、我々はまたひそひそと続ける。
「わかった。じゃあ少しハードルを下げて……知り合いが隠れ家的にやってるレストランがあるんだ。そこを貸し切るのはどうだ、ホテルよりは誘いやすいか?」
「どんなお店です?」
「連れていって喜ばなかった女はいない」
「……」
「嫌ならやめておくが」
「……いえ、お願いします」
    御堂さんの価値観で店を選んで良いのか逡巡はしたものの、藁にもすがる思いで頭を下げた。御堂さんはすぐにどこかに電話をかけながら楽屋を出ていく。連絡を取ってくれているのだろう。
「……虎於に話して解決したっぽい?」
「えっと……ひとまずは……恐らく……」
「よかったじゃん!……それで、その……ミナ」
「巳波……」
「……はい?」
    いきなり名前を呼ばれ、ぽかんとしてしまった私に、二人は拳を握る。
「なんか知らないけど、頑張れ!」
「なんかわかんねーけど、うまくいくように願ってる!」
「え……」
「巳波、その……勝負前みたいな顔してたからさ……」
「なんか今日?大事なことがあんだろ?」
「……私、そんな顔、してたんですね……」
    頑張れ、と繰り返す二人と、楽屋に戻ってきて私に手で丸を作った御堂さんに頷いて、微笑んだ。もって三年だと言われていた私たちは、もうそれを遥かに超えるほど共にいる。長く共にいるとうんざりすることがないわけでもないけれど……大切な居場所だと、思い続けられている。
「当たって砕けてきたら、皆さんにお話しますから、笑って頂けますか」
「何砕ける前提なんだよ」
「ふふ、そういうシナリオなんですよ」
「誰の……?」
「……私の」
    ありがとうございます、と声をかけてから、私は彼女に詳しい店の位置を送った。返事を待つ時間もなく、私たちは仕事をこなす。休憩時間に返事を確認する。まだない。未読。仕事。繰り返す。連絡はない。ない。ない。ない。ない。
    繰り返し。そうして、いつしか日は暮れていた。

    家まで送らないでいいんですか、とマネージャーは首を傾げていて、私は笑顔で用事があるので、と頷いた。お気をつけて、と言い合って私は一人で街へ出て、しばらく歩いていた。たまに人の視線を感じたが、無視して人混みへ溶け込む。今日はオフの時間にファンに声をかけられているロスタイムは持ち合わせていない。
    御堂さんが送ってくれた店の場所を確かめた。一見では到底入りづらい狭く、暗く、しかし汚いというわけではないバランスの扉と地下へ通ずる階段。扉には「本日貸切」と貼られていた。確かに間違って誰かが入ってくることもなさそうで、私にとっては都合が良い店構えだった。
    何せ、人気タレントが一人の女性と密会しようというものなのだから。
    予約時間は彼女の都合を考えて少し遅めに伝えておいたので余裕はあったが、まだ彼女から返事は来ていなかった。しかし、既読にはなっている。私は返事が来るか来ないか、花占いのように頭の中で繰り返した。占いは趣味にしているが、だからこそ占いで何かを変えることは出来ないということを痛いほど知っている。いっそ魔法使いであったらよかったのにな、と現実逃避をする。杖を一振、彼女から返事が。いや、彼女の心を我が物に?……逡巡、私が求めているものはそんなものではないのだと思考を振り払う。
    予約時間の一時間前を切って、ぼんやりと、このまま返事が来なければズールの皆を誘って四人で貸し切るか、と思い始めていた。店を貸し切った以上、キャンセルなどはしたくない。その時は私が皆に奢るつもりでいよう……というよりも、私はそれを現実的に考え始め、ついにグループチャットに「皆さん夕飯でもご一緒にどうですか」と打とうとしていた、その時だった。
    スマホが僅かに震えた。画面上部に現れた通知は、彼女からのラビチャのものだった。すぐに既読になってしまったら怖がらせてしまう、なんて考えられないくらい、私は急いでそれを開いた。
    彼女とのトークルームに、新しいメッセージがぽつりとひとつ。
『ただいま仕事が終わりました。棗さん、まだ待ってくださっていますか』
    勿論です、お待ちしています、と返した。きっと、気色悪いくらい、一瞬で。

    待ち合わせは現地にした。並んで歩いているところを誰かに見られるのは都合が悪い。私は中で待っています、と伝えた。少し入りづらい店構えであることも、写真を添えて伝えた。いつになく饒舌なメッセージを送ってしまい、私は先に店内に入って待っていたが、一番広いテーブルに案内されてから、しばらく恥ずかしくなって、顔を手で覆っていた。
    店内は落ち着いた、しかし大人な雰囲気をもったレストランだった。暗めの照明の中に、さりげなく紫や青のライティングが施されていて、雰囲気としてはバーに近い。メニューに目を通したが、当初考えていたようなホテルのディナーに劣らないラインナップとクオリティ。それでいて価格は少し財布に優しい。流石御堂さんだな、と彼の育ちの良さと目利きに改めて感心した。同時に、頑張れ、と応援してくれた亥清さんと狗丸さんのことを想って、組んでは緩めてを繰り返していた両手をぎゅっと握った。
    演じろ、演じるのだ、早鐘を打つ鼓動を鎮めるために、私は目を閉じて考えた。私の脳内のこのドラマにおける、棗巳波という役柄のことを考え、役に入り込もうと必死になりながら、彼女を待った。それでも落ち着かず、彼女を待つ間に二回ほど水を貰い、店員にはさぞ喉が乾く客だと思われただろう。
    入口の扉が軋む音と、外の空気が流れ込んでくる気配で、彼女の来店に気づいた。彼女は仕事終わりの格好そのままであった。私に気づいて、落ち着かないように店内をきょろきょろと見回して、ゆっくりこちらへ近づいてくる。私は席を立ち、軽く手招きした。彼女も席へ来て、荷物を下ろす。お疲れ様です、とお互い声をかけながら、私はなんだかいつもより大人っぽい気がする彼女を隅まで盗み見た。やがて、その正体はいつもと違うメイクなのだと気づいた。髪の毛も軽く編み込んである。……私との待ち合わせに、ほんの少し手をかけてくれたという事実に、心が浮き足立つのを止められなかったが、顔に出ていなかっただろうか。
「な、なんだか素敵なお店……ですね?よく来るんですか」
「うふふ……いえ……初めてです」
    慣れています、と言ってしまえばよかったのだけれど、私は正直に答えた。
「御堂さんのご紹介で。いい雰囲気ですよね」
「え、それって結構お高いんじゃ……」
「それがそうでもないですよ。遠慮なく楽しんで下さいね」
「え、いや」
「ここは奢ります。円満退社のお祝いに」
「あ……ああ!そ、そうですよね……!そう、ですよね。ですよね!?ですよね……」
    何か慌てたようにひたすら呟いていた彼女のもとへ、店員が水を持ってきて、彼女はそれをそのまま飲み干した。喉が渇いていたらしい。私ももう一度飲み干して、二つ空のグラスが並んだ。私は彼女が来る前に穴が空くほど見つめたメニューをテーブルに広げ、彼女の側へ見せた。遠慮がちに顔を輝かせる彼女を微笑ましく見つめながら、目をつけていたコースを提案する。彼女も笑顔で頷いた。待たせていた店員に、ようやく注文をしてから、私たちは……どちらからともなく、黙ってしまった。
    何か話さなければ、と思いつつ、何から話せばいいのやらわからない。役に入ればどうにかなると思っていたのに、今の自分を他人のように思うことは不可能だった。目の前には好きな人がいる。今日を過ぎればもう二度と想いを告げられないかもしれない。数万人の前でステージに立つよりも、たった一人の彼女と二人きりでいることのほうが、ずっと緊張していた。彼女も彼女で、手を組んだり開いたり、何度も見ている店の内装を見てみたり、落ち着かない様子だ。やがて……意を決して、私が沈黙を崩した。
「今日は突然のお誘いに来てくださってありがとうございました」
「ああ、いえ……こちらこそ、すみません、お誘いいただいて……その……送別会なら、この前十分すぎるくらい開いて頂いたのに」
「ふふ、楽しかったですよね」
「ズールの皆さんにも、棗さんにも、プレゼント頂いてしまって……ストール、使わせていただいています、落ち着いた色合いで……とても好きです。ありがとうございます」
「喜んでもらえたのなら何よりです、一生懸命選んだので」
「……今日も、持ってきてるんですよ」
    彼女はそう言って微笑んで、鞄からベージュとブラウンのストライプのストールを覗かせた。私個人から彼女に宛てたプレゼントだった。
「……思った通り、よくお似合いです」
    微笑むと、彼女はまた鞄をしまった。そうこうしているうちに、テーブルに飲み物が置かれる。私と彼女のグラスにはお揃いで、スパークリングワインが注がれている。
「……先に、乾杯しましょうか。貴方の新しい門出に」
「……ありがとうございます」
    乾杯、彼女は私のグラスの飲み口よりも低い所へグラスを当てた。そのまま二人で一口飲む。
    すっきりとした味わいの、しかしほんのり甘い刺激が喉元を通るのが熱い。ほんの少し、脳の片隅が痺れ始めるのを感じていた。

    料理はどれも本当に素晴らしかった。黙りがちだった私たちは、料理が美味しいという話からようやく花が咲いたように喋り始め、酔いも回り始めたのか、彼女も私も、喋ったことがないくらい話題が尽きなくなった。大勢で話す時とはまた少し違って、彼女は私にたくさん初めての顔を見せてくれた。私は話を聴きながら、ころころと変わる彼女の表情に見惚れていた。店の雰囲気もあるのだろうか、元気いっぱいで無邪気なだけではない彼女に、ひどく女性としての色香を感じ、すっかり痺れてしまった脳のどこかが喉を鳴らす。
    やがてデザートを食べ終え、私たちは数杯目の酒を仰いで、彼女は見た目からしっかり酔っているようだった。私も私で、思考がまとまらなくなって来ている事には気づいていたが、もう一杯失礼します、と言って頼んだ。もう少しだけ、自分をどうにかしておきたかったのだ。彼女は律儀なもので、そう言うと自分も、ともう一杯頼んでしまった。酔ってしまった私たちは、けらけらと笑いながら、それじゃあもう一回、とグラスを重ねた。ガラスとガラスが当たる音が心地良い。
「……寂しいです」
    私がグラスに口を付けていた時、ぽつりと彼女はつぶやくように言った。両手でグラスを包むようにして持ち、その中の氷を見つめているようだった。
「寂しい……?」
「もう、私、退職なんだなぁって」
「……そう、ですね。貴方がお選びになったのだとお聞きしましたが」
「そうは言っても……こうやって……みなさんや……棗さんとかと……お話することも、なくなるでしょう」
    彼女が零した言葉で、私は急に冷水を浴びせられた心地になり、頭が冷めていくのを感じた。彼女は視線をグラスから移さないまま、ぽつりぽつりと続けていく。
「私、これでよかったかなぁ、なんて……最近ずっと思ってるんです。でも、まあ、良かったんですよね、たぶん……新しいこと経験して、若いうちにほら……戻ってきたかったら戻ってきていいからってお父さんも言ってくれたし……でも……うーん……」
「……貴方はご自分で思ってるより好かれているのだから、退職後も知り合いのタレントにコンタクト取ってお会いすることは出来ますよ、心配なさらなくても……アイドリッシュセブンも……貴方にお世話になった私たちも……誘われて断ったりはしませんよ」
「いいえ……一般人になるんです。一度皆さんの連絡先は消さなくちゃ。一応、事務所との約束なんです」
「……そうでしたか」
    やはりな、と思った。彼女の連絡先は変わる。彼女から私たちへのみならず、私たちから彼女へコンタクトする手段も失われる……。
「……ああ、寂しいなぁ。今日だって……誘っていただけて……嬉しかったですよ……び、びっくりしちゃったけど……こうやって門出をお祝いしていただいて……」
「びっくり……しました?」
「だ、だって。棗さんとお二人で……食事……って言われて……その……あはは。いえ、なんでも」
    何かを言おうとして、慌てたように笑った彼女は、髪の毛の先を人差し指でくるくると弄びながら、落ち着かない様子だった。そんな彼女を、肘を着いて眺めながら……私はなんだか酷く愛しく思えて……。
    もう一杯なにか飲もうかな、なんて言いながら笑った彼女の頬に、そっと手を添えた。触れた瞬間、彼女の体が跳ねた。目を丸くして、そんな私の手を、そして私の目を見つめた。私は構わず、その頬をそっと手の甲で……やがて、手のひらで、指で、なぞった。始めは何かを言おうとしていたように見えた彼女も、結局何も言わず、ただ黙って私に触れられたままでいた。
「……明日、早いですか」
「……どうして、そんなこと、聞くん、ですか」
「さて、どうしてでしょう」
    どうですか?と再度聞くも、彼女は少し俯いて……顔を赤くしたまま……私はそのまま手をずらして、親指で彼女の唇をなぞった。今度こそ彼女は体中で驚いて、私の手を振り払った。その頬が紅潮しているのは、酒のせいだけでは無いのだろう。
「……帰らなくちゃ」
    彼女はそう言いながら、私が触れたところを自分の指でなぞっていた。
「質問にはお答えいただいていないですけれど」
「うーんと……別に……早くない、です。引き継ぎは終わったから、退職までは定時から定時まで……今日はすこし残業しましたけど……」
「……そうですか」
「は、はい。以上です。……え、えっと、本日はご馳走様で……」
    慌てたようにそう口走り、彼女は帰り支度をしようとしている。けれど、私も勢いよく鞄を持とうとしたその腕を掴んだ。彼女は困ったような目で私を見る。恨めしいような、しかし何かを期待しているような、そんな自分を嫌悪しているような、目。私の痺れた脳の奥を刺激するには十分すぎる彼女からの熱。
「小鳥遊さん」
「は、はい……」
「……もう少し、一緒にいたいです」
「……えっと」
「もう少しだけ……ダメですか」
「ん、と……」
    彼女は迷っている。酔っていつもより判断の鈍っている彼女は隙が多い。手を伸ばして、彼女の髪を梳いた。そのままそっと頭を撫でる。ずっと、ずっと触れたかった、夢にまで見た彼女に触れた。彼女はそこからもう動けないまま……小さく萎縮しながら、どこに目をやっていいのか迷っているようだったが、私の手を押しのけはしなかった。
「……飲み直しにでも行きましょうか。個室があるところを知っているので……」
「……ええと……」
「私が持ちますよ、貴方は何も心配しないで」
「そうでは、なく……」
    私は彼女の答えを待たず、先に会計を済ましてから席に戻った。彼女はまだ席にいた。鞄を両腕で抱きしめるようにして、何か思い詰めたような顔をして。しかし、座っていても少しふらついているのがわかる。私だって、これ以上飲むのはあまり良くなさそうだ。飲み直すなんてのは言い訳に過ぎない。
「……立てますか、小鳥遊さん」
「あ、だ、大丈夫……」
「思っているより強いものを飲んでいますからね。ほら、手を」
「あ……は、はい……」
    手を出した時には自分で立とうとした彼女は、見事ふらつき、慌てて私の腕に抱きついた。そうして、今度は慌てて離れようとする。私はそのまま彼女の肩を抱いて、もう片方の手で彼女の手を掴んだ。
「タクシー、呼んであるので、もう来てると思います」
「いつのまに……」
「ふふ、手際はいい方なんです」
「……ですか」
「え?」
    彼女は私から顔を背けながら、小さく言う。
「女の人、いつもこうやってたぶらからしてるから、手際がいいんですか」
    そう言って、なんだかムッとしている彼女は、いつもより子供っぽい。……私は少し驚いて、聞き返す。
「……それって、どういう意味です?」
「……なんでも、ないです……」
「女遊びなんか、していませんからね」
「信じられませんよ……」
    私は少し不機嫌そうにする彼女の態度を自分の都合のいいように解釈しそうになって……今はまだやめておこうと思い直した。地下一階のレストランから階段を登る。自分が思っていたよりも酔っていたことに気づくが、目的地は変えない。個室のどこかでなければ、彼女と二人では居られない。もはや飲み直すなんてのは口実に過ぎない。
    タクシーは着いていた。私は彼女を半ば押し込みながら、よく使う店の住所を運転手に伝えた。彼女は体重をほんの少し私に預けながら、窓の外を見ていた。彼女と触れているところが、あたたかい。身体中の血管が沸騰しそうだ。それに。いや、だって。
    私が女慣れしていそうなことに怒るなんて、少し期待してしまうじゃないか。私も……そんな彼女の体をそっと、引き寄せた。彼女は嫌がらず、もう少しだけ体重を預けてくれた。
    うっかりそれ以上彼女に触れそうになった頃、タクシーは目的地に到着した。私は慌てて彼女から体を離す。そうして私たちは、小さな個室飲み屋に場所を移した。

    彼女は何かが吹っ切れたように、ヤケになったように度が強いものを頼んだ。私は連れてきた手前カシスオレンジを頼んだものの、チェイサーばかり飲んでいる。
「……その、連れてきた手前言いづらいですが……そろそろやめておいた方が、いいですよ、色々と」
「棗さんの奢りなんでしょう。めいっぱい奢らせて後悔させてやりますから。……も、もう一杯……」
「……まあ、別に、構いませんけれど……」
    そっと注文に水を紛れ込ませて、彼女にグラスを二つ。もはや飲んでいるのが何であるのかわかっているのかも怪しいところだ。
「だいたい〜、棗さんが悪いんですよ」
「あら」
    やがて彼女はテーブルに突っ伏して、そんなことを言う。
「……ばか!」
「……それは……すみません……?」
「ばか、ばか、ばか……棗さんのばか……」
「……うーん……」
    個室で良かったのは彼女の痴態を晒さないで居られたことかもしれない、と思いながら、私は彼女の向かいから……彼女の隣に、席を移した。お隣失礼しますよ、と声をかけても、彼女はテーブルに突っ伏したままでいた。眠ってしまったのかと思ったが、どうやら起きているらしく、そっと背中に触れると手を跳ねられた。
「……私が退職するから、都合いいんですか」
「は?」
    やがて彼女はそう言いながら、今度は泣きそうな目で、体を起こしながら私を睨みつけた。
「そういうつもりなんじゃないんですか、今日……そうなんでしょう……もう辞めるから、最後に一発ヤっておくみたいな……」
「どこでそんな言い方覚えたんですか、辞めてくださいよ、そんなつもりないですって……私は、ただ……」
「ただ、何です?」
「……」
    私は黙って、また水を口に含んだ。答えが得られなかった彼女は不満そうだ。だが、この様子なら……私だけではなかったのだろうな、と改めて思った。彼女はモテる。退職を理由に誘われて、ついて行って、嫌な思いをしたことも何度かあるのだろうと想像はついた。
「……一夜の体の関係を求めているのではないことだけは、信じてください」
「……でも、こんなに酔わせて」
「私は勧めてないですよ。貴方が自主的に飲んでいるのを止めていないだけで」
「普通止めるでしょう」
「それなら訂正しますけれど、最初のうちは止めていましたよ……覚えているかわかりませんが……貴方が止まらないので放ってましたのは事実ですけど……」
「……私が、悪い?」
「悪いとは言ってません……まあ、酔い潰れて不機嫌になっている貴方は新鮮で素敵ですよ」
「……またそんなこと言って。すみません、もう一杯……」
「ダメです」
「なんで止めるんですか。奢るって言ったくせに」
「……なかなか、酔うと難題を持ちかけてくるタイプなんですね……」
    手のかかる酔っ払いになってしまった彼女は、幼い子供のようで、しかし普段からずっと大人を演じ続けている彼女の素顔を独り占め出来ていることが嬉しかった。やがて私に当たるのをやめ、彼女はまたぼんやりとして……そのうち、また私に寄りかかった。
「……棗さんにも……会えなくなりますね……」
「……寂しいです」
「リップサービスがお上手で」
「本心ですよ、寂しいです。……退職後も、会ってくださいませんか、こうやって二人で」
「……なんです、それ、告白ですか」
「告白ですよ」
「え……」
    半笑いで私をからかおうとしていた彼女の顔が、ふっと真顔になった。少し酔いが覚めたのかもしれない。もう少し違う形で言おうとタイミングをはかっていたけれど、いま言うのがベストに感じて。少し間を置いて、彼女は無理やりにまたヘラヘラと笑う。
「またまた……」
「今日貴方を誘った理由を気にしてましたよね。体目当てじゃありませんが……もうひとつ、渡したい物があったからです」
「渡したい物……って」
    私が真剣に話すと、彼女も真剣に聞いてくれた。私は悩みながら……しかし覚悟を決めて、鞄から小さな箱を取り出した。ラッピングされているそれは、傍目から見て何が入っているのかはわからない。私はそれを、彼女の目の前でリボンを解く。開けて、さらにその中の小さな箱を、開けた。
    彼女はぽかんとして、口を開けたままだ。私はそんな彼女の手をそっと掴んで……そこに、そのまま……箱から取り出した指輪を、嵌めた。デザイン性よりも機能性を重視したピンクゴールドのリングに、しかし綺麗にカットされた淡いピンク色のストーンがいくつか埋まっていてさりげなく可愛らしく、いま大人の女性に人気と噂のモデルだった。
    キザったらしく彼女の左手の薬指にぴったりと嵌めたそれは、可愛らしい彼女にとてもよく似合っていた。
「……貴方がずっと好きでした」
    私は彼女の反応を待たずに言った。
「これからも……ずっと……好きだと思います……貴方とこれから会えなくなるなんて……耐え難い……ですから……その……想いを、伝えたかったんです。受け取って頂けなくても結構です……でも……伝えたかった……これは、私のエゴです……すみません、困ってしまいますよね。でも……頭の片隅にでも、覚えておいて頂けたらと思ってしまったんです、私のことを……」
    困らせてしまってすみません、そこまで彼女の指をなぞりながら言い切った。言ってしまった、と思った。これみよがしに彼女の左手の薬指を独占した。もう、心残りは、無い。ムードのいいレストランでここまで出来ていたら、もっと格好良かったのかもしれないけれど……私はイマイチカッコよくはなりきれなかった。見てくれはいくらでも綺麗に出来るのに、こういうところはどうにも上手くできなかった。すっかりお互いに酔ってしまって、記憶が無くなるかもしれないところまで来なければ、勇気が出なかった。出来ればもう、明日彼女が飲みすぎていて、記憶が無いんですよね、この指輪のこと知ってますか?なんて言って笑われた方がいい……そんな風にすら思っていた。
    やがて……返答もない彼女の顔を、恐る恐る見上げていくと……彼女は私が嵌めた指輪をじっと見つめて……やがて、自分の指でなぞった。
「……聞いてくださって、ありがとうございました。私の用はこれだけです。……タクシー、呼びますね。代金はこちらで持ちますから」
    付き合っていただいてありがとうございました、と言うと……彼女と目が合って……私はぎょっとした。彼女はぼろぼろと、大粒の涙を両の眼から零しながら私を見つめていた。
「す、すみません、困らせてしまって……でも……その……もう会えないかと思うと……どうしても伝えておきたくて……」
「……棗……さん」
「泣かせるつもりはなかったんですけれど……すみません……わがままで……」
    泣いてしまった彼女を慰めようと手を伸ばす前に、彼女の方が私の胸にすっぽりと収まってしまった。現実を把握する前に、そのまま彼女が私の背に手を伸ばした。遅れて、そっと彼女の背に手を置いてみたけれど……彼女が私に抱きついた、のだと状況を整理するまでに、少し時間がかかった。
「……酔っていますね、小鳥遊さん」
「……酔ってるんじゃなくて……」
「酔ってますよ、いきなり飛びついて……私じゃなかったら……そういう空気になっているでしょう……」
「……そういう空気にはしないんですか」
「……しませんよ、告白したかっただけだって、言ったじゃないですか。それに酔わせるだけ酔わせていいようにするなんて、私はそんなしょうもない男ではありません」
「ずるいですよ、棗さん。言うだけ言って、いなくなるなんて」
「いなくなるのは貴方のほうですが……」
「付き合って、とか、言ってくれないんですか」
「……貴方はタレントとは付き合わないんでしょう」
「……でも、もうすぐ私は……」
    彼女が何を言わんとしているのかわからないほど野暮な鈍感ではない。泣いてしまった彼女がそんなふうに言う心境が、信じられなくて嬉しくもある。けれど、それは果たして本心だろうか?彼女は男性免疫がなさそうだ。雰囲気がいいところに連れていかれて、優しくされて、流されて。そうなのかもしれないと思うと、すんなり喜ぶことはできない気がして。
「……タクシーまでお送りしますね」
    そっと彼女の体を離す。何かを少しだけ期待しているような彼女にただ微笑みだけ返して、さっきよりも重心の安定しない彼女の体を支えて歩いた。
   タクシーに乗る前、彼女は私をじっと見つめてしばらく動かないでいた。私は手を伸ばさなかった。運転手に急かされてタクシーに乗り込んだ彼女は、こちらを振り向くことは無かった。私はそれがわかっていながら、彼女に頭を下げた。
    不思議なものだなと思った。彼女に手酷く振られるつもりで全て用意して、覚悟を決めたのに、彼女がそれを受け入れようとした瞬間……それはダメだと思い、自らふいにした。
    私は彼女主演の恋愛ドラマのキャストには相応しくないと思ってしまったのだ。端役にすらなれない出来損ない。長く温めてきた想いを伝えたことで、私の気は晴れた。そして彼女がそんな私に何かしらの感情を抱いていたのだと知れて、もうすっかり満足してしまった。
    押したら結ばれたかもしれなかった関係、明日誰かに話したら笑われてしまうだろうか。彼女を傷つけるだけであったこの行為に、意味はあったのだろうか。
    どこまでもエゴイストだ。自分にほとほと呆れながら、私も少し怪しい足元に注意しつつ、家路を辿っていく。いつもより風の冷たさを感じながら。

    彼女は退職したらしい。あれからやはり現場で会うことは一度もなかった。ラビチャを一回だけ、あの後「本日はありがとうございました」とだけ送っていたが、既読になることはなかった。すぐにブロックでもされたのかもしれないし、退職する時には連絡先を消すと言っていたから、もうこのアカウントは使っていないのかもしれない。
    あれからズールの皆はなんだかそわそわして、けれど決して私に何がどうなったかは聞いてこなかった。そういう人達だ。それがわかっていながら、私は話さなかった。御堂さんにだけ、こっそりと良いお店をありがとうございました、とお礼を言っておいた。彼個人もまた、それ以上を言わない私には何も聞いてこなかった。
    その後、別の誰かに何を言われることもなかった。彼女も結局、誰にも何も言わなかったのだろう。律儀な人だ。私への悪評なんて、彼女が言えばそれなりに広まっただろうに。あの後、彼女はあの指輪をどうしたのだろうか。告白なのにプロポーズみたいなことをした。彼女だって女性なのだから、好きな人に最初に指輪を嵌めてもらう日を夢想したこともあるだろう。……悪いことをしたかな、と今は思っている。
    アイドリッシュセブンはしばらく色めきだっていたが、私の方は日常は何も変わらない。現場で彼らと共演する時に挨拶する相手が彼女ではなくなっただけだ。抱えていた想いも、彼女にすっかり投げてしまった。彼女を差し置いて、私はすっかり身軽になってしまっている。まったくもって酷い男だ。
    あれからどれくらい経ったのだろうか、あるオフの日に私が歩いていると、なんだか穏やかでない視線に射抜かれていることに気がついた。しばらく撒こうとあちこちふらふらしてみたものの、視線はいつまでもついて来る。厄介なファンだろうか、それとも面倒なゴシップ記者だろうか。どちらにせよ、のんびりとした休日を過ごしたいだけの私には邪魔な相手だった。
    なかなか撒けない相手を私は炙り出して、捕まえる路線に切り替えた。あえて人通りのない道を歩き、そのまま路地裏に入り、やがて視線の主が覗き込んだところでその腕を掴んだ。細い腕だった。女性だと直感した。おいたが過ぎたファンなのだと思い、目深にかぶった帽子を奪った。
    あ、と相手が小さく声をあげた。私はその声に聞き覚えがあった。そして女性の左手には、見覚えのある指輪が嵌ったままであった――。
「……どうして」
    思わず彼女の腕を掴んだまま、彼女の帽子を奪ったまま、私は絞るように声を出した。彼女は……小鳥遊さんは……しばらく視線をあちこちにやって挙動不審になっていたが、やがて、小さく、すみません、と言った。
「たまたま、お見かけ、して」
「……声をかけてくださればよかったのに」
「警戒されていたから……」
「……どうして?」
    私は二回目であるその言葉を繰り返した。今度は別の意味合いを孕んでいることは、きっと彼女にも伝わっているだろう。彼女はしばらく目を合わせようとしなかったが……やがて、私をそっと見上げた。
「……連絡先を、渡したくて……」
「……」
「ああ、いや、えっと。でも、一般女性の私がこんなことをしたら、問題になるか……とか、色々、思ってて、なかなか声をかけられなくて……ここまで……」
「……マネージャーの間はタレントだから、一般女性になったら部外者だから。本当に……難儀な人ですよね」
「……すみません、オフでしたよね……ご気分を害されたかも……」
「払拭してくれるんですか?」
「え」
「私が久々のオフで貴方に追われて嫌になった気持ちを、貴方が払拭してくれるなら、それでチャラにしますよ」
「……どうやって」
    もじもじと私に腕を掴まれたまま、上目遣いのその目は初めて見る温度感で。服装も、メイクも、髪も、私が見慣れた彼女のそれではない。知っているのに、知らないような彼女を見て、すっかり吹っ切ってしまっていたと思っていた胸中が妙にざわつくのを感じていた。それが何なのか……具体的に、よくわからないまま。いや、わかっているのだ……わかろうとしたくないだけで。
    私は、終わったことにしたかった。しかし、彼女がそれを許してはくれなかった。
    きっとドラマは私が思うもっと前から始まっていたのだ。私は、途中降板を許されなかった、それだけ。……そうであるのならば。
「……今日は、お時間あるんですか」
「え?は、はい、休みで……ウインドウショッピングをしてて……」
「……なら」
    私は掴んだままだった彼女の腕をやさしく解いた。彼女は逃げたりしなかった。私はそのまま、彼女の手を私の手で包む。彼女は強ばった表情のまま、そんな私を黙って見つめていた。
    私はそっと、彼女の指に嵌ったままの指輪をなぞり、そして、その手に自分の指を絡める。びくりと緊張した彼女の指は躊躇いを孕みつつも、私たちの手はひとつになる。彼女の手は、私より少し冷たい。
「はじめましてから、始めませんか」
「え」
「ここから始めるんです、何もかも。私たちは今日、ここで出会った。貴方が私に惹かれて、追いかけて、私も貴方に惹かれた。そこにはアイドルも元業界人も、部外者も、何も関係ない。私たちはただ出会った男女、それだけです。それなら――恋に落ちたって、いいじゃないですか」
「……そんなの、詭弁じゃないですか?」
「詭弁とはいつだって、抜け道を突いた素晴らしい発想ですよ。……だから」
    手を絡めた反対の手で、彼女の頬をそっと撫でた。困惑気味の反面、期待に目を煌めかせている彼女は、私の言葉をそっと待って。
「はじめまして、私は棗巳波。……貴方は」
「……小鳥遊、です……小鳥遊紡……。……はじめまして……貴方が……好きです」
    たどたどしく、主演女優は台詞を読み上げた。そんな彼女の手をそっと引いて、私は彼女を抱きしめる。おそるおそる回された背中の手が愛しくて、そのまま私は彼女の唇に自分のそれを重ねた。何度も。何度も。優しく触れる度に、捨てたつもりだった想いが湧き上がる。だんだんと泣きそうな顔をする彼女に、私は笑顔で返した。
    エンドロールに主題歌はない。ここでドラマは終わっている。続編は私たちだけの秘密で。しかし、彼女の手に嵌った指輪がやがて新しくなったことと、私の手にも同じように指輪が嵌っていることだけは、少しだけ仄めかしておいてもいいと思っている。
    これは、ごくありふれたどこにでもある、ただの男女の恋物語のひとつだ。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS 静かな夜

「ホットミルクでよかったですか」
    はい、と言いながらペアのマグカップの片方を受け取った。もう片方は彼の手に。ソファの私の隣に彼が腰を下ろす。一口含んで、彼がマグカップを置いたのを確認してから、私も同じようにして、それから彼にそっと体重を預けた。彼の体の重心が、私に合わせて変化する。それがとても、心地よい。
「寝かしつけ、間に合わなくってすみませんでした」
「いえ!巳波さんは十分手伝ってくださってますから」
「ですから、手伝う、っていうのが気に食わないって言っているじゃないですか。私だって子供の父親なのに」
「そうですね……そうですね、えへへ」
    彼に見せる予定だった資料をソファ脇から取り出して、机の上に置いた。そっと目を通す彼は、口を小さくお受験、と動かした。
「私立がいいかなって……やっぱり、ほら、その」
「私の子供、ってことで目立ちますからね。反対では無いですよ。貴方とあの子の負担を考えると……手放しで賛成は出来ませんが」
「私は費用面が……」
「費用なら心配ないでしょう、ちゃんと稼いできますよ」
「巳波さんの収入をあてにするのって……」
「なんです、私が直に売れなくなるとでも思ってるんですか」
「そんなわけないじゃないですか!?」
    慌てて否定した私を見てくすくす笑う彼を見て、ああまたからかわれた、とわかって。顔も耳も熱くなる。そんな私の頬に、一瞬だけ彼が唇を落とした。
「私の収入をあてにしてください。それより私は受験自体が貴方やあの子の負担にならないか心配です。親同士の付き合いも貴方が主体になるのは避けられないでしょうしね」
「もしかして……巳波さんも学校とか行くつもりで……?」
「行っちゃダメですか。そのための私立なんでしょう、私だって親付き合いするつもりでいますよ」
    私がまとめておいた資料をパラパラとめくりながら、彼はその中から芸能人の子供がよく通っている学校のパンフレットをピックして、私にひらひら振って見せた。少しぶすっとしたような彼に、私はなんだかおかしくなって、笑ってしまう。そんな私を見て、彼もそのうちそっと微笑む。無言で手渡されたその数校を、私たちは子供の通う学校の候補とした。
    パンフレットをすっかり片付けて、私はまたマグカップを両手で持って、一口飲んだ。甘い。よかったですか、なんて聞いておきながら、いつだって彼は私が飲みたいものを作ってくる。今日は甘いものが飲みたい気分だったけれど、蜂蜜が入っているようだ……一体どうやって、彼は私の心を読んでいるのだろうか。聞いてみたことがあるけれど、わかりやすいですからね、としか言われなかったのを思い出した。
    そして彼は大抵、私と同じものを飲む。そっと目を隣にやると、彼はスマホを確認しながら一口。真剣な眼差しに、仕事の確認をしているのだろうと理解する。……そういう時の彼の横顔は、仕事で媒体に映る彼ともまた違う真剣さを孕んでいて……私はすごく好きだ。やがて彼が顔を動かさずに目線だけこちらへよこすものだから、目が合って、私は思わず慌てて目を逸らした。隣からくすくすと笑い声が聞こえた。
「今日も私のことが好きそうで何よりですよ」
「……いつも好きですよ」
「私だっていつも愛していますよ」
「あ、あ、あ、愛してますよ!」
「ふふ、そう。ありがとう」
「……どういたしまし、て」
    愛の言葉を口にするのも、最初に比べればだいぶ慣れた。カップを机に置いて、今度はもっと露骨に全体重を彼に預けた。彼もゆっくりカップを落いて、スマホをポケットにしまってから、すっぽり覆うように私を腕の中に抱きとめた。
    ――ホットミルクと、蜂蜜と、彼の匂いでいっぱいになる。どこかの現場でついたのか、彼は吸わない煙草の香りもするけれど。彼に抱きしめられるがままに目を閉じる。あたたかくて、優しく背中を撫でられているうちに、仕事と、育児と、家事の疲れがどっと溢れて……体が一気に重くなるのを感じた。彼の首元に頭を預けて、そのまま、ぐったりと力が抜けていく。
「……今日もお疲れ様でした」
「……せっかく、せっかく今日、お時間合いましたのに。もう少し……そ、その」
「激しいことは駄目ですよ。このまま眠っていいですから」
「でも……」
「……大丈夫ですから」
「……私が、したかったんですよ、巳波さんと」
「私もしたいですけれど。でも今日は」
    ――今日は、このままでいてくれませんか。
    力の抜けた私をしっかり抱きしめ直して、彼も私の首元に頭を埋めた。私は最後の力で、少しだけ彼の背に手を回して……そのまま、彼に落ちていく意識を委ねた。
    静かな夜、幸せな夢へ落ちていく。彼と一緒に。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS 私の可愛い贄

    ウチの村では数年に一度、豊穣と災害の祈願のために女を一人、神様に差し出すことになっている。そしてそれが、今年は……ウチの家系であり、私である。予めわかっていたことであるし、そうやって言い聞かせられて生きてきた。だから、今更、そう今更不安になったとて、どうしようもないのだが。
    友達、だと思っていた人達は薄情にも思えるくらいあっさりと贄となった私から目を背けた。皆、私から目をそらす。向けている視線の先は神様がおわすと言われている祠の中。祈る人々の前へ出て、神職様の後ろについて、身綺麗にした私は歩いていく。
     母も昔、贄であったと父に聞いたことがある。そうなると、父は二人の家族を神とやらに捧げたことになるが……この村ではそれを何もおかしいこととはしていない。だから、父も……いや。ほんの少しだけ、昨日泣かれてしまって、だから私も少し揺らいでいるのだけれど。
    祠に足を踏み入れた。神職様と同じように最低限の礼を尽くして入っていく。敷居を跨いだ途端、空気が変わり、ピリピリと冷たい風が頬を撫でたのを感じた。……居るんだ、神様って本当に……。贄ではなく人間として最後に考えた事はそんなことだった。なんにせよ、こんなに信仰の厚い村なのに、私たちは一度も神様とやらを見たことはなかったから……。どんな見た目?人間みたいなもの?それとも……化け物のようなもの?
    そこで初めて、体が震えるのを感じた。そうだ。私は……贄だ。食われるのだろうか。それとも?何をされるのか、何をするのかもわからないまま、どんな形状をしているのかもわからない「神」とやらに捧げられる……ぞわぞわと背中を冷たさが走っていく。しかし、もう逃げることは出来ない。神職様の後ろをただ黙ってついて歩いて、奥へ、奥へと歩いていった。
    神社の外観どおりの内装を歩き、やがて縁側へ出た。カコン、とししおどしの音が鳴った。パシャン。水の音がして、びくりと体を震わせた。何か、生物の音だったから。しかしすぐに頭を下げ、体を低くした神職様に合わせ、私も同じようにしていたから、枯山水の端っこと縁側の境目くらいしか見えなかった。
「……あら、それが新しい贄ですか」
    人の声がした。神職様のものでは無い……中性的な。けれど、男性だろうか。柔らかく、透き通るような……そう、まるで、水の中で反響しているような、泡のような声。パシャリ、パシャン。同じように、水から這い出る音がする。近づいてくる。心臓の鼓動がうるさい。汗が頬を伝っていく。足元が見えた。宮司様みたいな袴……に、裸足で、服も体もべしゃべしゃに濡れていて。やがて……がし、といきなり顎を掴まれた。驚いて、ひ、と小さく声を上げる私の顔を、それは思い切り上にあげて。
    深い朱を称えた瞳と、目が合った。絹糸のような長い髪を結わえ、神職の装束を着て、こちらを真っ直ぐに見据えている。ぞくぞくと、言いしれない不安のような興奮のような何かで心を埋めつくされて、私は何も言えないまま、動けないまま、ただ固まっていた。そんな私の両頬を、その人の濡れたままの指がなぞった。雫が私の頬に移って、首を伝って、庭に落ちた。
「初めまして、私の贄」
    すっと、口元を歪めた相手はそう言った。はっとして、私は慌てる。気づけば隣にいたはずの神職様はもういない。この人と、二人きりになっていた。
「……あ、あなたが、神様ですか?」
    なんとか出せた声で、私はそう聞いた。彼はしばらく黙って……しかしなぜかくすくすと笑い出して、言う。
「巳波と呼んで」
「は、はあ」
「貴方の名前は」
「え……いいえ。私は贄です、神様……巳波様。名前も一緒に捨ておいて……」
「では拾ってきてください。貴方の名前は?村で親に貰った名前があるのでしょう」
「……紡、です、巳波様……」
「そう。紡」
「あ、はい!よろしくお願いしま――」
    ぐい。さっき掴まれた顎をそのまま。反対の手で体ごと引き寄せられて。私が言葉を言い終わる前に、唇が塞がれた。
    一体何が起こっているのかもよくわからないまま、それはまた離れて、そして触れた。……巳波様の唇だとわかって、私は慌てたが、どうしようもできなかった。何度か離れて、また口付けて、弄ばれているような変な感情が渦巻いていく。やがて唇にざらりとした感触がして、体ごと熱くなって、逃げようとしても、いつそうなったのか背に手を回されていて逃げられなかった。問答しているうちに唇を何度も舌でなぞられて、慌ててきつく閉じた唇の継ぎ目を……割り込んでくる。それでも抵抗し続けた私は、結局縁側に押し倒されて、今度こそ抵抗する術なく巳波様にされるがままになっていた。
    巳波様の舌が口の中をからかう様に遊ぶ。ざらついた舌の感触が口内で暴れ、体が熱を持っていく。……も、もう。もう。接吻の一つもしたことがない私は限界だった。懸命に体を押し返していると、やがて巳波様が体を起こした。……人間よりも長い舌が、そっと巳波様の唇を舐めとって、口の中へ消えていった。満足しているのか、何を考えているのかよくわからない不敵な笑みで、私を見下ろしている。
「……あ、あの、あの!あの、これ、は……?」
「これからよろしくお願いしますね、紡……私の可愛い贄」
「あ、み、巳波様!?」
    巳波様は私の質問には答えないまま、そのままどこかへ――文字通り、消えてしまった。
    私は……先程まで巳波様に遊ばれていた唇をそっとなぞり、大きく息をつく。
「……なんだったの、さっきの……っていうか」
    贄って、何。役割は神様に聞けと言われているのだ。巳波様はどこへ行ってしまったのかわからない。しかしもう、村へは帰ることもできない。しばし呆けて……庭をぼんやり眺めながら、ししおどしの景気のいい音ではっとする。
「……神様の贄なんだから!とりあえず……!」
   そっと、縁側から部屋にお邪魔して、触ってみれば埃だらけだった。私は母親がいなかったから、掃除も炊事も大得意だ。
「神様の家、綺麗にするところから!」
    気合いをいれて、雑巾を探すところから私の「贄」としての生活が始まった。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS 私で繋ぎ止めて day1

    眩い光に照らされて、思わず紡は目をつぶった。
    刹那。
    音。光。振動。身体中で感じるその全て。自分では経験したことの無い、そんな圧に、紡は怯えながら目を開けた。
    ――歓声。
「……な、に、これ」
    観客は皆、興奮気味でこちらを見つめている。手にはサイリウム、うちわ、よくわからない横断幕のようなものまで様々だ。耳元で鳴り響く音、そっと手でなぞり……理解する。
    ……イヤモニだ。
「ちょっと!ちょっと、紡!」
    ぼーっと立っていた紡の名前を、知っている声が呼んだ。透き通る、淡い声。……しかし、紡は彼にそう呼ばれたことはなかったはずだった。小鳥遊さん、アイドリッシュセブンのマネージャーさん。そして、紡は……彼のことをいつも、亥清さんと呼んでいたはずで。
    しかし、彼はマイクから口を離しながら、紡の耳元で怒ったように囁く。
「パート忘れたの!?ステップも踏んで!今、パフォーマンス中でしょ!?」
    そう、まるで、彼が自分のユニットのメンバーにそう言うかのように。そうしているうちに、困惑気味の紡の視界の端で、何かが大きく動いた。視線を動かす。大きく空中で弧を描き、着地する。歓声がより大きくなる。――御堂虎於、その人だった。
「なんだよ、ツム、調子悪いのか?俺とトラでカバーすっから、ハルといい感じに休んでろよ」
「い、狗丸さん……?」
「は?なんでそんな他人行儀なんだよ。俺たち、メンバーだろ」
「え……」
    近づいてきた狗丸トウマは、そう耳打ちして紡にウインクして、虎於の元へ走っていく。対して悠は、紡の腕を引く。
「まったくもう、本番なんだからちゃんとしてよね!あと5曲、歌える?無理そうなら、なんとかMCで休ませてもらうから言って!それか俺がパート変わるから!……わかった!?」
「……は、い……」
    ライトの色が赤に変わっていく。光が、虎於とトウマをメインに照らす。紡と悠が、注目されづらくなっていく。アイドルを引き立たせる舞台演出……普段、自分がやっていることだ。
    紡は、息を大きくはいて、吸って……理解する。
    ここは、ステージの上なのだ。

    驚いたことに、紡は「歌えた」し、「踊れた」。ŹOOĻのことは、確かにアイドリッシュセブンと友好的なユニットとして関わりは多くあったが、曲まで完全にコピーしてパフォーマンス出来るほど知っているつもりではなかった。でも、やろうと思ったら出来てしまった。体に動きが染み付いていたのだ。まるで、そう……今までずっとそうしてきたかのように。
    ステージが暗転し、うまく動けずにいる紡の腕を、強引に悠が掴み、そのまま袖にはけていった。ライブは終わったのだ。逆に言えば……自分は、ライブのステージに立っていたのだ……ŹOOĻと一緒に。流れに身を任せつつも、やはり混乱したままの紡に、お疲れ様です、お疲れ様です、とスタッフの声がかかる。渡されたタオルと飲み物を受け取りながら、お疲れ様です、と機械的に返していく。そうして。
「……皆さん、お疲れ様でした。今日も盛況でしたね」
    はい、狗丸さん。はい、亥清さん。はい、御堂さん。
    ……はい、小鳥遊さん。そう呼ぶ声に、紡ははっとする。
「どうして……棗さんが」
    ライブ衣装ではなく、スーツに身を包み、アイドルたちに声をかけ、微笑みかけている彼こそ、ステージに立っているべきだったアイドル、棗巳波だ。紡が思わず言った言葉を測りかねているのか、巳波は首を傾げながら、ああ、と一言。
「今日はちょっとパフォーマンスで戸惑ってしまっていたようですけれど、スケジュールがキツかったでしょうか?後で調整しましょうね。すみません、私の力が及ばなくて。まだまだ、マネージャーって、慣れなくて……」
「マネージャー……?」
「ホントだよ巳波!紡がもっとライブで力出せるようにしてよ!やっぱ昨日、あんな時間まで仕事だったからぼーっとしちゃったんだよ」
「あらあら、申し訳ありませんでした。ふふ」
「笑ってないで!紡はまだアイドルとしては新人なんだから――」
    何を言っているんだろう、まだはっきりしない……いや。はっきりはしているが、混乱している頭で、名前で呼び合うアイドル衣装の三人と、スーツを着た巳波を見つめていると、巳波と突然目が合った。瞬間、紡に微笑みかけ、他の人に見えないように、そっと手招きする。
「てかさ、今日のMCのトラ――」
「あれは――だって――」
「そもそも――」
    楽しく談笑しているŹOOĻに、そっと近づいてみる。もう少しこっち、と無言で巳波の手に導かれていく。
    一歩、一歩。近づくと、三人が紡を振り返った。
「なあ、ツムだってそう思うだろ?」
「違うよね!?トウマも虎於もおかしいよね!?」
「俺はおかしくないだろう!?」
    ぐるぐる回り続ける頭のまま、紡は迷って……苦笑いをして、やり過ごした。

    スケジュールも調整したいし、少しお話が伺いたい、と巳波に言われ、紡は待っていると聞かなかった三人を説き伏せ、先に打ち上げに行ってもらった。ステージメイクを落とし、私服に着替え、紡はようやくいつもの自分になれた、と安心していた。それでも、スーツではなく私服だ。慣れないと思いながら、ツクモプロダクションの一室に呼ばれ、緊張しながら扉をノックした。
    変な夢だ。いつしか紡はそう思いながら、しかし何をやっても目覚める気配はなく、痛覚もある。身を任せるしかないのかもしれない、と思いながら、開けた先にいたのは巳波だ。ŹOOĻに宛てがわれている部屋は広く、紡はぼんやりと、小鳥遊プロダクションの事務室がいくつか入るな、なんて思いながら、勧められるがままにソファに座った。
「すみません、私が気が利かなかったせいで。SNSでも少し言われちゃってるみたいですけど……そんなことよくありますし、気にしないでくださいね?」
「ああ、はい、ええと……」
「お茶です。お菓子、最中買ってきたんですけれど。お嫌いでしたか?」
「いえ!嫌いなお菓子、ないです!」
「それはよかったです。他の方々、好き嫌いが激しいですし。貴方だけ素直な人で、助かります」
「あ、あはは……」
    アイドリッシュセブンとŹOOĻとは最近現場が重なることも多い。必然的に巳波に会うことも増えていた。それでも、マネージャーの巳波に会うのは当然初めてだ。それも、自分のマネージャーとして……。彼は気がつくほうだから普段からよく動くけれど、マネージャーだからそれ以上に仕事をしているように見えて、紡はどうにも落ち着かない。本来自分がやるはずのことをアイドルに押し付けているような、そんな罪悪感が胸の中に渦巻く。
「いいんですよ、アイドルなんだから。お世話させてください」
    そんな紡の胸中を見抜いているかのように、巳波は皿に載せた最中を紡の前に置いた。自分の分も置いて、紡と机を挟んで座る。……ちゃっかり、二つ食べるつもりらしくて、そういえば食べることが好きなんだっけ、と思うとなんだか微笑ましくなって口元が緩んでしまう。……と、いつの間にかばっちり目が合っていて、紡は気恥ずかしくなって慌てて出されたお茶に口をつけた。
「どうでした、ライブは。頭、真っ白になっちゃいました?」
「あ、ええと……本当に申し訳なく……」
「いいんですよ。初めてのライブで数万人の人間に見られて、完璧にパフォーマンス出来る方がおかしいんです。途中止まってしまっていたところ以外はできてましたよ、ちゃんと見てましたからね。最後、頑張りましたね」
「ありがとうございます」
    よく頑張りました、と言いながら最中を頬張る巳波を見つめながら、紡は少し前のことを思い出す。ステージの上。三人にフォローされながら、やるしかないと思ってこなした数曲。不思議なことに歌声はそれなりで、ダンスもそこそこできた。見ていた、頑張っていた、普段自分がアイドルたちを見つめてかけていた言葉を改めて聞いてみるといまは……非常に心強く感じた。
「……ところで私、初めてのライブだったんですか?」
「え?」
「ああ、いえ!……は、初めてで……したね!」
    きょとん、と紡を見つめる巳波を見て、慌てて取り繕う。そうだ、この夢の中ではおそらく自分はそれなりにアイドル活動をしている。いきなりマネージャーに自分が初めての舞台だったのか聞くようでは、心配されてしまうだろう。巳波はそんな紡を見つめながら、返す。
「歌もダンスもハイパフォーマンスなあの三人のライブのなかに貴方を入れると聞いた時には戦慄したものですけれどね、貴方の歌声も全然劣っていませんでしたよ」
「そんな、お世辞は……」
「自分のアイドルにお世辞言って得があります?」
「まあ、多少は……」
「ふふ、まあ、そうかもしれませんね」
    それでも貴方に自信を持って欲しいのは本当なんですよ、と言って、巳波は微笑んだ。つられて、紡も微笑んだ。マネージャーの巳波とは、紡も気が合いそうだ。少しだけ心が軽くなる。いつもの気持ちで接して大丈夫そうだと、そう感じたのだった。
「わざわざお時間とっていただき、褒めていただいてありがとうございました!元気出ました、えへへ」
「いいんですよ。アイドルは褒められるのが仕事です。……それに」
    紡の先程の感覚は、直感であったのかもしれない。
「私も先日、朝起きたら急にマネージャーになっていてびっくりしていたんです。貴方もそうだったんでしょう?少し……お話しませんか」
    ねえ、小鳥遊さん。小鳥遊プロダクションのマネージャー、小鳥遊紡さん。紡の頭からほんの少しずつ、こぼれ始めた言葉を、かき集めるように。巳波の声が耳元を擽った。

    どうぞ、と巳波が運転席から声をかけたとき、思わず紡は「免許持ってましたっけ」と返して暫し呆けていたのだが、巳波はただ笑って助手席を勧めた。勧められるがまま、紡は助手席に座り、運転席の巳波を見やった。
「どうやらマネージャーの私は普通免許を持っているし、運転にも慣れているようなんです。不思議なんですけれど、運転したことないのに自然に走れるんですよ。大丈夫、もう慣れるくらいには彼らの送迎もしましたから」
「はあ……」
「逆に言うと、貴方は免許を持っていないそうなので。おそらく頭から運転の仕方も抜けているんでしょうけれど……気をつけてくださいね」
「わかりました」
    ちょっと遠回りして、打ち上げにお送りします、そう言ってから巳波は車を出した。付けていたラジオから、リクエストでŹOOĻの歌が流れた時、紡はその中に明らかに自分の声が混ざっているのに気がついて、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「不思議ですよね。つい昨日まで、この世界のŹOOĻは三人組だったんです。歌声も三人分だった。それなのに、今日になった途端、貴方が入っていたんですよ。まるで、ずっとそうだったかのように……さすがに夢なのかと思ったのですが、先程の貴方の反応を見ると……夢にしてはよく出来すぎていますよね」
「……棗さんはこれが……現実だと思っているんですか」
「最初は私も信じていませんでした。明晰夢の類かと思っていて。まあ楽しむかな、くらいの気概でいたんですけれど……これがなかなか覚めなくて、焦ってきてしまったんですよね」
    紡は窓の外をぼんやり見つめながら、道行く人たちを見やる。スモークガラスだから、向こうからこちらは見えていないのだろう。ふと目に付いたポスターにはŹOOĻがいた。亥清悠、狗丸トウマ、御堂虎於……小鳥遊紡。男女混合四人組アイドル。そう、まるで最初からそうであったかのように、ポスターの中の紡は中性的な雰囲気で、しかし彼ら同然まるで噛み付くような顔をして、こちらを見つめている。当然、撮った覚えのない写真なのに、紡の頭の中では撮影した日に三人と笑いあった記憶が、早回しで再生されていた。
「他の人にも試みたんですが、元の世界のことを覚えているのは……いえ……おそらく私と同じ世界からここへ来てしまったのは、貴方だけなんだと思います」
「……なんだか、フィクションのような話ですね」
「ドラマとかでありそうですよね。昔、そんなドラマに出たことがあったような……」
「ああ、見たことありますよ。棗さんが子役の頃の……えっと……タイトル……は……」
「……無理ですよ。この世界に存在しないものは、思い出すことなんかできません。一度忘れてしまったものは……」
「……変な感じ」
「よかった、その感覚を知ったのが私ひとりじゃなくて。共有できるって、幸せですね」
「そう……かもしれませんね……」
    巳波はあくまで安全運転だったが、車の混む夜の三車線をすいすいと上手く走っていく。惚れ惚れしてしまうようなハンドルさばきと、長く白い指。紡はなんだかどぎまぎしてしまって、そっと視線を逸らした。
    巳波は運転しながら、この世界で目が覚めた日――気がついたらマネージャーになっていた日のことから、今までのことまでを、簡潔に話した。この日になるまで自分で何度もまとめなおしておいたのだと、笑いながら言った。そして今日の朝起きた時、この世界での記憶に紡が追加されていたのだと話した。
「この世界、私たちの知っている人の中でいない人が多いんです」
「いない人……」
「例えば、七瀬さんがいませんね」
「えっ」
「ŹOOĻは全員居たんですけれどね……Re:valeも存在しないです。なんだか、欠け方もおかしな感じでしょう。特に法則性も感じない……ですから、宇津木さんや貴方が居ないことにもなんの疑問も感じていなかったのに……急に現れたので驚きました」
「……私の事、覚えていてくださったんですね」
「……まあ、当たり前、です……よ。ふふ。深く気になさらないで?」
「はあ……?」
    はっきりしない言葉で濁された紡は首を傾げたまま、すぐに興味を無くしたように前方車両に目を移した。そんな紡の様子をしばし伺いながら、やがて巳波も小さくため息をついた。その口元は、ほんの少し歪んでいる。
「……棗さんのお話通り、これが夢じゃないなら」
    フロントガラスに水滴が落ちる。ポタポタ、というよりはパチパチと音を立ててガラスが濡れていく。……そうして、強い雨が降り始めた。
「私たちは……どうすべきなんでしょう?」
    ラジオをかき消すような雨音の中、投げられた紡の言葉に、逡巡、巳波は片手でハンドルを切りながら答えた。
「決まってるでしょう。二人でアイドルとマネージャーやりながら、元の世界に帰る方法を探すしかないじゃないですか」
「でも、そんなの」
「困るでしょう、私がいないŹOOĻなんて。貴方抜きのIDOLiSH7だって」
    確かに言い切った巳波の熱に押されて、紡の瞳が強く光った。

    勿論、この世界でのŹOOĻにも手を抜く気はないので……と微笑んだマネージャー・巳波とのスケジュール調整を終えてから、紡は打ち上げに顔だけ出し、メンバーにやいのやいの言われながら早めに家に帰った。この世界での紡の家は実家ではなく、風呂トイレ付きの小さなワンルームマンションの一室だった。部屋の趣味は同じだったので、多少安心したが。
    巳波との会話を思い返している中、巳波が「一度忘れたらもう思い出せない」と言っていたのを反芻し、紡は慌てて適当なメモ帳を取り出した。
    この世界にいないと聞いた人達の名前。元の世界での自分。元の世界でのIDOLiSH7。とりあえず、思いつく限りを言葉にしてみた。
    それからしばらく経っても色々と思い巡らせていたが、思った以上に体が疲れていたようで、メモ書きまで終えてしまうとぐったりと居間の床に倒れこんだ。巳波に調整してもらったおかげで、明日は昼まで眠っていても仕事に間に合うはずだ。シャワーを浴びていない。メイクを落としていない。着替えていない。しかして初めて経験したライブステージの疲れというのは凄まじく、紡はそのまま意識を手放していった。

    翌朝、紡は何やら振動音で少しずつ意識を取り戻していった。目覚めてしばらくしてもぼんやりと天井と電気の傘を見つめていたが、はっとしてそれがマナーモードのスマホの着信だと気づき、飛び起きた。現在時刻は……すっかり夕方を回りそうな時計の針を見て、スマホに表示された「棗巳波」の文字に怯えながら……息を吸い込み、応答した。
『もしかして寝てました?』
    第一声からにこやかにそう言う声は何処か恐ろしい。それはそうだ。今から急いで身支度をしても、撮影の時刻に間に合わない。紡は頭の中が真っ白になるのを感じていた。マネージャーとして働いている時でさえ、寝坊なんて滅多なことじゃないとしでかさなかったのに……。
『いいですよ、混乱しないで。とりあえず迎えに行くので、準備しておいてください、間に合わなくてもいいですから』
「あ、えと……シャワー……メイク……えっと……」
『それならとりあえずシャワー浴びてて下さい。貴方の家の鍵、持ってるので……ドアロックだけ外しておいて。メイクと髪の毛は手伝いますから』
「えっ、ああ、いや、えと」
『仕事、穴あけるつもりで?』
「いえ!とんでもありません!」
『では言うこと聞いてシャワー浴びててくださいね』
    紡の返事を待たずに巳波が通話を切った。紡は慌てながらもシャワー、シャワー、と言葉を繰り返しながら脱衣所へ向かいかけて、ああドアロック!と急いで振り返って外した。バタバタと服を脱ぎ、寝ぼけた頭でそのままシャワーを頭から浴びれば冷水で、慌ててお湯に切り替える。
    頭に過ぎるのはアイドルが穴を開けた時の現場のことばかりだ。いくら急いだってもう間に合わない。おそるおそるスマホを確認したが、着信はあの一回だけではなかった。半ば青ざめながら急いで体を洗い、とりあえず着替えていたところでインターホンと共に、鍵を開ける音がした。脱衣所の扉にノックが響く。
「小鳥遊さん、棗ですけど、お邪魔しますよ」
「あ、あ、ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいです。体洗えました?」
「か、髪の毛……乾かし……」
「服着たら出てきてください、身支度手伝います」
「現場……は……」
「タレントが何かしでかした時に現場をなんとかするのがマネージャーでしょう。アイドルの貴方がいま心配すべきは現場でどう謝るかではなく、最短で身支度をすることです。良いから、私を信じて……私の言うことを聞いて。私は」
    ――貴方のマネージャーですから。紡は急いでワンピースを被りながら、みじたく、みじたく、と小さく呟いていた。とりあえず出ていった紡を見て、巳波は小さく呆れたように笑って、紡の部屋からカーディガンを持ってきて、手渡した。それから居間の椅子に座るように促す。机の上にミラーを置いて、その隣に置かれたのは紡の化粧ポーチだった。
「髪乾かしてますから、メイクしてて下さい」
「は、は、はい」
「ŹOOĻっぽく」
「それってどういう……」
    聞く間も無く、巳波はドライヤーを持ってきて紡の髪の毛を容赦なく梳いていく。温風と人の体温でまた半分寝そうになる紡を、たまに巳波がそっと揺り起こす。紡は瞼にシャドウを乗せながら、幼い頃、父親に髪の毛を乾かされていたことを思い出す。
「……棗さんって」
「はい」
「お父さんみたいですね」
「……知ってます?私たち、一歳しか変わらないんですよ」
「へへ……」
「余裕あるならアイライン引いてください?」
「すみません……」
    とっくにドライヤーの音は止んでいたが、そのまま巳波は何処から持ってきたのかヘアアイロンとスタイリング剤で紡の髪の毛を仕上げていく。その上に自分ではしたことがないような精密な編み込みがなされていくのを鏡越しに見ながら、紡は心臓が高鳴るのを感じていた。
「……シャドウ、終わりですか?濃い色塗ります?それに合わせますけど、リボン編み込むので」
「えっと……」
「ああもう。黒にしておきますよ」
    やがて出来上がった突貫工事のアイドル・小鳥遊紡は、マネージャー・棗巳波に腕を掴まれながら玄関を飛び出した。

    結局仕事はなんとかこなしたが、紡は巳波と同じ角度で何度も関係者に頭を下げた。紡は心底、今日は一人の現場でよかった……と、彼女の"メンバー"のことを想った。
    一日を終えたあと、送ります、と言われてまた紡は巳波の隣に座った。今日の仕事はこれ一件だけだ。……だけだったのに、大変なことにしてしまった。助手席に座ったとたん、紡はまた惨めな気持ちになり、項垂れていく。
「……ところで、昨日の話の続きなんですけど、小鳥遊さん……小鳥遊さん?」
    巳波が話しかけても上の空だ。返事が返ってこない隣を見るなり、巳波は思い切りため息をついて、ウインカーを出した。
    そのまま社用車は街を外れていく。巳波は小さく、この世界は今のところ地理は変わってないはず……と呟いて、ハンドルを切った。

    着きましたよ、と言われてようやく紡は顔をあげた。しかし、紡の家ではない。駐車している車の扉を開けて数歩歩くと、お世辞にも綺麗とは言えない暖簾が紡と巳波を迎えた。
「あの……」
「夕食まだですから、食べてから送ろうと思って。起きてすぐ現場でしたし、お腹すいたでしょう」
「ここは?」
「小料理屋さんです。美味しいんですよ。皆さんと宇津木さんに連れてきてもらったことがあって」
    覚えていたので、と微笑んだ巳波に続いて紡も店内に足を踏み入れる。煤けた床も、客を歓迎しているようには到底思えなかったが、狭い店内はほぼ満席で、おそらくサラリーマンと思しき人々が酒を飲み交わしているのが目立っていた。無愛想な、というよりも日本語が話せるのかもよくわからない店員に案内されて、二人が案内されたのは隅のテーブル席だった。幅は一人分あるかないかくらいの狭さ。巳波も紡も人より細身だから、なんとか入れたようなもんだった。
    注文を取りに来た店員に巳波が何言か伝え、やがて二人の前に次々と和食が並んだ。ぽかんとしているままの紡を放って、巳波は手を合わせた。慌てて、紡も同じように手を合わせる。いただきます。揃った声にならって、紡は料理に口をつけた。
「あ、おいしい……」
「でしょう」
    魚の煮付けを一口飲み込むと、紡の腹の音が鳴った。思わず巳波の顔を見ると、巳波も紡を見つめて微笑む。
「さあ食べて。明日もお仕事ですし、頑張ってもらわないと」
「すみません、ごちそうさまです……」
「私のおごりじゃないですよ。アイドルの食事は経費で落ちますので」
「ちゃっかりしてますね」
「当然の権利です。寝坊したアイドルのメンタルケアもしなくちゃいけなくなりましたしね、自腹切る理由もない」
「うっ……」
    急に刺すように飛んできた事実にダメージを受けつつも、紡は料理を平らげていく。食べれば食べるほど、なんだか腹が減っていた気がしたのだ。結局、巳波のオススメで料理を追加して、紡は満腹になって、巳波にまた頭を下げた。
「すみませんでした、今日」
「いいえ。というか、もう結構です。そろそろ本題に入りたいので」
「本題?」
「車の中でお伝えしようと思っていたんですけれど、まったく話にならなかったので……お料理もしっかり食べていらしたし、頭、働きますかね」
「えっ!?あ……す、すみません……寝坊して……しまったなーって思ってて……」
「切り替えてください。いつもの貴方ならもう切り替えてるでしょう」
「すみません……」
「それで、本題なんですけれどね」
    紡も巳波もまだ未成年なのはこの世界も変わらないようだった。こんな場所に来て、二人で酒ではなく、水を飲みながら、巳波はとりあえずつまみのメニューをいくつか頼んで、もうすこし滞在する意思を表明したようだった。刺身を一切れ口に入れながら、巳波は鞄から一冊のノートを取り出した。A5サイズのスケジュール帳だった。巳波はそのまま、細い指でページを捲る。マンスリーカレンダーから自由記入欄に代わり、巳波はそこに書いてあるメモ書きを指さして、紡にスケジュール帳を差し出した。そっと受け取って、紡はそれを見つめる。
「ずーる、四人組アイドル、メンバー棗巳波……パフォーマー、作曲担当……」
    そこにはつらつらと巳波のプロフィールが書いてあった。紡も知っている情報から、巳波しか知りえないような情報までが羅列されている。一部は、巳波が指で隠して見せてくれなかったが……一通り読んでから、紡は巳波に促されるまま、次のページを捲った。そこに書いてあったのは、おおまかな紡のプロフィールだ。挟まっているのは、昨日紡が眠りに落ちる直前に書いていたメモ。それを参考に書いたらしかった。
「これ、私の……?」
「そうです。貴方が今日シャワーを浴びてる時、床に落ちていたメモを拾ったので……それに加えて私が知っているあなたの事を書いておきました。だから、ここに加筆していて欲しいんです、貴方しか知りえない情報や忘れたくないことを……別に私、読みませんから」
「……どうして?」
「メモを置いていたってことは、昨日の私の言葉は覚えていてくれたんでしょう。改めて言えば、この世界にいると……いればいるほど……記憶が抜け落ちていくんです。そして一度忘れたことはもう思い出せない。……だから、忘れたくないことを書いて、私が管理しておきたいんです」
「棗さんが?」
「マネージャーですから。……というより、本来なら一刻も早くこの世界から元の世界へ帰る方法を探した方がいいと思うんですけれど……私はともかく、貴方はこの世界の著名人です。居なくなれば騒ぎになってしまう。ですから、貴方はアイドルとして違和感なく仕事を続けていて欲しいんです。その間に、雑務の合間を縫って私が調べ物をしますから」
「……うーん、でも、そんなの、見つかるもんですかね?」
    いまいち巳波の熱量が受け取れていない紡を見て、巳波はしばし指を絡めては解いて……やがて、紡の手を強く握った。
「見つけなくちゃ。私たち、帰らないと。ねえ、そうでしょう?」
「……そう、です、ね」
「ŹOOĻには私が必要で、アイドリッシュセブンには貴方が必要なんです。七瀬陸には、貴方が必要だ、そうでしょう」
「……七瀬陸……」
「そう、彼のことを忘れないで……ここにいない彼のことを忘れてしまったら、貴方は……」
    ぎゅ。巳波の真剣な顔と、手に籠った力で、紡はとりあえず頷いて、ボールペンを走らせていく。巳波はそれを見守りながら……内心、非常に焦っていた。
    どうして。たった一日で。自分がここへ来た時の何倍ものスピードで……。
    ――紡の記憶が、もう抜け落ち始めている。彼女が自分の最愛のアイドルの名前を聞いてもほうけているのを受けて、巳波は思わず爪を噛んでいた。
    書いてみたんですけれど、と言って差し出した紡のプロフィールは短く、巳波は……そこに、更に巳波から見た彼女を付け加えていく。元の世界の彼女を。小鳥遊プロダクションのマネージャー、小鳥遊紡を。いや。小鳥遊紡という、女性を。
(忘れさせてやらない、絶対に……彼女が彼女を忘れないように……そうしなくては)
    巳波は前のページ、自分のメモのページを見て……先程紡に隠して見せなかった部分を、声を出さずに読み直す。
    ――棗巳波は、小鳥遊紡に恋情を抱いている。彼女に告白する予定はない。
(……貴方のことは、必ず私が元の世界に帰す)
    巳波はスケジュール帳を閉じて、紡にありがとうございました、と微笑んだ。微笑み返す紡は、大きな欠伸をひとつ、なんだか眠たげな様子だ。そのまま巳波は彼女のスケジュールを確認する。朝早い仕事ではなさそうで、ほっとした。
「それじゃあ、ご自宅までお送りしますよ。」
    そう言って、巳波たちは小料理屋をあとにした。

    社用車は紡のマンションに止まり、巳波は紡を部屋の前まで送った。
「今日はすみませんでした……あと、ごちそうさまでした」
「はいはい。それと、元の世界のこと。コピーしたもの、毎日声に出して朝読んでくださいね?」
「え〜、本当にやるんです?」
「私はやっていますよ。毎日眠る度に……記憶が抜けていることは感じていますし。日々、この世界の棗巳波に私が塗り替えられていく感じが……するんです。世界になんか、染められてやるもんですか。もう私は、私の意思しか認めない」
「……そうですか、そうですよね、私も……マネージャー……だし」
「もちろんです」
「……でも……」
「大丈夫、私が必ず……帰る方法を探してみせるから」
「……わ、私もお手伝いを」
「大丈夫ですよ。その代わり、一日が終わる前に必ずお話をしましょう?仕事終わりなら会ってでも、会えないようなら電話でいいから。そうやって、お互いにお互いを覚えたまま、ここを生きて帰りますよ」
「わ、わかりました」
「なので……これ以上、仕事、増やさないでくださいね?新人さん」
「あ、あはは……は、はい!」
「よろしい」
    微笑んだ巳波が、そっと紡の頭を撫でた。紡はびっくりしたように、しかししばらく撫でられる間、目を閉じて心地よさそうにしていた。
    ――どくり、撫でられたまま、目を閉じたままの彼女を見ていると、想いが抑えられなくなりそうだ。巳波はふうと息をついて、そっとその手を下ろした。
「……おやすみなさい、小鳥遊さん、明日も迎えに来ますからね」
「はい、おやすみなさい!棗さん!」
    そうやって、巳波は部屋に入っていく紡を見送った。……まだ鼓動は高鳴っている。衝動が溢れてきている。目をつぶって、息を吐いて、吸って。それらのすべてを、どこかへ放り投げた。
    先程紡に見せていたスケジュール帳に、この世界についてわかったこと、というページがある。巳波が独自に調べたものが箇条書きになっており、そのうちのひとつに「元の世界へ帰るには、元の世界の記憶が少しでもあることが必要」と書いてある。
「……私は棗巳波。ŹOOĻの作曲家。そして……小鳥遊紡が、好き」
    マンションを降りながら呟いて。しかし。
    巳波はもう、自分が作っていたはずのメロディを口ずさむことは出来なくなっていた。
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「狗丸さん、そのまま行く気ですか」
    お先に、と部屋を出てきた俺を追いかけて腕を掴んだミナが、怪訝そうな顔で耳打ちした。何が?と首を傾げてみると、呆れたように首を振る。
「私が思うに、年頃の女性はもっとロマンチックなデートをご希望かと。雰囲気くらい整えていったらいかがです」
「えっ!?今日の俺なんか変!?……じゃなくて、で、デートってなんだよ!そんなわけないだろ、トラじゃあるまいし」
「逆に御堂さんじゃないから心配なんですよ……」
「いや、だからその。ちょっと友達と遊びに行くだけ……でぇ……」
「そのお友達も、今日はお友達と遊びに行くって張り切ってましたけれど」
「えっ」
    まったく、危なっかしいお二人ですね、とため息をつくミナに連れられて、別室で髪をとかされて、少しワックスで整えられた。最近は専らストレートに仕上げることが多かったから、少し束を作るだけで印象が変わる。それから少しだけ目元にメイクされて、ああ、誰だこれ?俺っぽくない。戸惑っているうちに、「俺」が仕上がった。
「それじゃあ、お友達によろしく」
「あ、いや、あの、ミナ、えっと、いや、俺は」
「亥清さんは気づいてないと思いますけど、御堂さんはわかってると思いますよ、ご参考までに。けれどあまり派手な行動は慎んでくださいね、私たちアイドルですし……」
    彼女の立場はマネージャーなんだから、何かあった時に責任を被るのは彼女ですよ。何も話していないのに、ミナはそう言って去っていった。
    ――え。
    バレてんの?俺たち。付き合う時に「みなさんには内緒なら」と言った彼女の言葉が、頭に響いた気がした。

    待ち合わせ場所に着いた時、え、大人っぽいですね、と言って彼女は目を丸くした。俺も改めてガラスに映った自分を見て、そうかも?と言って彼女と目を見合せて笑った。そう言う彼女も、いつもより少し露出が多くて、治安悪いっつか、スカートも短くて、スタッズをギラギラさせてる帽子は俺がプレゼントしたやつだけど……なんつーか……超可愛い。
「いやぁ……その。ミナがさ、色々見てくれを何とかしてくれてさ」
「棗さんが……?」
「あ!いや、ちが、友達と遊びに行くってちゃんと……」
    ……いや、あれは完全にバレてたな。深く言わず、無理やり会話を一旦切って、俺はそっと彼女の手を掴んで、手を合わせた。俺の手よりちょっと小さい手が、少し迷ったように、でもちゃんと繋ぎ返してくれて、安心する。
    俺たちの仕事的にあんまり外でデートは出来ない、なんてのはわかってる。それでも時期は夏真っ盛り。暑くてダルい反面、外のイベントはどこだって大はしゃぎ。基本インドアのメンバーを無理やり誘ってあちこち行くのも楽しかったけど……「彼女」と遊びにだって行きたい。そう思って、俺は今日半日で仕事を終えた彼女をテーマパークに誘った。彼女は渋って渋って、頷いてくれた。
    世間は夏休み一色。人が多い方が、俺は目立たないはずだし、目立っちまってもなんとかなるだろ、なんて楽観的に考えていた。彼女――紡は「何かあったら他人のフリしてください」「ピンチの時には私がŹOOĻのマネージャーってことにしてください」と口酸っぱく言っていた。わかったとは言ったが、本当は俺が彼女を守ってやりたい。そうなりゃやることは決まり。目立たずにデートを楽しむ!逆に言えば、目立たなければ楽しみ放題だ。
    ……って、ちょっと前まで思ってた。
「あ、あの!狗丸トウマさんですよね!?なんか……雰囲気違うけど!」
    声をかけられるコンマ数秒前、何かを悟ったのかいつのまにか紡は手を離している。俺が「あ〜……」と言葉を考えているうちに、紡はそっと場を離れている。……早い。さすがあのアイドリッシュセブンを束ねるマネージャー……内心ぼろぼろ泣きながら、声をかけてくれた女の子たちに笑いかけた。
「ごめんな、今日オフだからさ……」
「あ!そうですよね、すみません……!」
「ああ、でも、その。いつも応援ありがとな!」
    それじゃ、と手を振って、その場を後にする。スマホの通知でラビチャを確認した。テーマパークの隣の区間のカフェで待っている、と目印の写真と位置情報付きで紡から。こういうの、慣れてんだろうな。しかきさっき声を掛けられたせいか、周囲から視線を感じる。……俺もまた、「こういうの」に慣れている。だから、真っ直ぐは向かわない。
    視線を感じなくなるまでそっと人混みに紛れて、誰も自分を見ていないことを確認してから目的地へ足を向けた。今度こそ、楽しいデートをしたくって。
    ちゃんと、手、繋いでいたくって。

    ラビッターに俺の目撃情報が上がったのはあっという間のことだった。見た感じ、さっき声をかけてくれた女の子たちでは無さそうだったけれど、どこにでも「ありがたいファン」とやらはいるもんだ。帰りましょうか、そう言って笑う紡に断る術も無く、俺たちはろくに回れないままテーマパークを去るしか無くなった。
    夏の夕暮れはなんだか休み時間が終わる五分前って感じ。仕事で言うならライブが終わるまでの数曲前。楽しいのに、なんか寂しくて、でも「これが終わりじゃない」、そう思える不思議な感じ。俺は少し距離をとって歩く紡に、そっと手を差し出した。
「なあ、代わりにさ、ここ出るまで手繋いでてくんね」
「……でも」
「そ、その……大丈夫!だいぶ夕方になったし、目撃情報は一時間前だし!見えづらいし!だからさ……」
    そんなこんな言いながらも、紡を納得させるには苦しい言い訳のような気もしたけど……紡は微妙な顔をしたまま、やがてその手を取ってくれた。今度こそもう離したくなくて、俺は優しく、けれどしっかりと紡の手を握る。
    俺たちはテーマパークの入口からは少し離れたエリアにいた。出るまで手を繋ぐ。出たら、この手を離さなければならない。出口がもっと遠ければいいのになんて思いつつ、なんだかいつもよりゆっくり歩いてしまう。あれ興味ある?あれ乗ってみる?たまにそう声をかけつつも、狗丸さん、と紡に優しく制されて、その度に笑ってみせて、なんことないように振舞って。それでも。
    もう少しだけ、こうやって。外で。手を繋いでおきたいのに。俺たちだって、付き合ってるよって。幸せだよって。みんなに見せつけて。俺の彼女、超可愛いよな!?んで、彼氏は俺なんだけどさ!って、思わせて。
    いや……もっと純粋に、外でもっと、紡と触れ合いたいのに。ただ、それだけのことも、アイドルだから許されないのだろうか。自分が憧れたその先にあったものは、こんな……寂しいもんなのか。
「……あ」
    紡が小さく声をあげたのはしばらく経ってからのことだった。足を止めた彼女の視線の先にあったのは、このテーマパークの名物の観覧車だ。夕方から夜にかけてライトアップが始まる。ちょうど、ライトが切り替わって、色とりどりに光っていた。下調べをした感じだと、カップルに一番人気なのはライトアップされた観覧車で、テーマパークを一望できる……確か十分くらいかかるとか、なんとか。
「……あのさ」
    また断られてしまうだろうか、そんな弱気な自分がひょっこり顔を出すのを押し込めて、俺は観覧車を指さした。
「乗っていこうぜ。次、いつ一緒に来れるかわからねえんだから。せっかく……」
    せっかく、一緒に来れたんだからさ。もう二度目があるかわからない、そんなことを考えながら、ようやく言い切ってみた。
    紡はしばらくぽかんとしたような顔をして……やがて、困ったように微笑んで……はい、と頷いた。

    無事に観覧車に乗ってから、俺たちはようやく安心して笑いあった。暗くて色合いがあまりよくわからなかったけれど、暗めの色のものに乗った。
「十分くらい回るんだってさ」
「じゅっぷん……?」
「すごくね?」
「た、高い……んでしょうか」
「そりゃ……乗る前に見ただろ」
「まあ、そう、ですね……」
「……。……高いとこ、無理なタイプ?」
「ああ、いえ!大丈夫です!」
    あはは、と笑う紡はどう見てもやや怖がっていて、俺は笑いながらその手を握った。
「大丈夫だって、落ちる時は一緒だし?」
「それ、シャレにならないですよ……」
「ああ、いや。落ちない!落ちないから」
    ふふ、笑いながら外を眺めた紡と一緒に、俺も窓の外を見下ろした。少しずつ離れていく地面。小さくなっていくテーマパーク。小さくなっていく、と感じていた感覚もやがて麻痺して、ジオラマみたいに思えてくる。ジオラマのライトショー。地面がふわふわして、落ち着かなくなって、たまにガタンと揺れる度に紡が俺の手を強く握った。
    小鳥遊さん、付き合って下さい、そう言ったのはけっこう前のこと。そこから相手にされるまで更に時間がかかって、紡の仕事熱心なところをねじ曲げてまで、あれだけ拒んでいたアイドルとの恋愛をさせている。今日、外でデートしたいって言ったのも俺のわがまま。普段はもっと、隠れた場所で会っている。きっと楽しいから、俺がそう思っただけで外へ出て、結局今日は大変な日にしてしまったし、紡にばっか気を使わせた。
    守ってやりたい、カッコイイとこ見せたい、そう思ってるのに、いつも守られてんのは俺ばっかだ。はしゃいでるのも俺ばっか。
「……なあ、後悔してる?」
    ふと、小さく呟いた。ガラスに映った紡が、俺の方を見ていた。
「俺と付き合ったこと。アイドルと付き合ってしまったこと……」
    紡の小さい手を、両手で包み込んだ。はい、って言われたら傷つくくせに、聞いてしまった。聞いてしまったら、答えを待つしかない。……聞いてしまったことを、後悔した。やがて、ガタンと揺れて、街中が小さな写真みたいになって。一番高いところに来たんだと知った。
「……狗丸さん……。……トウマさん!」
「……あ、ああ」
    紡に名前を呼ばれて、窓の外から視線を移した。下の名前では呼べないかもしれない、間違えて人前で呼びそうだから、と付き合う時に言われていたから、少し驚いてしまって。彼女はぎゅっと俺の手を握り返して、そして、何か躊躇いを吹っ切ったように――。
    時間が止まったように感じた。しばらく高さが変わらないその間、ゆっくりゆっくりとゴンドラが進む間……文字通り、紡と重なり合った。初めて感じた彼女の唇の柔らかさに、頭が真っ白になる。
    いや。え?何。これ。そっと離れた紡が真っ赤になって、また時間が動き出す。少しずつ下降し始めた俺たちと一緒に。俺はそっと……さっきまで紡と触れていた自分の唇を、指でなぞった。途端、急に心臓がうるさいくらいに高鳴って、体中が熱くなって。
「私が決めたんです」
    紡はそう言って、また手を握った。
「貴方といることを私が望んだんですよ。そりゃあ、最初に告白された時はズールの罰ゲームか何かだろうと思いましたけど……」
「思ったんだな……」
「でも、めげずに本気でアタックしてくれたじゃないですか。俺が幸せにしたいって!言ってくれたの嘘だったんですか」
「う、うう、嘘じゃない!俺がお前を幸せにしたいよ!俺が守りたいよ!……でも今日みたいなさ、俺、守られてばっかで……悔しいけどさ、立場的に、俺はアンタを守れないしさ……」
「……でも、楽しかったです」
「マジで?だって、俺は見つかるし、紡は気つかってさ……」
「……それでも、いぬ……トウマさん、オシャレしてきて下さったし……どきどき、しました。棗さん、さすがですね……」
「どきどき、したんだ」
「しました、ちょっと」
「……ちょっと、だけ?」
「……今の方が。どきどき、してますから……その……えっと……さっきのは、勢い、で……」
「……ああ、キス……」
    ……。お互いに顔を見られなくなって、俺たちは反対側のガラスを見ていた。十分間が非常に長く思えたのに、少しずつ大きく……現実的になっていく景色の大きさに、そんなに長い時間ではなかったんだと感じる。
「……私は……確かに……その……ものすごく、悩んだし……今も……悩まないかって言われたら嘘になりますけど……」
    ぽつ、ぽつと、紡が言葉を零す。……あー。また。俺が不安になってしまったから。俺が不安なのを伝えてしまったから。安心させようとしてくれているんだ。
    また、俺を守ろうとしてくれてる。守らせてしまってる。……かっこわりー。「御堂さんじゃないから心配」、ね。ミナの言う通りだわ、心の中でため息をついて。
    観覧車のタイムリミットはもう少し。結局、ライティングをきちんと見ていなかったような気もするが。
「……なあ、紡」
「はい」
「……その。えーっと。……あー。」
    ロマンチックなデートにしてやれなくて、ごめん!
    そう言って、紡の腕を引いた。肩をそっと掴んで、背中を優しく引き寄せた。驚いた顔の紡が、すぐ側にいて。
    そのまま、顔を近づけた。……観覧車の揺れでゴン!と勢いよく額をぶつけて、ごめん!って言いながら、そのまま近づいて。紡は真っ赤になって。なんかもう、どうにでもなれと思って、そんな紡の唇を奪った。
    目を閉じて。紡の体をそっと俺の膝の上に乗せて。こわごわと、ぎこちないまま、紡もちゃんと俺に抱きついてくれてて。ちらっと目開けたら、紡も真っ赤で、近くて。慌てて目をつぶった。
    お互いに恋愛経験は豊富じゃない。俺たちはとても不器用なキスをした。優しくくっつけて、離してみて、やっぱくっつけてみて。こういう時ってなんか……なんかあったよな!?って思いながら……いや、と思い直す。
    ……なんか、俺たちっぽくて、これでいいか、って。
    何度かキスをしているうちに、ガタガタと下降して、二人で外を見た。もう、すぐ終わりが近づいてきていた。俺たちはあわてて離れて、二人で顔を見合せて……笑った。
    お疲れ様でした、と案内してくれる係の人に従って俺は先に降りて……紡に手を差し出した。紡はその手を取ってくれる。そのまま、よっとゴンドラから彼女を下ろした。
    紡は、とった俺の手に指を絡ませた。……そっと、俺も同じように、指を絡めた。テーマパークを出るまで、俺たちは誰に声をかけられることも無く、気づかれることも無く、二人でゆっくりと歩いていった。
    二人で、静かに、ゆっくりと。……俺たちだけのペースで。

「昨日トウマ、遊園地いってたんでしょ!?ラビッターで写真撮られてたの見たけど……まさか一人で行ったわけ!?」
    翌日、楽屋で、まさかハルに詰められるとは……と思いながら、ああ、と微妙な返事をした。
「お、俺らとか〜?連れてきゃよかったじゃん……そ、それとも別の人?なんか……前のメンバーとか……」
「あ〜っ、いやいや、そういうんじゃない。全然、そういうんじゃないからさ……」
「えーっ」
    ちらちらとミナとトラを見てみたけど、どうやら助け舟はなさそうで。俺は大人しく、一人でテーマパークを歩いた上に見つかった間抜けなオフのアイドルとして話を合わせていた。そんな時、ノックの音がして、どうぞ、と声をかけたら顔を出したのは……紡だった。もちろん、今日はいつもの会社員スタイル。全体的にシャキッとしてて、やっぱデートの時とは別人に見える。
    ……まあ、でも、クールで可愛いんだな、これが。
「ズールさん、本日はよろしくお願いいたします!すみません、アイドリッシュセブンのメンバーが到着遅れていたので、先に私だけですけれど……!」
「ああ、よろしく……お願いします」
    ふと紡を見ると、ばっちり視線がバッティングした。あ。やべえ。俺もそう思ったし、紡もそう思ったのかもしれない。多分俺たちは……一緒に真っ赤になった。だって。
    昨日の――観覧車の中の出来事――が、俺たちの初めてのキスだったから。思い出す、感触も、熱も、感覚も。
「……あら、昨日はいい感じだったんですか?」
「やることやったのか?」
「やっ……!?バカトラ!キスしただけだって!」
「えっトウマさん!?……あ、い、いぬまるさん……」
「トウマ……さん?小鳥遊さんってトウマと名前で……え?何?き、きす……?きす?」
「あ、ちがっ、これは……ちがくて!」
「ああっ違うんです!違うんです〜!」
「なんだキス止まりか」
「嫌ですね御堂さん。貴方とはステップの高さが違うんですよ、狗丸さんからしたらお赤飯物です。炊いてきましょうか、私」
「だ〜っっっ!」
    情報量の多さにとりあえず混乱してそうなハルと、やっぱり俺をうっかり名前で呼んでしまった紡と、親みたいな目でこっち見てるミナと、つまんなそうにもうスマホ見てるトラと、テンパってる俺。そのうちに楽屋にアイドリッシュセブンが来て、スパッと紡もミナもトラも態度リセットしてくれて、空気はいつも通りになって。
    ハルだけが狐に摘まれたような、何かに気づきそうで気づかなさそうな顔をしたまま、その日の収録が始まった。
    収録の休憩時間、ケータリングを配る紡を手伝った。配り終えて、片付けを終えて。和やかな雰囲気でみんながだべってる部屋の中へ戻ろうとした俺の手を……するっと、紡の指が撫でた。どきっとして顔を見ると、少し照れながら……紡は扉の影で、そっと手を差し出す。俺も……やや周りを気にしながら、その手に自分の手を重ねた。する、するり、自然とお互いに指を絡めて。ぎゅっとして、それから……名残惜しさを残したまま、離れていく。思わず、堪らなく触れたくなってしまう。
「……あ、のさ、今夜……とか……会えない?」
    勢いでそっと囁くと、紡はさっき絡ませていた手を反対の手で撫でながら、首を横に振る。やべ、やっちまった、がっついてるって思われたか!?焦って何か言い訳をしようとした俺に、紡がそっと囁く。
「まだ……どきどきしてるんです、昨日のこと……。だから……また、二人で……会う勇気が……出来てからで……。……すみません……」
「……え」
    なあ、それってどういう意味?聞こうとした俺をかわして、部屋の中に元通り元気なマネージャーが戻っていく。俺もまた、さっき重ねた手を反対の手で撫でながら、昨日よりも高鳴る鼓動を持て余していた。
    俺たちのペースは、きっと周りよりもずっとゆっくりで、けれど確かに進んでいる。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS R18 一度だけ?


    私たちが付き合っていたことも、その後破局したことも、誰も知らない。私と今添い遂げている女性も、彼女といま添い遂げている男性も、恐らくは話すら聞いていないだろう。少なくとも私は、妻に一言も話していない。
    彼女の子供が大きくなってから、私たちは家族で会うことになった。とはいえ、別にお互いの家族だけで会う訳では無い。彼女に世話になっている皆で彼女の子供に会うことになり、その中に私も入っていたから、私は妻を誘った。きっと、彼女と気が合うだろうと思って。彼女の良い友人になってくれたら、と話すと、意外と仲が良いんだね、と妻は笑った。彼女、同性の友達がいなくて心配ですからね、と答えると、妻はプレゼントまで用意して張り切っていた。そんな妻の様子が相変わらず愛しいなと思って、私は微笑んだ。
    彼女に会いに行った何人かは結婚していて、他は独り身だったものだから、まずは独り身の人間がからかわれる所がスタートだった。その次は伴侶を連れていた私ともう一人。綺麗な人でしょう、と自慢すると、妻は照れながら私の陰に隠れる。そのうちにそんなノリが終われば、目的通り彼女の子供をちやほやするターンになった。彼女の子は今度小学生にあがる。ランドセルはご時世なのか、赤でも黒でもなく、私たちは世代の違いに一緒に笑い、感心した。時は流れ続けている。時代の最先端を走り続ける私たちには必要な学びだった。
    やがて無礼講になって、すっかりみんな飲める年齢になっているものだから、悪酔いしたり深酒する人も、逆にザルの人もいたりして。私はちまちまとゆっくり甘い酒を楽しみながらも、妻と話す彼女を見つめていた。妻は快活でさっぱりとした人間だ。彼女とはきっと相性がいい。予想通り、彼女もすっかり打ち解けたように話していて、心底ほっとしていた。今はどうか知らないが、私と付き合っていた時は同性の友達の一人もおらず、毎度友達と遊ぶと言えば異性。その度に肝を冷やしたのが、なんだか懐かしく感じた。彼女の旦那もそんな経験をしたのかもしれない。……まあ。
    貴方が彼女と出会う前の彼女のことは、教えてあげないけれど。

    彼女とのお付き合いは私の告白から始まり、紆余曲折あって私から振った。これだけを話せばなんとも身勝手な話だろう。細かく話す気もない。すべて私と彼女の胸の内にそっとしまわれている。本来なら彼女も私も少しくらい誰かに打ち明けてよかったはずなのだけれど、そんな約束もしていないのに、私たちは付き合っていたことそのものを周りからはなかったことのままにしていた。……そんなところが、私たちの価値観が通じていた部分なのだろうか。
    妻は先に家に戻ると言った。明日の仕事が早いらしい。一緒に帰ると言ったのに、せっかくなんだからもう少しお邪魔してきなよ、と私の背を押した。仲良いみたいだし、と笑う妻は、別にそういう意味で言った訳では無いだろうが、なにか漏れ出て居ただろうかと一瞬不安になった。結局、私は時計の針が零時を回ってもまだ彼女の家にお邪魔していた。
    彼女の旦那は酒で潰れていた。彼女の子供も、さすがに眠くなったようで、眠りに行った。他にも潰れている人が何人かいたけれど、少しずつメンバーが連れて帰るだの、配偶者が迎えにくるだのと、一人、また一人去っていった。私は途中から、宴会の後を片付ける彼女を手伝い始めた。結果的に、二人で居間とキッチンを行き来することになった。何も意識していなかったけれど、ふと、私たちの呼吸がぴったりだったことに気がついて……少しだけ、口元を歪めてしまう。
「……楽しそうですね」
    ほんの僅かな私の表情の変化を読み取って、彼女が言った。少し驚いて……また私は、微笑んだ。
「楽しかったですよ。お子さん、貴方に似ていますね。可愛らしい」
「そうですか?眉の感じとか目元は旦那に似てると思うんですけどね」
「全体的には貴方の感じがします」
「へへ、なら可愛いでしょう、私に似て」
「……ええ、勿論」
    私たちは洗い物をしながら、そうやって茶化し合う。彼女はあまり飲んでいなかったけれど、少しは酔いが回っているようだった。へにゃへにゃと笑う表情は、誰から見ても可愛らしいと感じるものだろう。
「巳波さんの奥さん、可愛かったですね」
「可愛らしいでしょう、私とは真逆の方で」
「あはは、そう思っちゃいました」
「あら、失礼ですね?」
「いま自分で言いましたのに……」
    大人数で押しかけた割に、洗い物は早く終わった。片付けを手伝う。踏み台を使おうとした彼女を制して、私が高いところに皿を片付けた。そうこうしているうちに、残った客人は私一人になっていた。
「旦那さん、お部屋に運びましょうか」
「ああ、いいんですよ。毛布かけておけば」
「あら、随分と冷たい」
「途中までは起こして運んでたんですけどね、もう最近諦めちゃいました」
「ふふ」
    そう言って旦那に毛布をかける彼女は、言葉よりも優しく彼の前髪をそっと目にかからないように分けていた。その仕草は完全に妻のそれであり、微笑ましいものだったのに……。……。なんとも形容しがたい感情に苛まれて、私は目を逸らした。
「巳波さん、お帰りはタクシーですか」
「ええ、そのつもりで」
「呼びましょうか?」
「そうですね……」
    答えをはっきりさせないまま、私は視線を宙に泳がせる。もやもやと渦巻くこの感情がよくないものだとわかっているから。しかし、私も酔いが回っている。少し……頭が鈍っているのを感じる。
「……ねえ」
    声を掛けると、彼女のくりくりとした瞳が私を捉える。何を疑うことも知らないような彼女の視線が懐かしくて、くすぐったいような気持ちになりながら、私は微笑んだ。
「タクシーが来るまで、立ち話でもしませんか」

    カーディガンを一枚羽織り、彼女は私についてきてくれた。時期的にタクシーは混みあっているとの事で、私たちはひとまずタクシーがとまりやすいであろう少し離れた場所で立ち話をしていた。
    彼女は私の妻の話を聞きたがった。どうでしたか、仲良くなれそうでしたか、と聞くと彼女は嬉しそうに頷いた。今度一緒にスイーツビュッフェに行くのだと答えられて、流石の私も妻の手の速さに驚いて、笑った。
「……あの」
    やがてしばし沈黙が流れた時、それを切ったのは彼女の方だった。
「……いま、お幸せ、ですか」
    彼女はそう言いながら、長い髪をくるくると人差し指で弄ぶ。やや緊張している時、彼女はそうする癖があった。
「……幸せですよ。貴方は」
「し、幸せですよ!」
「お子さんももう小学生ですしね。立派なお母さんですね」
「……巳波さんはお子さんは」
「妻が……あまり子供に積極的ではないんです。持病の遺伝が心配のようで」
「あ、そ、それは」
「いいんです。大丈夫ですよ」
    私は笑って、気まずそうに目を逸らした彼女の頭をそっと撫でた。しばし気持ちよさそうに頭を撫でられていた彼女が、はっとしたように私の手を掴んだ。
「……よ、酔ってますね、巳波さん」
「……ふふ、そうでしょうか」
「酔ってますよ!……そ、その、あの」
    構わず彼女の手を振り払って、私はまた彼女の頭をそっと撫でた。彼女はしばらく困ったように視線を泳がせていたけれど……そのうち、受け入れた。昔と重なる。頭を撫でられるのが好きだった彼女。そっと撫でると、手に頭を擦り寄せて……そんなところも、変わっていない。
「……紡」
    名前を呼ぶと、彼女は少しだけ熱っぽい視線をこちらに向ける。それからすぐ、呼び捨ては……と慌てたようにして。
「た、タクシー……遅いです……ね……はは……」
    困ったように笑う。いや、困っている。
    私がわざと、困らせている。そんな彼女が――。
    ――愛しい。
「……寒いですね」
「そうですね……やっぱり家の中で待っ……み、なみさ」
「寒いから。……あたためて」
    そっと彼女の背中に手を回した。戸惑い、困惑し、逃げようとする彼女を腕の中に抱きすくめた。強い力で……逃げられないように。そんな彼女の首元に、そっと顔を埋めた。
「み、みなみさん、よってます、ね」
「さっきも言いましたね、それ」
「だ、だって、その」
    しばらくそのまま……時が流れた。静かな夜だった。誰も人は通らない。ここにいるのは私たちだけだ。私はそっと……彼女の首筋に口付けて、跳ねた彼女の体を面白がるように、さらに舌を這わせた。そこでようやく、彼女は暴れようとするも、私は……もう逃がす気は、ない。
「ま、まっ……あの……」
    だ、め……。そう言う彼女の首筋から、耳元へ。そっと耳を噛むと、小さく彼女は甘い声をあげた。そのまま中を舐めとっていくと……小さな彼女の体が、また跳ねた。くちゅくちゅと響く水音と、彼女の小さな抵抗と、ぼんやりしたままの私の頭と……彼女と付き合っていた時の記憶。混濁していく。すべてが、夜のままに。そっと彼女の服の裾から手を入れた。慌てる彼女の腕を掴んで、そのまま。やがて彼女は……一際体をびくつかせて、私に体重を預けた。
「な、なに、やって、るんで、すか」
    彼女はそう言って私を見あげた。そのまま服の中を撫であげると、また体をびくつかせる。抵抗しようとする彼女の唇を……強引に奪った。さすがに驚いたのか、しばらくまた動けないでいる彼女をそのまま……より、引き寄せて、舌と舌を絡めて、そっと彼女の敏感なところを指でなぞった。ああ、また。彼女は声にならない声をあげて、体を痙攣させた。
「ま、まって、みなみさ……」
「……ねえ、少し……物陰に」
「いや、あの!ダメです、よ!?私たち、家族が」
「酔っているので、明日には覚えてませんよ」
「ねえ、そうじゃなくて」
    そう言いながらも、大声をあげるわけでも大きな抵抗をするわけでもない。彼女の目は……私を求めている。確信して、ほくそ笑んで、そっと彼女の手を引いて……建物の陰に入って、私はまた彼女の唇を奪った。壁に彼女を押し付けて、さっきよりもっと深く彼女を味わう。ぞくぞくと背筋に熱を感じながら、過ぎった背徳感はどこかへやってしまった。
    彼女はもはやされるがままだった。やがて、彼女のほうから私の首に腕を回した。いつの間にこんなにキスが上手くなってしまったの。嫉妬が渦巻いて、より深く、乱暴に口内を荒らした。すべて受け入れた彼女の秘部にそっと指を紛れ込ませて、やがて……彼女がまた、小さく甘い声をあげる。
    ――嗚呼。言いしれない気持ちに満足しながら、そっと私は下唇を舐めた。彼女は瞳を潤ませながらこちらを見上げる。私はそっと耳に口をつけて、囁いた。
「ねえ、このまま」
「……だ、だめ」
「貴方が欲しい」
「……いや、だめ」
「いいかだめかは聞いてないんですけれど」
「だめでしょう、どう考えても……私も……子持ちだし……巳波さんにはあんないい奥さんが」
「良い妻ですよ」
「だったら……!こんな、こんな、ことは」
「でも……私は……」
    まだ、貴方が好きなんです。そう囁くと、彼女は固まった。驚いた顔で私を見つめる。
「……もう少し、物陰の奥に行きましょうか」
「タクシーはっ」
「いいじゃないですか。混んでるんだから」
「だ、いや、あの」
「……それじゃあ質問変えますけど。紡、貴方も」
    ――まだ私の事、好きでしょう。欲しくないですか。そう言うと、彼女はもっと固まった。それからしばらくころころと表情を変えて、やがて……泣き出しそうな顔をして。
「振ったのは……巳波さんじゃないですか……」
    そう言って、私にそっと抱きついた。

    彼女は最初こそ辺りを気にして焦っていたが、やがて私が与える快感に身を捩らせるようになった。いつの間にか、彼女はより成熟した女性になっている。仕草の一つ一つが、昔よりも色っぽく見えて、私はより丁寧に触り、舐め、噛み付いた。
「痕のひとつもない、旦那さんとそういう感じじゃないんですか」
    そう言ってからかうと、彼女は声を抑えたまま、ようやく言う。
「レスなんです……子育てで忙しいから、旦那も仕事で忙しいし、ずっと……」
「あらあら、勿体ないことをして」
「う、だから、その、ああ……」
「可哀想、紡。久しぶりに可愛がってあげませんと」
「待っ……あ……」
「ねえ、気持ちいいでしょう」
「い、言わないで……」
    恥ずかしそうに俯きながらも息を荒らげている彼女の口をまた奪って蹂躙する。もう彼女は押さえつけなくても逃げようとしない。私は両手でそっと彼女の全身を可愛がっていく。性感帯は何年経っても変わっていない。くちゃくちゃと水音が辺りに響いても、相変わらず人ひとり通っていなかった。
    彼女の中の用意が整ったのを見計らって、私もそっと自分のものをあてがった。そっと擦り付けると、紡はいよいよ泣きそうな顔をして戸惑っていた。
「外で、いやそうじゃなくて、いや、あの」
「……欲しくないですか?」
「……い、いれるんですか」
「そうしようとは思ってます」
「……どうして」
    ぐちゃぐちゃと、生身で擦れる秘部の快感が堪らなくて、次第に耐えられなくなっていく。そのうちに、泣きそうになりながら、彼女が言う。
「それならどうして……あの時、振ったんですか。私、私は貴方が……好きだったのに。こんな……こんなこと、するなら……」
「……」
「あ、待っ……」
    私は答えないまま、そっと彼女の中に自分のものを強引に入れて……その熱さに身を委ねた。彼女が耐えかねて少し大きな声を出して、自分で口を塞いだのを見て……思い切り彼女の中を突き上げる。手で塞いだくらいでは籠らない声が、より扇情的に聞こえて、私はもっと激しく彼女の中で動いた。息を荒げ、声をあげ、しかし腰をくねらせ、私を受け入れる彼女。彼女はいま、私によがっている。好んで私にぐちゃぐちゃにされている。旦那ではない。私に。……言いしれない満足感に満たされながら、私は彼女の中を突き続けた。ほどなくして、力が抜けた彼女を抱きとめる。びくびくと体を震わせている彼女と、締め付ける中の快感に、私も全身が痺れていく。
「……おいで」
    もう彼女は抵抗しなかった。私が誘うがまま、なすがままに体を差し出し、私の背に腕を回して。そっと私の首筋にキスをした。
「……巳波さん……」
    好きって言って。彼女が言った。……私は答えない。好きって言って……消えそうな声で、彼女はまた言った。ねえ、好きって。好きって言ってよ。付き合っている時の彼女のようだった。私たちの間だけ、何年も時間が巻き戻っているようだった。それでも私はあの頃のように好き、とは言わなかった。何も言わず、ただ彼女を快楽に堕として、自分もその快感に酔いしれている、それだけだ。
    酔っているのだ。明日にはもう、覚えていない。
「……好きって、もういっかい、言って、ください、よ」
    さっき言ってくれたじゃないですか。半分泣き声のような彼女の声を聴きながら、腰を打ち付けた。可哀想になるくらい泣きながら、私に犯されている彼女。嗚呼、なんと可哀想なのか。他人事のようにそう思う。
    幾度か体位を変えて、私は彼女を後ろから抱きすくめ、そっと背から首筋に舌を這わせた。手で彼女の胸を刺激しながら、後ろから打ち付けて、彼女がまた締め付ける――そのまま、今度は私も辞めることなく……言葉にならない声をあげ続ける彼女の中を楽しんでいく。止めて、と小さく懇願する彼女を無視して激しく打ち付けるうち、私も波がやってきたのを感じて……逡巡、そのまま後ろから強引に彼女の唇を奪って、すべてを抱き締めて。私の思惑に彼女が気づく頃にはもう、遅い。逃げようとした彼女を逃がさないまま……私は彼女の中で果てた。慌てる彼女の口内を舌で荒らしながら、秘部を刺激して、彼女の中がまた締めあげられる。心地いい。そのまましばらく、無理やり余韻に浸って楽しんでいた。
    罪悪感なのか、ぼろぼろと涙を零しながら、しかし確かに私に欲情している彼女を犯している。……最高の気分だった。

    しばらく彼女は口を利いてくれなかった。手持ちのティッシュで拭いてやろうとしても、強引にティッシュを奪われただけだった。そんな彼女の様子を見て、私はくすくす笑った。
「何がおかしいんですか」
「いえ、可愛らしいなと思って」
「……また、そんなこと言う」
「次の子はどちらに似るんでしょうね?どちらにも似ていなかったりして……」
「巳波さん!」
「……ふふっ」
    服を整えた彼女が私を睨みつけている。彼女も冷静さを取り戻したのか、今は割と焦っているようだ。そんな彼女の頬に、私はそっとキスを落とした。
「ちょ、ちょっと」
「……もう少しだけ」
「……好きって言ってくれないくせに」
「アイドルの好きは価値が高いんです、安売りできません」
「……アイドルじゃなくて……巳波さんの好きが……」
    欲しいのに、と彼女は声を出さずに口を動かした。私は……また、何も答えなかった。しばらく彼女の体にキスを落としているとまた欲しくなって……しかし伸ばした手を、今度こそ叩き落された。その力に、もう付け入る隙がないことを理解して、渋々諦める。
「……巳波さん」
    諦めてタクシーに向かおうとした私の背に、彼女が抱きついた。私はそこで歩を止めた。しばらくそうして、彼女が腕を解くのを待ったが、一向にそんな気配はない。……ふう、と私はため息をついた。
「……貴方も酔っていますから、明日には覚えてませんよね?」
「……何がですか」
「好きです、紡」
「!」
「好きですよ」
    そう言って、ぐいと腕を引き寄せて、彼女を抱き締めて、唇を奪った。音を立ててしばらくキスを楽しんでから、また潤んだ顔の彼女の頬を撫でて……微笑んで。
「おやすみなさい。今日はありがとうございました。酔っていてあまり覚えていないけれど。……ご家族に、よろしくお伝えください」
「……お、おやすみなさい……」
    そっと頭を撫でて、彼女から離れた。数歩、彼女を横目で振り返ると、また物欲しそうに私を見つめている視線に気づいたけれど、もう私は振り返らなかった。
    タクシーに揺られ、家に戻ると妻はもう寝入っていた。当たり前だ。もうどちらかと言えば夜明けだ。
    私はシャワーを浴びて、着替え、そっと定位置になった妻の隣に潜り込む。私が入り込んでも起きない妻の頬をそっと撫でてから、私は目を閉じた。
    私は酔っていたのだ。だから何も覚えていない。きっと彼女もそうしてくれる。眠りに落ちる前に、今日得た快感も、快楽も、そして……形容しがたい切なさも、全てを忘れてしまうことにした。明日からはなんてことない、また妻と二人で生きていく。今日のことは……。
    そういえば、妻とスイーツビュッフェに行くと言っていたっけ、と思い出す。妻は快活でパワフルだけれど、さすがに断られたら悲しむだろうな、とぼんやり思った。

    あれから時間が経った。現場で彼女と顔を合わせても、いつも通り、今まで通りだ。それはその通り。私たちは付き合っていたことを隠したように、あの夜の事も無かったことにした。彼女は良い母親で良い妻を続けているし、私は妻と穏やかに家庭を築いている。私たちの間に特別な何かなんてない。出会ったら、挨拶をして、多少世間話をするくらいだ。もうひとつ言うのなら、妻と彼女はウマが合ったらしく、スイーツビュッフェの後も親しくしているようだったから、彼女と妻の話をするようにはなったけれど。彼女が妻との約束を断らなかったことだけが、意外だった。
    やがて、彼女の子供は小学校に通い始め、彼女と現場で顔を合わせる機会は少し減った。妻に彼女の話を又聞きすれば、子供の帰りが早いから時短勤務をするようになったという。もう会えないか、と内心小さく思いながら妻に微笑みかけていると、そうそう、と言いながら妻も笑う。
「紡ちゃんもまた巳波に会いたいって言ってたよ。休みの日にでも二人で会ってきたら?私は時間合わないかもだし」
「あら、良いんです?女性と外で会うのを勧めたりなんかして」
「そりゃ、紡ちゃんだからに決まってるじゃん!ほかの女は絶対だめだからね!」
「へえ、紡さんのこと、随分信頼してるんですね」
「友達になったからね〜!あんないい子他にいないよ!紡ちゃんだけは信用出来る!」
    快活に笑う妻を見て、私はくすくすと笑った。
    貴方が一番信じているその人こそが。――いえ。酔っていたから、私は何も覚えていないけれど。私は妻から少しだけ目を逸らして、夕飯の続きを口に押し込んでいった。
    ――次は、何を言い訳にしましょうか。なんてね。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS 馬鹿みたいだ


    最後、彼は微笑んでいた。自分も笑っていた。これでお別れなのだと思いながら交わしたキスはやけに淡白で、それが余計に終わりなのだということを紡に実感させた。離れていく彼の熱は、いつもの何倍ものスピードで消えていった。
    現場での自分たちは何ら変わらない。この時ばかりは他社で働いていることに感謝した。もし自社で毎日顔を合わせていたら、いつもの様に笑顔は繕えなかっただろう。付き合っていることすら周りの誰にもバレなかったのだから、別れたって何が変わるわけでもない。変わるのは自分たちの気持ちだけだ。
    人は変わる。時間が合わなくなった。生活が合わなくなった。何より些細な価値観が合わなくなっていった。紡がいくら努力を重ねても塗り替えられなかった違和感を、彼は負担に思っていたのだと知った。彼もまた努力で塗り替えようとしていたことに、紡も負担を感じてしまっていた。だから……別れましょうか、そう言われた時、ほんの少しだけほっとした自分がいたのも事実なのだ。
    部屋に残された私物は各々で片付けておくように決まった。たまにお互いふらっと家に泊まりにきていたから、下着や小物なんかが少しだけ残っていた。紡はそれらを拾い集めながらも、捨てられないままそっと箪笥にしまい込んでいた。今日こそはと思って引き出しを引いても、手が震えてまた押し戻す。その繰り返し。今日、お疲れ様ですと声をかけてくれた彼に、ちゃんと笑い返せていただろうか――。

    帰宅後、買ってきたものを冷蔵庫に詰めながら、紡はふと手元にあるゼリーを見やった。スーパーによく売っている安くて容量の多いゼリーが、二つビニール袋に入っている。
    二つ。
「……間違えちゃったな」
    はは、と乾いた自分の笑い声が静寂に木霊して、ふと紡は部屋をゆっくり見回した。ソファにはクッションが二つ。テレビの前で、笑っていたいつかの自分たちが見えた気がした。くだらないことで笑い、くだらないことで喧嘩して、それでもその先に幸せがあると信じていた。終わりなんて、想像したこともなかった。あの時からずっと彼は悩んでいたのだろうか。何も考えずに彼に甘えていた自分に反して、彼は……。
「馬鹿みたい、私」
    ぽろぽろと止まらない雫が頬をつたっていく。構わずに馬鹿みたい、馬鹿みたいだ、と繰り返した。
    終わったことなのに。私はまだ、きちんと終われていないようだ。



    いくら唇を重ねても、いくら体を重ねても、埋まらない何かがずっと自分たちの邪魔をしていた。何度手を重ねても、心まで重なっていない違和感が、ずっと巳波を悩ませていた。
    長く付き合っていくうち、お互いに忙しさは増していった。手柄を立ててキャリアを積んでいく彼女と、アイドルとして大成していく自分。成長は楽しかった。忙しさすら心地よいと思っていた。彼女の成功も、自分の事のように嬉しかった。ただ、少しずつ、自分たちの関係には疑問を抱き始めていた。
    仕事と自分、どっちが大切?なんて、厄介な恋人同士の揉め事の常套句に過ぎないと思っていたのに、自分がそう思う日が来るとは思わなかった。巳波が二人で一緒に過ごしたかった日を、彼女は自分の担当アイドルと過ごした。ごめんなさい、と後日訪ねてきた彼女を抱きしめても、寂しさが埋まらなくなって行った。……焦った。
    自分が彼女を嫌いになってしまうのが、怖くなった。だから。別れましょうか、重くなりすぎず、軽くなりすぎないように、二人で並んで座っている時に、そう言って微笑んだ。何処を見ればいいのかわからなかったから、宙の一点を見据えて。横目で見た彼女の顔が強ばっているのに気づいて、慌てて目を逸らした。言葉は何も続けられなかった。やがて、わかりました、と言った彼女は微笑んでいた。いつものように――。
    別れを切り出したくせに、出ていく彼女を抱きしめたのは自分だった。愚かしい、馬鹿みたいだ。そう思いながら困惑気味の彼女の唇を奪った。それ以上はもう駄目だ。そっと触れて、離れた彼女の熱が、いつまでも……今でも、唇から離れていかない。

    現場での彼女と自分は普通のままだ。誰に付き合っていることを話してもいなかった。だから、変わったのは自分たちの気持ちだけ。外観は何も変わらない。秘め事はそのままに。しかし、どうしても彼女の揺れる後ろ髪を目で追いかけて、やめる。その繰り返しだ。彼女はもう吹っ切ってしまったのだろう、巳波のような名残を惜しむ様子は微塵も見受けられなかった。
「女性は、強いな……」
    彼女の私物は別れた日にすべて捨てた。名残惜しい、離れ難い、そう思う前にすべて消し去ってしまいたかった。それなのに。部屋のどこに居ても、なぜだか彼女の匂いがする、気がする。彼女の気配がする、気がする。冷蔵庫の中身を取り出しながら、夕飯何に……と声を掛けようとして、誰もいないワンルームの居間を見つめて、はっとする。
    これじゃ、振られたみたいじゃないか。振ったのは自分の癖に?
「馬鹿みたい、私」
    ぽたり、床に落ちた雫を見て、慌てて巳波は袖で涙を拭う。なんだか妙に可笑しくなって、馬鹿みたい、馬鹿みたいだと呟いた。
    終わらせたはずなのに。私はいつまでも、終わりに出来ないままでいる。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS あまくテニガイ


    ざら、ざらり、舌が擦れる度に頭のどこかが痺れていく。ざら。思考が曇っていく。ざらり、もっと、もっと、舌先ではなくて、その先へ。もっと、根元の方へ……欲しくなる。求めて自ら絡めていけば、そんな自分を楽しんでいるのだろうか、相手はそっと逃げて、唇を合わせて、またその間から割り込んでくる。息をするのも忘れるほど夢中になって、呼吸が苦しくて、しかして今度は離れてくれない。後頭部と顎を掴まれたまま、今度はされるがままにするしかない――。
    ようやく解放された瞬間に、紡は息を吸った。はあ、はあと肩で息をする紡と同じように、巳波も熱を持った息を吐きながら、しかしその瞳はぎらりと光を称えたままだ。先程まで紡のそれと絡めていた舌でそっと唇を舐めずって、口の端を歪める巳波の仕草に、紡は背筋に妙な熱を感じ、体が熱くなっていく。
「ねえ……」
    今日は。それだけ言って、答えを待つ巳波の人差し指が、紡の首から顎を伝って輪郭をなぞった。もう反射を抑えられなくなっている体を震わせながら、紡は……小さく頷く。
    満足げに微笑んだ巳波の手に引かれ、紡はすっぽりとその腕の中に包まれていく。ざら、ざらり。今度は自分の首筋を伝うその感覚、熱。堪えきれなくなった紡のしずれた声が、二人を夜へと誘っていく。
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Icon of reverseroof リュウ みなつむSS 泣いてください

【ネタ部分呟き】
仕事で厄介Pに精神ボロボロにされて帰ってきて何も言わずに巳波の膝の上に座る紡を何も言わないでよしよしって撫でる巳波
ぽろぽろ泣く紡が落ち着くまでそのまま
きっともうずっとそういう流れなんやろなっていう
巳波の前で泣けるようになるまで紆余曲折は絶対にある
「泣いていいですよ」じゃなくて「泣いてください」って言われて初めて泣いたんじゃないか


「荷物もってもらってすみません、棗さん。助かりました」
「いえいえ」
    ドサッとマネージャーが荷物を下ろした。事務所の奥まった部屋の扉を開けて、再度荷物を抱えた彼についていき、指定された場所に荷物を下ろした。ダンボールの中には山のような書類が詰まっている。一人で何箱も持っていこうとしていたマネージャーを見つけて、手伝いを申し出て、今に至るが、二人で三往復。この人は一人でやるつもりだったのだろうか、と半ば呆れながら、壁に背をつく彼を見やる。
「いやー、助かりましたよ、本当に。僕しか手が空いてなくて」
「……こういう雑用、宇津木さんがやるべきことだったんですか?」
「いやあ、誰かはやらないといけないので」
「この後は?」
「これの整理です」
    はは、となんてことなさそうに笑う彼と、今まで運んできた数箱のダンボールを見比べた。自分は割と業界の人間の苦労を知ったつもりでいたけれど、それもまだまだ上辺のことだったのかもしれない。
    ふとぼんやり、”彼女”のことを想った。
「……宇津木さん、若手の頃悩んだこととかありましたか」
「若手の頃ですか」
    彼はもう私から目を離し、ダンボールの中身を長机の上に並べ始めている。書類、ファイル、必要なのか不要なのか私には判別のつかないようなくしゃくしゃの紙の束。慣れた手つきで処理していく彼はこちらに目をやることなく、言葉を返す。
「若手の頃は流石の僕もいっぱいいっぱいでしたけど。少しは話したかもしれませんが」
「靴下がちぐはぐだったお話ですとかなら」
「そうそう。だからたくさん悩みはしましたけどね。ほら、この業界って、理不尽の塊だから……納得のいかない叱責を受ける度に、心の中で舌を出したもんですよ」
「いまも十分そういう風に見受けられますけど……」
「はは、そうかもしれませんけど、今は昔よりは余裕あるつもりですね」
    会話をしながら、もう一箱、中身を整理し終えてダンボールを畳む彼の姿には、妙な説得力がある。
「……小鳥遊さんはどうでしょうね、何が嫌で、何が悔しいのか」
    一瞬、体が強ばった。マネージャーは相変わらずこちらを見ないまま、しかしおかしそうに笑いながら、手元の仕事をこなしていく。
「最近の棗さん、わかりやすくって助かります」
「……宇津木さんは相変わらず、ノンデリカシーですね」
「僕、抱かれたい男じゃなくて、察せない男なので」
    嘘つき。声を出さずに口を動かすと、彼は少しだけこちらを見て、カラカラ笑った。
「小鳥遊さんのことは小鳥遊さんに聞いた方がいいですよ。聞いておきましょうか、何して欲しいか」
「……結構です」
    自分で出来ますから。
    強がった。そのまま失礼します、と一声かけて部屋を出る。しばらく歩く。スマホの電源をつけて、メッセージアプリを開いて、彼女のところを開いて、閉じて、また開いた。その繰り返し。
    やっぱり、聞いてもらえばよかったかもしれない。最近なんだか疲れた顔をしている彼女を思い浮かべながら、そのままスマホをポケットに入れた。

    最近、現場で彼女を見る度、どうやら元気がなさそうだ。初めは具合が悪いのだろうかと差し入れをしてみたり、疲れているのだろうかと思って労いの言葉をかけたりしてみたが、何も好転しているように見えない。寧ろ日増に、彼女は疲れていっている。
    私は常に傍に居られない。彼女が受け持つアイドルの彼らにこっそり探りを入れてみたけれど、わからずじまいだ。彼らが支えてくれるのだと安心したかったのに、どうやら彼女は彼らの前ではいつも通り振る舞っているようで。察しが良い人たちも、あまり綻びを感じ取ってはいないようだった。――役者の自分より、彼女はずっと役者かもしれない。
    それでも、自分のアイドルが目の前にいなくなると、彼女は顔を曇らせる。仕事中、休憩、束の間、ふと彼女がいた方を見やると、何やら不機嫌そうなプロデューサーに頭を下げている姿が目に入った。……業界ではほんの少し、悪い意味で有名な人だった。私も少しは知っている。
    この業界、理不尽の塊だから。
    マネージャーの言葉が頭を掠めていく。

    悩んで悩んで、結局私が送ったのは『今夜、ご予定如何ですか?』なんていうちゃちなメッセージだった。送った私ですら、夕飯に誘ったのか、家に行きたいのか、どのような意図なのか、よくわかっていない。とりあえず、何か送らねばと思った結果、そんな曖昧な言葉になった。彼女はどう意図を汲んでくれるだろうか。彼女の判断に委ねてみようかな、なんて思いながら返事を待った。
    返事が返ってきたのはもはや夜になってからだった。仕事を終えてしばらくしても彼女から既読すらつかず、メンバーには少し残って作業があると言って事務所の部屋を借りた。スマホでできる範囲の作曲作業をして、いい加減帰ろうか、なんて思った頃に来たのは、なんとも名状しがたいスタンプでの返事だった。怒りなのか、悲しみなのか、笑いなのかすらわからない、謎の生き物のスタンプ。どうしたものかと思いつつ、とりあえず返事をひとつ。
『まだ私、事務所にいますよ』
    今度は瞬間で既読がつく。開いたままにしているのだろうか。もう一度、今度は別の生き物のスタンプが来てから、メッセージ欄は記入中の吹き出しになった。
『まだお仕事ですか?』
『いえ。貴方からお返事が来るかなと思って』
    しばらくメッセージが途絶えた。ストレートに言いすぎただろうか。自分のせいで私が家に帰っていないことを気に病むだろうか。しかし。
『前回お会いしたの、三週間前なんですね』
    カレンダーを確認していたのか、と理解する。付き合う時、スキャンダルを気にして、せめて三週に一度しか会えない、と言ったのは彼女のほうだ。そうですね、と相槌を打った。またわけのわからない生き物のスタンプが送られてきて、しばらく待つ。
『……明日、朝早いですか?』
    指先で髪の毛を弄びながら、少しどぎまぎして、しばし返事が打てず、やがて『いいえ』と返す。続けて『泊まりに来ますか?』と、送ってみた。
    メッセージが記入中になり、取りやめ、記入中になり、それを繰り返して数回。たっぷり約五分経ってから、彼女から今度は可愛らしいキャラクターの『おねがいします』と書いたスタンプが送られてきた。私は私のスタンプを送っておいた。

    私はアイドル。彼女は別の事務所でアイドルのマネージャーをやっている。つまり私たちが恋愛関係にあるのは、ゴシップ誌がこぞって集る餌でしかない。本当は事務所に迎えに行って、二人で手を繋いで、いや肩を抱いて?……笑い合いながら、時には愚痴を言い合ったりして、気がついたら私の家に着いているような、そういった脚本の中のような恋愛に憧れない訳でもないが……現実では合鍵を渡しておくのが精一杯。私が帰り着く前に、彼女から『お邪魔します』とメッセージが届いていた。先に着いたようだった。
    いつも誘うのは私からだ。それも、かなり無理やり誘わなければ、家になんて来てくれない。それなのに、今日は。ともすれば。
    彼女、私に会いたいのか。高揚感はすぐに冷静さに変わっていく。最近の彼女を思い出す。しばらく時間が合わず、通話もろくに出来ていない。いつもなんだか疲れているようで、今日見た姿はプロデューサーに頭を下げている姿だけだ。すっと背筋を正してから、自分の家の扉を開けた。鍵は開いている。
「あ、おかえりなさい!ご飯、食べましたか?」
「……ただいま。まだです、貴方は」
「私、まだで……何か作らせてもらおうかなって……あ!キッチン、綺麗に使いますので!」
「いいんですよ、鍵を渡しているんだから、もっと自由に家を使ってもらって」
「そ、それはやっぱまだ気が引けるというか……」
    あはは、と笑う彼女は……悲しくなるほど、元気そうだった。彼女のアイドルたちの前で笑い続ける彼女のまま、そのものだった。胸の奥がギリ、と軋んだ。私も……そんな彼女に、上手に笑い返してみせる。
「私が作りますよ。貴方はリビングに座っていて」
「えっ」
「料理がしたい気分なので。何が食べたいですか?和食か、洋食か」
「えっと……でも……」
「中華は材料がないので。和か洋か。どっちです?」
    彼女はストレートに選択肢を用意して迫ると、必ず答えるところがある。それなら、和で……と答えながら素直にソファに座る彼女の姿を見つめながら、私は冷蔵庫から卵と肉を取り出した。

    美味しかったですね、と彼女はまた、笑った。そうでしょう、と私もまた、笑った。変な間が起きるのを恐れて、何となくテレビをつけた。アイドルブームの現代、テレビに映っていたのは未だ無名のアイドルだった。その次に、私たちの映像が流れる。二人で並んでソファに座り、テレビの中の私を見つめる。客観的に見れば、おかしな光景かもしれない。
「……お風呂、入れますよ」
    ふと声をかけてみると、彼女は一瞬遅れて反応した。
「え?ああ、えっと」
「自律神経を整えるには湯船に浸かるのがいいですからね。ごゆっくりどうぞ」
「いや、棗さ……、巳波さんのお宅ですのに、私が先に入るのは、申し訳なく」
    急に慌て始めた彼女をじっと見つめる。こういうところ、妙にきっちりしているあたり、生真面目さが伺える。だから、だからこそ――心配なのだ。
「……それじゃ、一緒に入りますか?そしたら問題は解決しますよね」
「え!?」
「二人だと少し狭いですけど、まあ入れないことはない――」
「す、すみません、お風呂先に頂きます……」
「……ふふ、残念です」
    入浴剤ありますから、と言って彼女に渡す。そのまま彼女は脱衣所へ入っていった。テレビはいつの間にか、もうアイドル特集を終えたようだった。一人になってしまうと、なんだかそんな気分でもなくなって、テレビの電源を切る。部屋が静寂に包まれて、彼女が湯船に浸かった音が聞こえた。
    恋人と過ごす久しぶりの夜。泊まりがけ。風呂に入る彼女。その後には私が身を綺麗にして。……しかし。
    言葉とは裏腹に”そんな”気分になれないのは、どうしてだろうか。

「電気消しますね」
    スマホで操作して電灯を切った。そのまま布団に潜り込むと、先にすっぽり顔まで布団に潜っていた彼女が少し身を強ばらせたのを感じた。
「貴方の了承なく、何もしませんよ。安心して」
「わ、わ、わ……わかってます、けど。久しぶりにお会いして、その……こ、こんな近く、にいることが、ですね……」
「三週に一度しか会えないって言ったのは貴方で、今日泊まりに来ることにしたのも貴方ですよ」
「……お返しする言葉がありません……」
「……私に会えて嬉しくないんですか」
「う、嬉しい、ですよ……嬉しい……です!」
「……私も」
    会いたかった。そう言って頬を撫でると、ほのかに彼女の頬が色付いた気がした。そのまま髪を梳く。指に絡まる髪に、指を絡ませて、頭を撫でた。恥ずかしそうにしながら……しかし、いつもよりも素直に私の手に擦り寄る彼女の体を、そっと引き寄せた。またかちこちと強ばった彼女の背中を、そっと撫でて、落ち着かせる。
「……あ、あの」
「はい」
「今日って……お泊まりするって……あの」
「はい」
「そういうこと、しますか」
    少しずつ私の腕の中に引き込まれていく中で、彼女は少し不安そうにそう言った。複雑な気持ちのまま、どちらでも、と答えると、彼女は悲しそうな顔をする。……現場で見たような顔だ。傷つけた?半ば焦って、そっと擦り寄った。
「……貴方が嫌じゃなければ、私は、ぜひ」
「……」
    彼女は答えないまま。私は言葉を失ったまま。
    ……やがて、二人とも黙ったまま、私は天井を見上げていた。彼女の体をそっと引き寄せたまま、優しく撫でているまま。
    今日が終われば、また会えるのは三週後。しかし。言い換えるならば……別に、抱き合うのは三週後でも構わない。
    今日はもっと、他になすべきことがあるのだろう。そしてそれはきっと、三週後では、もう遅い。
「疲れているでしょう」
「まあ、今日は現場移動も多かったですから」
「いえ。最近、ずっと。貴方は何かに疲れている」
「アイドリッシュセブンの人気のおかげですよ。嬉しい悲鳴です」
「そうですか」
「巳波さんこそ、疲れてませんか」
「言うほど疲れては無いですよ。仕事も楽しませて頂いてますし」
「そうですか」
    間が空いた。そっと彼女の背中だけは変わらずさすっていた。そうすべきな気がしていた。凪いだ夜に、衣擦れの音だけが静かに響く。
    時に思う。私たちは、素直ではない。私も、彼女も。彼女はまっすぐな人だと思っていたけれど、相手が私だから、ひねてしまったのだろうか。それならそれで、嬉しいような、困ったような、微妙な気持ちになるけれど。
    彼女の方を盗み見た。天井をぼんやりと見つめている目は、少し眠たそうなものの、今すぐ眠る気配はない。私が彼女の背をさするうちに、彼女は私の服の腕のところを恐る恐る掴んだ。……遠慮がちに甘えている仕草だった。
    ふー、と長く息を吐き出して、私は天井に向かって言った。
「私、泣こうと思います」
「え」
    彼女ははっきりこちらを見た。何を言っているのか、そんな顔をしている。私は微笑んで、その頭を撫でた。
「今から泣きます」
「やっぱり何かお辛いことでもあったんですか!?ちゃんと宇津木さんに相談できてますか!?」
「いえ、別に。でも、悲しくなくても泣くと良いらしいですよ。ストレスが減るんですって」
「はあ……そ、そうは言っても急に泣いたりできるもんですか?」
「役者ですからね」
「はあ」
    やがて、彼女はぼとぼと涙を落とし始めた私を見ておろおろしていた。別に何が悲しい訳でもない。そんな彼女を見て笑うと、より訳が分からないといった顔をしていて、可愛らしい。
「貴方も、泣けばいいですよ」
    彼女はきょとんとした顔で、私の涙を袖口で拭った。
「いや、違いますね。泣いてください……でもなくて。貴方も泣いて。泣きなさい。私と一緒に泣くんですよ」
「何をおっしゃってるのか……」
「辛いから泣くのでも、弱いから泣くのでもありませんよ。恋人にせがまれたから、泣いてください。それだけです、ほら」
「……そんなこと、言われたって」
「泣き方がわからないなら、教えてさしあげますよ。役者はいつだって、笑いたい時に笑えるし、泣きたい時に泣けるんです。そうじゃないなら、役者なんてやめた方がいい。……貴方も、立派な”役者”をやるのなら、今、泣いて御覧」
    黙った彼女の背をそのまま優しく撫で続けた。反対の手で、頬をなぞる。複雑な面持ちの彼女は、少し現場の雰囲気と似ている。
「私は……立場上、貴方の仕事の内容は聞けないし……私に言えない愚痴もあるんでしょう。でも、ほら。一緒に泣けますから。いつだって、貴方が泣きたい時に一緒に泣いてあげる。代わりにではなく、一緒に」
「……巳波、さん」
「世の中、一瞬で泣ける役者ばかりじゃないんですよ。せっかく仕事が出来る彼氏なんですから、利用すればいい」
    さあ、ほら。そう言ってまた泣いてみせると、今度こそ彼女の目元にじんわりと雫が溜まっていく。
「そう、その調子。……筋がいいんじゃないですか」
    さすが、棗巳波の彼女ですよ。そう言って、彼女を包むように抱きしめると、そのうち嗚咽が聞こえ始めて。震え始めた体を上から下へ、下から上へ、抱きしめたまま、撫で続けて。
「……良い子ですね」
    そのうちに彼女は、声をあげて泣いた。私の背に手を回して、力いっぱい抱きついて。小さな体を震わせて。約束通り、私もそのまま泣いていた。
「貴方はあくまで泣きたいわけでもなんでもない、そうでしょう」
「……」
「私もそう。おそろいですね?」
「……。……はい……」
    そうですね、と泣きながら笑った彼女をさらに抱きしめて、その夜、私たちはずっと泣いていた。ずっと――。
    なんだか子供っぽかっただろうか。らしくなかっただろうか。もっと大人な手段で、もっと私の言葉や何かで、彼女を癒せたのではなかったのだろうか。しかし翌朝、私たちはお互いに泣きすぎて腫れた目を見て、二人で笑った。きっと、心から。
    彼女が本当に笑うのを見たのは、実に三週ぶりのことだったかもしれない。

    おかえり、と声を掛けたが返事はなかった。いつもよりやや乱暴に鞄を置き、ジャケットを脱いで壁にかけ、不機嫌を顕にしながら……私の膝の上に小さく収まった。お互いに何を言うでもない、私もそのまま彼女の体を包み、頭を撫で、その背に頭を預けた。
    ぽた、ぽた、とたまに手に零れて落ちているのは彼女の涙だ。あえて拭うことはしない。そのまま、彼女が泣き終わるまで、私たちは何も言わないし、何もしない。何があったかも聞かない。ほんの少し体をさすって、抱きしめて、涙を流す手伝いをするだけだ。
    あの日を皮切りにして、本当にごく稀に、彼女はこうやって涙を流す。――悲しいことがあったわけでも、辛いことがあった訳でもないのだ。私がそう頼んだから。そういう名目で、彼女は泣く。泣けるように、なってきている。少し泣けばまたすぐに落ち着く。運命が違っていれば、彼女は名女優のライバルだったのかもしれない。落ち着いた彼女は、言い訳がましく人差し指を立てながら言う。
「……巳波さん、私が泣くと嬉しそうにしますからね、だから泣いてるだけですよ、泣いてみせてあげてるだけです」
「あら、私のために泣いてくださってるんですね。嬉しいです」
「……そうでしょう?」
「ええ。これからも私のために泣いて、私のために笑って、私のために生きてください。ずっと貴方の全て、私のために生きて」
「それは……うーん……アイドルのマネージャーとしては難しいというか……」
「興醒めですよ。台詞だけでも言ってくれたらいいのに」
「私は役者さんじゃありませんから」
「ふふ……なら、まあ、せめて、泣くのだけは私のためにしてくださいよ。私、貴方の泣き顔が好きなので」
「趣味が良くないですよ」
「良いと思いますけどね、普段気丈な貴方の弱っている姿――」
「巳波さん!」
    ふふ、と笑いながら、そのまま体をもっと引き寄せて、改めてしっかりと膝の上に彼女を乗せた。帰ってきた頃と対照的に、彼女はころころ表情を変える。そっと頬に口づけて、真っ赤になった彼女が身じろぎする前に、今度こそ唇を奪った。……ほんの少し、涙の味がする。
    唇が離れるとそれはそれで名残惜しそうな顔をする彼女に、自覚はない。私は……彼女の表情のひとつひとつが愛しくて、仕方がない。仕方がなくて、そのまま抱きすくめて。
「そういえば、宇津木さんに最近言われましたよ。棗さん、あの時上手くやれたんですね、って。なんの事だかわかります?」
「……さあ、なんの事でしょう」
    夕飯、出来てますよ、と声をかけると、彼女は顔を綻ばせる。じゃあ私が準備しますね、と言って聞かない彼女に台所を追い出される。二人で手を合わせて、食事を取って、風呂が湧いた。着替えを用意している彼女に、私は、ねえ、と声を掛けた。
「……今日って、そういうつもりでいいですか?それとも一晩中泣きますか?」
    彼女は何も答えないまま、真っ赤な顔を小さく振りながら、脱衣所へ入っていった。ふふ、と私は小さく笑みを零した。
    どうやら、明日は目を腫らさなくてすみそうだから。
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「……?巳波さん、お昼の薬はもう……」
「……嫌ですね。私が管理しているんだから、疑わなくたって大丈夫ですよ。今日のお昼はまだ飲んでません」
「……でも、こんな……こんなのでしたっけ……」
「……飲めないなら飲ませてあげます」
 錠を一つ、水を含んで無理やり彼女の唇と自分のそれを重ねた。今日に限って彼女は普通で、いつも通りで、でももうそれくらいでは引き返そうと思わないくらいに、私は壊れてしまっている。不審そうに嫌がる彼女の口の中に無理やり入れた錠は、何故だか甘い。諦めない私に根負けして、そのうち彼女はすべて飲み込んだ。そのまま彼女の唇をそっと舌でなぞって、口の中を味わっていく。ざらり、彼女の舌が絡まって、ああ、甘い。甘い。甘い……。
 一通り彼女を味わって顔を離すと、焦点の定まらない瞳で彼女が私を見上げている。即効性のある薬というのは本当だったらしい。
「……巳波さん、これ、は……」
「大丈夫ですよ。いつもより少し強い安定剤をもらっていたんです。最近の貴方、不安定ですから」
「そ、そう……です、か……?」
 既に呂律が怪しくなっている彼女が愛おしくて、そのまましばらく頭をなでる。髪の毛を指で梳くと、そっと手に寄り添ってくる彼女のそういうところは付き合った頃からなんら変わらない。好きで、好きで、好きで。彼女に付き合えないと言われるたびに引き裂かれそうだったことも、ついに彼女に受け入れてもらえた時にこの世のすべてを愛せそうに思えたことも、彼女が生涯を共にしてくれると頷いてくれた時の幸せも、すべてすべて。
 ――走馬灯。
「……準備しなくちゃ」
 彼女のスマートフォンの電源を落とした。通知欄にあった「七瀬陸」の文字を見て、少しだけ罪悪感に襲われる。けれど、でも。もう、いいですよね。貴方たちに彼女はあげない。真っ黒になった画面を下にして、私のスマートフォンを切ろうとして……未読の通知にあるメンバーの名前に、一瞬だけたじろいだ。
 ――ねえ、紡さんと……別れなよ……もう巳波、見てらんないよ。そう言った亥清さんも、それを心配そうに見守ってくれていた狗丸さんも、御堂さんも……。
「……ごめんなさい」
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。心の中で何度も謝りながら、自分のスマートフォンの画面も暗くなった。そっと床に置いて、遠くに蹴り飛ばした。きっと今夜電話が来るだろう。私はそれには出られない。
 ――私たちを最初に見つけてくれるのは、彼らだろうか。
「……み、なみ、さん……?」
「……大丈夫、傍にいますよ。……もうずっと一緒です。これでずっと……最期まで一緒ですよ……もう、私がいないって寂しくなって自傷しなくたっていいし……喚いて傷つくこともない」
「な、なんか、変……ですよ。みなみ、さ……」
「言っていたでしょう、ずっと一緒にいてほしいって。どこにも行かないで、傍にいてくれって。これしかないんです、もう。こうするしか……こうするしか、ないんですよ……」
 身なりを整えていく。少し前に用意しておいた綺麗なドレスで彼女を彩る。力が入らない彼女を着せ替えるのは聊か大変ではあったけれど、ほら、こんなにも似合っている。
「結局、お互いに忙しくて式も挙げられませんでしたからね。ほら、ウエディングドレスには少し及ばないけれど……ああ、メイクアップも。勉強しておいたんです……ほら、整えるから、もう少し起きて……。……もう、起きてられませんか」
「な、んか……ちから、が」
「ふふ、へにゃへにゃで……可愛らしい」
 大丈夫ですよ、そう言いながら彼女の体をそっと壁に寄りかからせて、彩っていく。このために数日、女優のメイクアップアーティストに練習させてもらっていたのだから。妻に化粧をしてあげたいのだと言ったら、ああ、さすが愛妻家ですね、と言って微笑まれた。
 私たちのことはどう報道されるのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、彩った彼女の顔は、花が咲いたようだ。
「ほら。ね、私、結構要領いいつもりなんです。可愛いですよ、紡」
「……ぁ……」
「ふふ。嬉しいですか?そうですか……それならよかった」
 ぁ、ぁ、と小さく聞こえる彼女の声は肯定なのか否定なのか、歓喜なのか悲鳴なのか、もうわからない。私も用意しておいたタキシードに袖を通してみた。仕事以外でこんな豪華な服を着たのは、初めてかもしれない。
「……ねえ、私、似合ってますか」
 ずるずると壁から床へ、ぐったりと倒れている紡にそう問いかけて、なんだか妙に嬉しくなって、体を起こしてそのままキスをした。
「あの世に行っても一緒です、誓いますよ。貴方も誓ってくれるでしょう?」
 紡はもうろくに体の自由が利かないのだろう。虚ろな瞳を懸命に動かして私をとらえて、なにやら唇を震わせる。私は……何も答えず、何もくみ取ろうとせず、ただ……彼女に向けて、微笑んだ。最後に私は、用意していた最後の物を手に取って……彼女の首にそっとかけた。
「……色々、悩んだんですけどね」
 麻縄が首に食い込むことをしっかり確認してから、長さを確認する。用意していた踏み台がちょうどよさそうだった。
「一緒に旅立つのに、なんだかいいじゃないですか。宙に浮いたまま逝ける、なんて」
 空を飛んでるみたいでしょう?自分でも狂っているような言葉を笑いながら。私も自分の首に、縄をくくった。ふう、と息を大きく吐いてから、私もそっと、紡に飲ませた睡眠薬を……飲んだ。
「さて……」
 紡を机の上に載せて、天井に縄をくくりつけた。彼女を抱きかかえたまま自分の縄を括りつけている間、私にも抗えない眠気がやってきて、それでもどうにか支度を終える。
 これでいつ、気を失っても……もう、大丈夫。
「……紡。紡。もう、寝ちゃいましたか」
 腕の中で寝息を立てる彼女の腕に、体に、首に、線状の傷跡が目立つ。
「辛かったですよね。ごめんなさい……もっと……」
 もっと早く、こうしておけばよかった。
 踏み台の上で、彼女の体を抱きしめた。愛しい体を何度も撫でて、自分で赤く染めた唇に何度も口づけて、やがて私の足も、ふらつき始めた。力が入らなくなっていく。
「……ふたり、で……ずっと。ずっと、いっしょに」
 ずっといっしょに……。
 かくん、と、からだが、ゆれ、た。
 ――。畳む

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「いえ、人の目がないだけでこんなに気が楽なもんなのかと思うこともありますよ」
    そう言って微笑み、髪をかきあげる巳波の仕草に思わず心臓が高鳴る。一般人には出せない色気や妖しさ。それでも、彼がタレントでない以上、周りも見目が綺麗なマネージャーとしてしか見ていない。紡はそっとガラスに映る自分を確認した。……こんな平凡な見た目であっても、タレントだから常に見られている。慣れない人々の視線に、たった数日で紡は疲れ切っていた。……巳波の言う通りだ。
「……まあ、その分、貴方に負担をかけていますね」
「い、いえ……棗さんだって頑張ってくれてるじゃないですか。ここは協力して、早く、穏便に、元の世界に帰るべきですから」
    巳波がマネージャー業と並行して調べ物をしてくれている以上、自分のやるべき事はこれ以上巳波の仕事を増やさないことだ。アイドルとしての仕事をこなすこと。失敗しないこと。期待に応えること。
「……。……スケジュールには余裕ありますよね。小鳥遊さん、少しこちら……よろしいですか?」
「?……ここじゃダメな話、ですか?」
「……ふふ。私はいいんですけれど、貴方は……アイドルですからね」
「……?……はい……」
    おいでおいで、と手招きする巳波に導かれるまま、紡は傍にあった会議室に足を踏み入れた。その後、巳波が部屋に入る。特に何も無い、机と数人分の椅子が置かれているだけの小さな会議室だ。
    ――カチャ。
    会議室の中を眺めていた紡の背後で、鍵が閉まる音がした。巳波の長い指が、そっと鍵から離れる。
    目が、合う。
「……あ、あの……」
    なぜだか急に気まずくなって、紡は急いで目を逸らした。優しく微笑んだままの巳波の感情は読めない。巳波はただじっと、紡の瞳を見つめているままだ。
「まだ私は研修が明けたばかりの新人マネージャーですので……」
    くす、と笑いながら、自分に伸びた手を、紡は反射的に避けようとして……左手首と右肩を掴まれる。
「ちょっと、癒し方が下手かもしれないですけれど。許してくださいね」
「ま、まっ……」
    ――体温。巳波との距離はゼロだ。だらだらと、背中が冷や汗だらけになっている。頭が熱い。体が熱い。離れようともがくほど、不思議と巳波の腕の中に誘い込まれていく。しっかりと背中と腰に手を回されて、もう、紡の意思では抜け出せなくなっていた。
(……さっき、唇、塗ったのにな……)
    妙に冷静になって、ぼんやり思う。ヘアメイクしてもらったのに、髪を梳かれて。化粧、崩れてないかな。大丈夫かな。一瞬唇が離れて、安心して息を吐いて、でもまた唇を奪われる。離れては奪われて。室内に、控えめなリップ音が木霊する。
    ――やがて、巳波が一息ついたところで、紡はキスが終わったことに気づいた。依然として距離は近いまま、そのまま巳波はまたしばらくじっと紡を見つめ……そのまま、紡の首元に顔を埋めた。
「……あ、あの……えっと……どうしちゃったんですか、棗さん」
「……なんか、キス慣れしてません?」
「そんなことないですよ?」
「……そうですか。なんだか私が思っていた反応と違ったものですから……癒されました?」
「メイクが崩れてないかすごく気になります、この後収録なので」
「……ちゃんと崩さないようにやってますよ。……崩して差し上げてもいいですけれど」
「え」
    はあ、と何やらため息をついて、巳波はそっと体を離した。さらさら、と何度か紡の髪を整えて、そのまま唇の端を親指で拭う。
「……甘いものとか、食べます?」
「あ、頂きたいです」
「……気まずくなったり、しないんですね。いきなりキスされたのに」
「気まずくなっても仕方ないですからね。アレですよね、なんかキスとかハグってホルモンが出ていいらしいですし、棗さんのお疲れも取れました?」
「……私はなんだか疲れがドッと来ました、今」
    そろそろ行かないといけませんよね、と呟くように言いながら、巳波は会議室の鍵を開けた。そのまま何も無かったかのように、二人で部屋を後にした。

    収録に行くアイドルたちを見送ってから、巳波は大きくため息をついた。
    この世界でなら、もしかしたら……そんな出来心で彼女の唇を奪ったのは自分、だけれど。抱きしめたのも、自分、だけれど。
(体は緊張してたし、赤くはなったものの……"あれ"じゃ、鈍感どころの騒ぎじゃない)
    だいたい、男に体を触られてそれもコミュニケーションだと思っているのなら、早急に認識を改めて貰う必要がある。それは別に、巳波と恋仲になるからとか、そういう以前の話だ。……心配になってきた。
(どうやったら意識してもらえるんだろう)
    自分がやるべき事は、元の世界へ帰る方法を探すこと。しかし、元の世界へ帰れば自分はアイドルだ。常に人の視線の中で生きる。今みたいに、気楽に彼女とは会えない。なかなか触れられもしない。
(……この世界にいるうちにもう少しだけ踏み込んだ関係になりたい、と思ってしまうのは……)
    ははは、と、小さく乾いた笑いを零し、巳波は口をしっかり結んだ。
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「紡!」
    病院の廊下を勢いよく走っていく滑車を、巳波は追いかけながらも、集中治療室で遮られ、その扉にべったりと体をくっつけ、苦しそうな声をあげていた。
    遺伝の可能性がある。早くに亡くなることもあるかもしれない。――お義父さんから結婚前に言われたことだった。覚悟はしていた。それでも。それでも。
    両脇に抱えた、まだ自立できない子供たちを抱きしめた。巳波と紡の間に産まれた、ふたつの命。双子の愛する子供たち。
「……早すぎ、ですよ……こんなんじゃ……あんまりだ……」
    かすれた声と共に、巳波は膝から崩れ落ちていく。
    集中治療室のランプは、赤いままだった。

    ハッとした時、紡はいつも通り小鳥遊プロダクションにいた。いつも通りスーツ姿で、髪をしっかりとまとめ、自分が整理している書類は……数年前、アイドリッシュセブンが行っていた仕事だ。懐かしい、と思いながら、しかし……日付を見て、言葉を失う。
(……時間が……戻って、る……?)
    どこの日付を確認してもそうだった。「あの時」のまま。言葉を失う。そんな紡に、声をかけたのは万理だった。
「紡さん、どうしました?」
「……あ、あの、万理さん。つかぬことをお伺いしますが……。……私って、小鳥遊紡……です、か?」
「え?は、はい……?」
「……子供とかって……いません、よね?」
「え!?子供、いらっしゃるんですか!?だ、誰と……」
「ああいえ!いません!あは、あ、あはは!」
    愛想笑いをしながら、スケジュール帳を見て、それでは、と別れを告げる。プロダクションを出て、アイドリッシュセブンのみんなと一日を共にする。
(……今まで……)
    ぼんやりと、思い出す。そう、私は……棗巳波と結婚して、棗紡になって。子供も二人いて。けれど……当初考えたように、時間が戻るなんてありえることでもない。だから。
(……今までのことが、夢だったんだ……)
    ものすごく長い夢を見ていた。
    ただ、それだけだったんだ。
    ……きゅ、と、紡の胸の奥が痺れていく。

「ŹOOĻさん、今日はよろしくお願いします。あ、悠さん、メイク変えたんですね!巳波さんも、新しい衣装とても似合ってて……」
    いつも通り挨拶をかわそうとして、そう呼んだ時、亥清悠も棗巳波も怪訝そうな顔をした。そうだ。あれは、夢だったんだ。私たちは……名前で呼ぶような仲ではなかった。あの日、あの時、突然巳波が接触してくるまで、紡はŹOOĻのメンバーを名前で呼ぶことは無かった。だから。
「……あ、その!すみません、昨日……番組見てたら、呼び方がうつっちゃって!」
「あー……そう?」
「そう、ですか?」
「すみません、失礼いたしました。それでは、また後ほど……」
    そんな巳波の反応を見て、紡は確信した。
    夢、だったのだと。
    でも、まあ、そうか、とも思う。自分は他社のタレントと付き合わないと決めていたし、あんなに魅力的なタレントが自分のようないちマネージャーに惚れ込んでくれるのだって、夢みたいな話で。
    夢であったほうが、しっくり来てしまう話で。
(……そっか)
    夢の中での感覚は、いまも生々しく紡の心に、体に残っている。なんども重ねた唇も、なんども重ねた体も、子供も。恥ずかしい。すべて、嘘だったのに。
(……私って、深層心理で棗さんのこと、好きだったのかなぁ)
    巳波さん、そう口が覚えている。これも……長い夢を、見ていたせいなのだろう……。

    それから数日が経った。やっとŹOOĻに対して親し過ぎない距離を思い出したし、うまく付き合えていると思っている。仕事も、なんだかやったことがあるようなものもあれば、違うものもある。忙しいけれど、紡はこの忙しさが嫌いではなかった。
    紡はこの局で、見晴らしがよく人がいない……裏を返せば使いづらいこの休憩所が好きだった。自動販売機でコーヒーを買って、景色を見ながら一息つく。秘密の休憩所。と。
「……お隣、よろしいですか?」
「……!み……棗さん!ええ、どうぞ!」
「では失礼します」
    棗巳波は一人だった。紡はほんのり緊張しつつ、長い夢のことを思い出しては思考から消した。勝手にこの人との存在しない未来を紡いでいた。それが恐ろしかった。しかし……紡だって巳波を愛してしまっている。だから、その横顔も……やや振り返った顔も、仕草も、服装や体つきも。……そっと、手を伸ばして触れたくなる。そんなふうに思えて、違う、やってはいけないのだ、と心を押さえ込んだ。
「ŹOOĻさん、いま休憩なんですか?」
「いえ、今日は私、撮影のお仕事で。だからひとりですよ。ここ、いいですよね、休憩所、静かで」
「あはは、私も好きなんです。わかります」
「ふふ」
    巳波は笑いながら、そっと右側の髪を耳にかけた。紡だけでなく、ファンも知っている。彼の癖だった。細長く白い指が、色素の薄い髪を梳くその仕草は、人気の一因にもなっている。しばし見惚れながら、慌ててコーヒーをあおった。ホットだったのを忘れて、飲み込めずに苦しんでから、ようやく飲み込むと、隣の巳波はクスクスと笑う。
「大丈夫ですか。慌てて飲まない方がいいと思いますよ」
「す、すみません……!」
「火傷しますよ」
「そ、そうですよね」
「……それでは私はアイスコーヒーを飲み干したので。仕事に戻ります、また現場が同じ時はよろしくお願いしますね、小鳥遊さん」
「あっ……はい!み……。棗さんも、撮影頑張ってください!次のドラマも、楽しみにしてますから!」
    巳波は一瞬紡に対して目を丸くしてから、いつものように読めない笑顔で別れを告げて去っていく。歩いていく。離れていく巳波の後ろ姿を見ながら、紡は自分の気持ちを持て余していた。
(……早く、忘れなきゃいけないのにな)
    夢、なんて。体のどこかがぎゅっと傷んだ。

    長い夢の中で、巳波と紡の運命が交差したのも突然の事だったな、と紡は思った。仕事が少ない日はいけない、余計なことを考えてしまう。元から紡は仕事人間だ。高卒で父のプロダクションへ入社し、七瀬陸やアイドリッシュセブンのメンバーを応援すること。ひいては彼らを売ること。それだけを考えて、ここにいた。そんなある日、巳波が紡に声をかけたのだ。
    ――小鳥遊さん、マネージャーやメンバーに言えない悩みがあって。聞いて欲しいんですけど。
    そう言われたら、紡は断れない。今思えば、夢の中の巳波はそれを知っていたのかもしれない。アイドルを応援することが、紡の生きがいだから。そんな彼らが悩んでいるのなら、いくらだって身を切り売りする。
    だからこそ、付き合ってくれ、と言われた時には紡は……嫌悪感すら覚えたのだ。
『それは、どこへお付き合いすればよろしいんでしょう』
『いえ。恋人として、お付き合いがしたいという意味ですよ』
『……他社のタレントさんとそのような関係にはなれません。すみません』
『ああ、待ってください。……この業界、タブーとはされてますけど他社のタレントとどこかの事務員やマネージャーが恋愛関係を持つのは珍しい事じゃありませんよ。そんな理由で私を振らないで』
『すみませんが……』
『待って。タレントの棗巳波ではなく、私を……棗巳波という一人の男として、見て、考えて下さい、お返事はいつだって構いません』
『お断りいたします。私たちは連絡先も知らないじゃないですか……すみません、お話がそれだけなら、失礼します』
『……ああ、小鳥遊さ――』
    あの天才子役、芸能界でも新人よりもベテラン寄りの棗巳波ですら、誰か女性を求める。それは、紡にとって少しショックな話でもあった。悩みがあると呼び出されて、告白されたことに裏切られた気持ちもあった。……紡は俳優・棗巳波のファンのひとりでもあったからだ。
    自分は秀でて容姿がいいわけでもないし、なにか能力があるわけでもない。タレントが自分を好むのだって、ちょうどいい遊び相手なのだろう。紡はずっと、そう思っていた。それからは巳波にはそれまで以上に近寄らなくなった。少し距離を置けば、きっとわかってくれる。そう思って。
    けれど、夢の中の巳波はそうではなかった。それを機に、柔らかく話しかけてくる回数が増えた。邪険にするほどでもないが、デートに誘われることすらあった。全て断った最後に、巳波は名刺を渡してきた。
『名刺なら、もう持ってますけど……』
『……裏、私のラビチャIDが載ってますから』
    少し紡に顔を近づけ、こっそりそう言う巳波は、ミステリアスで大人っぽい雰囲気ではなく、イタズラを考えている子供のようだった。それなら頂けない、と断る紡に無理やり押し付けて、巳波は去っていった。
    結局その数日後、紡は現場が混乱した際に宇津木と連絡がうまく取れず、悩んだ末に巳波のIDに連絡をした。
『すみません、宇津木さんと連絡が取れなくて。ただいま現場が混乱していまして……』
『ご連絡、ありがとうございます。そうみたいですね。ŹOOĻ、出番早まりました?』
『はい、Aスタジオで5分後に、と言われたんですが』
『大丈夫です、揃っていますので向かいます』
『ありがとうございます』
    初めてのラビチャも、そんな簡素な業務連絡だったのだ。

「ぱーぱ?」
「……はい、パパですよ」
「まーま……」
「……ママは……いま、眠いんだって……」
「まーま……」
「はやく……起きてくれたら、いいのにね……」
    双子のうち、妹は元気がよく、発話も早かった。パパ、ママ、は理解して使っているようだった。兄の方は発話は妹ほど進んでいないが、眠ったり起きたりするたび、母親を見つめている気がする。
    今夜が山ですね。医者はそう言った。心電図の音が無機質に響く部屋。点滴に、吸入器に、様々な機械が……彼女の、妻の体を覆っている。
    彼女は愛されている。だから、色んな人が病室までかけつけてくれたらしいのだが、家族ですら無理やり入れてもらっただけだった。誰も会わせることは出来ないと言われた。それを押し切って妻に会わせてもらっている。
「……紡……」
    名前を呼んでも、彼女の目が開くことは無い。苦しそうにする彼女に出来ることは……そっと、手を握ることだけだった。しかし、その手が握り返してくれることは無い。
    彼女の左手を、そっと両手で包み込んだ。その薬指には、自分がはめた結婚指輪がしっかりと存在している。
「……紡、行かないで。帰ってきて……どうか……」
    私を置いていかないで……。
    巳波の悲痛な声も虚しく、心電図の音は、次第にゆっくりと響いていった。

    毎日をもっと忙しくして、余計なことを考えるのをやめよう。紡はそう思い、仕事を増やしてもらってすらいた。今までよりもっと現場に出て、今までよりも事務仕事をした。変な夢など、早く忘れてしまおう。……棗巳波に、迷惑だ。他社のタレントに迷惑をかけてはいけない――。
「……紡さん、大丈夫ですか?そんなに忙しくして」
「あはは、大丈夫ですよ」
    心配そうにする万理やアイドリッシュセブンの彼らを受け流し、本当は少しキツイくらいで毎日を回した。体も心もキツかった。けれど、それでいいと思った。
    何もしていない時間に、長かった夢のことを考えてしまう自分が嫌だったのだ。その分、どんどん仕事にのめり込んでいった。
(今日は……共演はŹOOĻ……)
    スケジュールを見て、気を引きしめる。ŹOOĻとは特に注意して、それなりの距離を保たねばならない。……夢の中で随分と、親しくしてしまったから。
    楽屋に挨拶をする時も、できるだけ儀礼的に済ませた。そのあとマネージャー同士で挨拶して、そそくさと去った。
    変なところはなかっただろうか、そんな不安を抱えつつ、次の仕事の準備にかかる。提出しなければならないものも、作成して。目が回るような……いや、目を回すための仕事を必死にこなしていく。アイドリッシュセブンの出番の直前には袖に一緒についていた。ちょうど……アイドリッシュセブンの前は、ŹOOĻだったようだった。
    ふと顔を上げた時、軽々とパフォーマーの二人が側転をして、紡は目を奪われた。やはり、美しい。ŹOOĻは全てがハイパフォーマンスで。綺麗で。
    ……棗巳波は、とても……美しい。
    出番を終えたŹOOĻが戻ってくる。アイドリッシュセブンが入れ替わる。メンバーを見送る。歩いてくるŹOOĻが、自分の隣を通った。自然と目が追う。汗だくの彼らは、いつかの険悪な雰囲気ではなく、お互いを信頼したリラックスした雰囲気で、笑いあっている。……微笑ましい気持ちで見つめていると、ふと、棗巳波と目が合った。こちらを、訝しんでいるのだろうか。
    しまった。
    紡は急いで目をそらす。
    これでは……まるで、紡が巳波に惚れているかのようじゃないか。
    仕事。仕事。仕事仕事仕事仕事仕事。
    仕事で流し込んでしまおう、こんな想いも、気持ちも、夢も、全てを……。

    詰めに詰めた紡の仕事が一段落したのは、数日後の日付も変わった頃だった。アイドリッシュセブンを全員家に帰し、紡は局の人のいない休憩所で、倒れるように座り込んだ。
「……疲れたな……」
    そのおかげで、余計なことは考えなくなっていった。あの夢のことも、少しずつ忘れていっている。これでいいんだ。そのまま、睡魔が襲ってくる。
    こんなところで寝てはいけない。そう思いながらも、体はそのまま沈んでいった。

「……あれ……」
    目を覚ました時、時計を見て一時間ほど眠っていたのだとわかった。起き上がろうとした時、する、と何かが自分の背から落ちた。……上着だ。落ち着いた色のコートには、見覚えがある。そっと拾うと、隣に誰かいることに気がついて……自分を覗き込んでいる人物に気がついた。
「……み……棗、さん」
「おはようございます、小鳥遊さん。起こしたんですけど、全然起きなかったので。疲れているのではないですか。最近、忙しくしていたように見えましたが」
「あ、あはは……ありがとうございます……」
    まさか、貴方のことを忘れたくて頑張っていた、とも言えない。忘れるも何も、現実では紡と巳波の間には何も無い。紡は眠っていたことを知られた恥ずかしさも相まって、とりあえずコートを綺麗に畳んで、巳波に差し出した。そんな様子を見て、巳波はまた笑う。
「……あの、小鳥遊さん」
「あ、はい、なんでしょう」
「……帰るべき所へ、帰るべきなのではないかと思いますよ、私は……」
「……?なんの、話……」
    巳波は紡に渡されたコートを手で撫でながら、紡をじっと見つめた。
「数日前、突然貴方は私と亥清さんを名前で呼んだ。それまで少し距離のあった私たちと、ある日突然、まるで……そうですね、バグを起こしたかのように近づいて。けれど、今度は慌てて離れて……」
「あ、あは、は……すみません!たまたまŹOOĻのみなさんの活動を勉強していたら、気持ちが近くなってしまって」
「貴方は仕事に対してプロフェッショナルです。そんな言い訳、信じられませんよ」
    紡は巳波の顔を盗み見た。なんとも言えない。それは、何も感じさせないように、こちらに悟らせないようにとする時の巳波の表情そのものだった。
「……ねえ、小鳥遊さん……」
    巳凪と巳麦という名前、聞き覚え、ありませんか。
    巳波が言った。紡はしばらく、言葉を発せなかった。
    それは……紡と巳波の、あの夢の中で出来た、双子の子供の名前だったから。
「……な、なんで……なんで、それを、棗さんが」
    その名前を。
    そう言った紡の顔を見て、ふ、と巳波が笑う。そう思ったあと、紡は……いや、と思いなおす。
    この人は……。本当によく似ているが、この人は……棗巳波では……ない。姿形は、棗巳波だけれど……。そう思った通り、巳波であることをやめたかのように、口調を崩して笑う。
「……ねえ。そろそろ、起きて。……パパが、ずっと泣いてる」
「……貴方……は……」
    紡。
    名前を呼ばれた気がした。途端、世界が次々歪に壊れていく。
    紡……。
    まるで壊れた画像データのように、一部ずつ、世界の景色が崩れていく。
「……さあ」
    巳波の姿をした、彼が手を差し出した。
「帰ろう、ママ。ここは……ママが居るべき世界じゃないよ。元の世界に、帰ろう……」

    心電図が高い音を鳴り響かせた後、何も巳波の頭に言葉は入らなかった。医師は彼女の体を確認していく。……死んでいることを、証明するために。
    娘は泣いていた。息子は眠っていた。……巳波もまた、泣いていた。
    そんな巳波が病室を出ていこうとしたその時……心電図の音が……少し、変わった。はっとして、振り向く。巳波はそのままベッドに駆け寄った。部屋の誰もが、信じられないという顔をしていた。部屋中が混乱していた。そんな時……息子も、ぱちりと目を開けた。
「紡。……紡!」
    名前を呼んで、手を握る。巳波の声が聞こえたのか、ゆっくりと……紡が目を開ける。
「棗……。……巳波……さん?」
「……紡……!」
    巳波は子供をそっとおろして、紡の体を抱きしめた。まだぼんやりとしていて、焦点は定まっていないが、巳波の名前を呼んだ。
    奇跡は起きた。巳波は次に子供たちを抱きしめて、よかった、よかった、と涙ながらに言った。

    紡は少しずつ回復していった。退院してしばらくも、ベッドから自分で起き上がることはなかなか難しかったが、巳波も全力でリハビリと世話に徹した。
「……夢、だったのかな」
「夢?」
「長い夢を見てたんです……」
「……夢占い、して差し上げますよ。どんな夢、見てたんですか」
「……私たちが……付き合ってなかった頃の……でも……なんか、妙なんですよね。最後、目を覚ます前……夢の中の巳波さんが、急に子供たちの名前を言って……パパが泣いてる、とか言って……。私、あれは……巳波さんじゃなかったと……思うんですよね……」
「……そう、ですか……」
    ぼんやりとしている紡とは裏腹に、巳波はそっと、眠っている息子の姿を眺めた。あの時、娘は起きていたが、息子はずっと眠っていた。息子は生まれつき、やや体が弱い。七瀬陸のことを思った。彼もまた、生まれつきずっと死に近いから……幽霊が見えたりと、スピリチュアルな一面を持つ。
「……巳凪じゃないかな」
「え?」
「貴方を迎えに行ったの。巳凪だと思います……根拠は……ないですけど」
    自分でも馬鹿らしいことを言っただろうか、と思い、巳波は自嘲気味に笑った。しかし、紡は何だかしっくりきたような顔をしている。
「そう、なのかも。巳凪かぁ。そっか……迎えに来てくれたんだね……」
「……ねえ、紡」
「はい」
「貴方は……生きるためにもしかしたら、別の……パラレルワールドに行っていたのかもしれません。でも……そんなの嫌です。私がいる、この世界で生きていて」
「……巳波、さん」
「私、わがままなんです。知っているでしょう。……わがまま、聞いてください。ずっとそばにいて……ちゃんと私の、私の家族でいて」
    そう言いながら、優しく紡を抱きしめると、紡は力がないまま、そっと巳波の背に手を伸ばした。
「……貴方を、他の世界の私にだってあげません……」
    私だけの貴方でいて。そしてこの子達の、親でいて。
    巳波の言葉に、そっと紡は目を閉じ、寄り添った。

    幸せな夢を見ているのだろうか。二人の息子もまた、微笑んだ気がした。
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 お化け屋敷だぁ、とハルは思った。古びた廃れた館。蜘蛛の巣だらけ、ガラスは割れ、まあ一言で言えば、人間は住んでないだろうなぁ。
 隣を見ると、ヨシミは青い顔。アレ?お化け屋敷とか苦手だったっけ?って聞いてみたら「小動物がいるじゃないですか!」って、まあ、そうかも。こうもりとかいそうだし。でもハル、こうもり見たことないから見てみたいなあ。
「ハルさん、今回のトランスは催眠と思念のトランスらしいっすよ。ライバルですね」
 ライバル、ねえ。特に興味も湧かない。ただ今回こそは、ちゃんと寝ないで任務をこなしたい。
 そう、ハルはいつも気がついたら本部の中、ベッドに寝かされている。みんな「マリが催眠で」「別人みたいで」なんてゆーけど、記憶なんて一切ないし、ハルはどこでも寝てしまう。きっと任務もいつも寝てしまってるんだ。相方のヨシミが優秀だから、自分は首切られてないんだろうな、といつも思っている。
 行きますよ、と先陣切るヨシミについて、ハルも館へ入った。

 ぐらり、と頭が突然揺れた。大地震でも来たのかと思った。地震が来たら隠れなければ、でもどこに?周りを見渡すが、暗くてよく見えない。……その上、地震は一瞬で終わった。
「ねえヨシミ、いま地震あったね」
 いるはずの相方に声をかけたが、返答がない。段々と闇夜に慣れてきた目でも、ヨシミの姿は見えなかった。……保護官をひとりにするのは危険だ。そう思ってあちこち部屋を探したが、ヨシミの姿はついに見えなかった。
「ヨシミ〜、こうもりいないから出てきてよ。離れるのはヤバいってばぁ」
 割と大きな声で呼んでも反応ひとつない。困った。とりあえず、自分一人でも捜査できるところはしておこう。目覚ましに、自分に電流を走らせた。……一人なのに寝てしまってはまずい。全身を駆け巡った電流に、いてっ、と目が覚めた。ヨシミがいない間、寝てはいけないチャレンジしなきゃいけないのか。……ユーチューバーにでもなろうかな、とふざけながら色んな部屋を見ていく。
 どこも薄暗く、奥へ行くほど埃っぽい。だが、噂を聞いて色んな人が訪れたのか、足跡はたくさんついている。……不自然に途中でなくなっている足跡もある。
 トランス、催眠とサイコメトリーだっけ。ってことは、もうハルの思惑にも気づかれてるのか。ならしっぽを出さないのも仕方ない。本体さえ見つけられれば、とりあえず痺れさせて捕まえられるんだけど……。
 と、足元に何かがぶつかった。思わず癖で「ごめん」と声が出た。視線よりも下になにかがいる。物?いや、動いている。……小さい子供だ、と判断して、「ごめんね、立てる?」と手を差し出した。が、子供は下を向いたままだ。
「……立てない」
「どこか怪我した?ハル、絆創膏くらいしかもってないんだけど、擦りむいたならこれ使う?」
「……いらない」
「うーん。機嫌損ねた?ごめんね、仕事できてるから集中してたの。許してくれる?」
「……許さない」
「うーん、そっかあ。でもこんなところにいるのは危ないから、一回一緒にお外出よっか……」
「許さないよ、俺は」
「え」
 おかしいな。なんだか聞き覚えのある声だった。子供の可愛らしい声ではなくて。それはまるで……。
 ハルの声の、ような。
 いや、慌てなくていい。今日だって、ちゃんとヨシミから情報をもらってきた。確か、トランスは……。
 ……?
 トランスってなんだ?
 ヨシミってなんだ?
 ……あれ、何かおかしい。
 何も思い出せない……??
 ……自分は、誰だ?
「ナナシ」
 びく、と体が反応した。呼ばれた、と反射的に思ったのだ。子供が立ち上がった。その紫色に光る両目は、まっすぐこちらを見据えている。睨むように。
「俺は許さない、俺をナナシと呼んだ人間を。名前を付けなかった人間を。……そうだろう、ナナシ」
「……俺はナナシっていうの?」
「そう呼ばれてたんだよ。忘れたの」
「……覚えてる、気が、する」
 なんだろう、息が苦しい。頭が熱くなっている。反射的に腕が動くが、その腕が何をしてくれるのかわからなくて止まる。
「俺は捨てられた。その先の教会で名前を貰えなかった。奇病だから、気持ち悪いから、だからナナシだっただろ」
 ぱ、と目の前が変わる。たくさんの幼い子供たちとシスター。教会だ。ああ、覚えている。牧師様のお言葉を静かに聞く。賛美歌を歌う。そして一人ずつ、今週できたことをシスターに報告し、褒められて、祈りの間を出ていくのだ。
 気がつけば俺は並んでいた。今週は何を頑張ったんだっけ。そうだ、今週は……いつも眠くなるけれど、一日だけ寝ないでお話を聞いたのだ。誇りだった。
「さあナナシ、あなたが今週頑張ったことはなんですか」
「はいシスター、俺は一日、寝ないで牧師様のお話を聞きました」
 よくできましたね、とみんなと同じように言われると思っていた。だが、シスターは大きくため息をついただけだった。
「ナナシ、よりもヤクナシ、のほうがよかったかしら。神の慈悲がなければ、貴方なんてとっくに捨てられているのに」
 行ってよろしい、と言われて歩く。褒められなどしなかった。ショックではなかったが、どうして褒められなかったのか、ほんの少し悲しくなった。
 教会を出ると、元通り薄暗い館にいた。だが、先程とは様子が違う。あらゆる場所に鏡がある。落ちている手鏡、立てかけられた姿見、様々な鏡に見られている気分になって、少し吐きそうになってきた。
「なあナナシ、眠たくないか」
 姿見から声がした。映っているのは自分の姿だし、声も自分のものだ。思わず、小さく「あー」と声を出して確認したが、やっぱり自分の声だ。
「……眠たいよな、眠たいんだよな、いつも。大事な時に眠たい、大事な時に役立たずだ」
 落ちた手鏡から声が飛んできた。……言われてみると、だんだん眠たくなってきていることが分かる。
「どうせ治らない病気でしょ。じゃあもう……ずーっと眠るってのはどう?」
 壁にかけられた、一際大きな鏡が言った。見れば、俺が微笑んでいる。
「お前は捨てられて、教会でもお荷物で、だから追い出されたんだよ、能力なんて気味悪いしね」
「いつも寝てばっかりで仕事は相棒任せ、役に立ってるの?」
「お前はいまでもナナシのヤクナシだよ、ねえ」
「一緒に寝ない?眠たくなってきたよ。ここで眠れば、きっと幸せな夢が見れるよ」
 視界が変わる。一面の白い花畑。確かに。
 ここで寝たい……。
「そうだよナナシ」
「おやすみナナシ」
「そう……永遠におやすみ、ナナシ」
 俺の声がする。そうだね、ここで寝るのはとても魅力的だね。
 ごろん、と花畑に横になった。天井の鏡の中の自分は微笑んでいる。一緒に寝よう、と囁いてくる。……俺はうん、と頷いた。
「……そうだね、一緒に寝よう、ナナシ。……ハルと一緒にね」
「!?」
 鏡の中の自分が目を見開いた。
 目が合った。……「これ」がトランスか。
「覚えてるよ、ナナシって呼ばれていたこと。ヤクナシって言われたこと。でもね、REDで名前、貰ったんだ。だから……キミにもあげるよ、同じ名前。……マリハルトキ。だから、ハル、一緒に寝よう、おいで」
 ふ、と場面が変わる。ハルの目の前には、息荒く床に手を着く青年型の、バケモノ。ケモノのような毛を逆立てて、爪をむき、こちらを見つめている目は「信じられない」とでも言いたげだ。
「なんでだ!トラウマじゃないのか、お前は!なんで、どうして、催眠にかかっていたのに」
「だって、ハルはもうハルだもん。あんなの忘れた。それに」
 にや、と自分の口角があがるのがわかった。……ああ、眠たいなぁ。意識が遠くなっていく。
 
「催眠をかけている時は、催眠をかけられているのだ、ってな……さあ」
【おやすみ、俺の愛しい子】

「……さん、ハルさん」
 呼び声に、ハッ、と目を覚ます。薄暗い空。夜だ。ぼんやりとした視界。誰か。安心する声。相棒。
「……ヨシミ、おはよ。ハル、もしかしてまた寝ちゃってた?」
「……どこまで覚えてます?」
「ヨシミがこうもり怖がってたとこ」
「……じゃあもう、それでいいっす。帰りましょう」
「え。もうおわったの?ヨシミすごくない?」
「……。……まあ、他の隊も来てますからねえ」
 煮え切らない返事をするヨシミに首をかしげながら、ハルはその後を着いていく。
「……ヨシミ」
 呼ぶと、くるりと振り返る相棒の姿。
「なんっすか?ハルさん」
 名前を呼ばれる。……うん、よくわかんないけど、満足した。
「あーあ。報告書書くの、やだなあ」
「俺が八割やるんですけどね!?」
「ねむた〜い」
「あんなに寝てたのに!」
 相棒と帰路に着く。
 結局今回も何もしなかったなあ、と思いながらも、誰かがトランスを確保したならそれでいいか、と思う。
 ……だけど、なんだか今日は酷く疲れていて。
「……ヨシミ、ごめん」
「ハルさん?」
「おやすみ……」
「ハルさーん!」
 名前を呼ぶ心地よい声に、ハルは眠りに落ちていった。畳む
Icon of reverseroof リュウ ミクミヅ 出産前

「なあに、それ」
「手袋だよ」
 ぱちぱちと音を立て、赤く光を放ち続ける暖炉の隣で、棒を両手に、くるくると毛糸を回し、形を作っていく僕の指先を、彼女は吸い込まれるように見ていた。僕は危ないよと声をかける。集中している時の彼女は、気づいているのだろうか、眉間の皺が濃くなるが、それもまた愛しくて、思わず口が緩んでしまう。そんな僕を見て、彼女はそのままの顔で、やや首をかしげた。……その間も、手は彼女の少し膨らんだ腹部を撫でている。
 その姿に、ああ、たしかに母親だ、と思う。彼女の胎内には、いるのだ、一人の命が。
「もうすぐ冬だからね。生まれてくる子が、寒くないように」
 僕がそう言うと合点が言ったのか、彼女の表情がぱっと明るくなる。逆ハの字の眉がなだらかになる。すぐにころっと変わった柔らかな表情で、僕を見上げて、えへへ、と笑う。
 ああ、なんて幸せなんだろう。
「……女の子かなあ、男の子かなあ」
「トキはまだわからないって言ってたね」
「うーん、でも、たぶん、女の子だよ」
「そっか。お母さんだもんね」
「うん!そう!あたし、お母さんになるの!」
 うん、と頷くと、キラキラとした笑顔で彼女が少し僕に近づいた。編み物の手を止めると、僕はそれを足元のカゴに戻して、そのまま彼女を膝にのせた。彼女の背を支え、僕も彼女の腹部に載せられた手の上に、手を添える。そうしてお互い見つめ合うと、自然と笑顔になる。
「……もうすぐだね」
「……うん」
「体調は大丈夫?」
「問題ないよ!トキも言ってた」
「そっか、じゃあ安心だね」
 もちろん安心できないことはわかっている。彼女はいま、命懸けで命を背負っている。出産にも、何が命取りになるかわからない。毎日がサバイバルのようなものかもしれない。僕はそれを肩代わりすることも、一緒に持つことも出来ず、ただ歯がゆい思いをするだけだ。
 けれど、そんな彼女の一番そばにいることなら、きっとできる。そう思って、僕は今日も彼女の手を握る。
 彼女は顔を赤くしながら、あっちをみたりこっちをみたりして、ゆっくりと僕を見上げる。僕が笑うと、彼女もまた、控えめに笑った。
「……そろそろ寝よっか」
「うん」
 僕は彼女を姫抱きにしたまま、寝室へと向かう。歩くのも体力を使うから、歩ける時と歩けない時があった。身体に限界がきてる彼女が子を授かり、出産など、誰から見ても大変危険なことだった。それでも。
「えへへ、あたし、お母さんになっちゃうのね」
 そう言って楽しそうに笑う彼女が、ずっと家族が欲しいといっていた彼女が、頑張るのなら、僕はただ手を握り、後押ししてあげたいのだ。
 ベッドに寝かせて、電気を消し、彼女のおでこに口付けをする。寝るまでいてよ、と彼女は僕の服の裾を引っ張った。僕はベッドのふちに腰掛け、彼女の頭を撫でる。
「ねえ?」
「なあに」
「あのね、あたしにも作って、手袋。赤いのがいいな」
「わかった、任せて」
「でね、でね、ミクも作ってね」
「うん」
「赤ちゃんとね、三人でね」
 おそろいがいいなぁ。そう言いながら眠りに落ちていった彼女の頬に口付けをして、毛布をもう一枚かけてやり、それからまた暖炉のそばへ戻ると、編み物の続きを始めた。
 家族3人でお揃いの手袋。世界に一つしかない僕達の手袋を編むのだ。畳む
Icon of reverseroof リュウ 八原兄妹SS ふくれっつら

やっぱりな、と苦笑いをした。玄関扉を開けてすぐ飛び込んできたのは、腕を組んで仁王立ちした妹のふくれっ面。これは怒ってるぞ、と身構えていると「怒ってるわよ!」と声に出され、笑いそうになるのを堪える。
「遅かったようだけど!」
「悪い、急な仕事でさ」
「今日休みって言ってたのに!」
「ごめんな」
俺の仕事はまだ売れない歌手。それでもありがたい事に、最近貰える仕事が少しずつ増えてきたところで、舞い込む仕事は事務所も断らない。今日は休みで妹と遠出する予定にしていたのだが、朝連絡が来て、仕事になったのだった。
最初はガミガミと言っていた妹は次第に勢いをなくし、目線が下がり、瞳が潤んでいる。さみしい思いをさせたのだなと思い、そっと頭を撫でると、しおれた顔で俺を見上げる。
俺はしばらく迷ってから、玄関のほうを指さして言った。
「よし、いまから行くか!」
「え?今から?」
時刻は23時を過ぎているが、まあ問題ないだろう。車を使える知り合いに手早くスマホでメッセージを送り、口を開けたままぼんやりとしている妹にほほえむ。
「まだ今日は終わってないからな」
ほんっと、しょうがないなあ!妹が笑う。畳む
Icon of reverseroof リュウ 愛妻の日ミクミヅSS 【AGAIN3-0-0】

「今日もね、二人ともご飯をいっぱい食べたよ。ミトも元気に動けてた。もうね、すっかり大きくなったよ」
 彼女のような美しい花をそっと供えながら、僕は笑顔で続ける。
「君が産んでくれたおかげだよ。僕は今日も幸せだった。あの子達の父親で、本当によかった」
 当然ね、と彼女が笑ったような気がして、零れそうになる涙をこらえた。泣いては彼女に心配をかけてしまうな、と、深く息を吸う。
「……」
 口を開きかけたが、言葉が音を持つことは無かった。言えるはずがなかったし、言ったところでどうなることでもなかった。わかっている。わかっているんだ、そんなことは。
 もう二度と彼女には会えない。だから、こんな気持ちを抱えていたって……。
「……でも」
 もう一度、君に触れたい。君を抱きしめたい。君に口付けをしたい。溢れる願いは叶わない。
 彼女の眠る石碑に背を向けた。闇夜でも目が利くのは彼女のおかげだ。もういない彼女は、今でも僕の中に強く深く刻み込まれている。二度と忘れることなどない。僕のこの少し冷たい体温も、時に死ぬほど愛おしくなるのは、それが彼女にもらったものだからだ。
「……ああ、今日はだめだなぁ」
 どこで隙間が空いたのだろう、心に風が入ってきて、胸が痛む。当たり前のように無視できていたことを、今日は何故だか見てしまう。隣にいない彼女の姿を見た気がして、一瞬身を震わせた自分に、笑いとも泣き声ともわからない声が出る。
「……会いたいよ、」
 この世で一番愛した人の名前が、静かに闇に飲まれていく。
 
【AGAIN3-0-0】畳む
Icon of reverseroof リュウ ミヅキとカイト 今日のおかず

 頭の中がぐわぐわしていた。なにも纏まらなくて、ぐちゃぐちゃで。こんな時、いつもそばにいてくれた幼馴染が隣にいない、それだけであたしは頭がぐちゃぐちゃになっていた。
 友情とか恋愛とか、主従とか民だとか、王になるとか、色々。多くの場所で役割を持つようになったあたしへ向けられるようになった感情は大きく、けれどあたしはついていけていない。
 こんな時、いつも逃げ場は幼馴染の懐だったのに。
「……会いに……行っちゃうんだから……」
 自分のやった事の責任を取る。そう言ってあたしの前から消えた幼馴染のもとへ。逃げるように。求めていく。
 世界をくぐりぬける七色の空間には、もう慣れきってしまった。

 とはいえ、幼馴染の今いる場所は城である。そう、お城。幼馴染は元々王様だったらしい。
 入口でとりあえず形式的に門番に挨拶して、城の中を歩く。どこかですれ違うなんて土台無理なくらい広い、大きな城。とりあえずあたしは彼の執務室へ向かった。顔パスとはいえ、王の執務室の前の警護はかたい。アポもない。あたしは少し離れたところで待たされることになった。
 が、やがてバタンと音を立て、空いた扉から覗いた幼馴染の姿に、あたしは走って飛びついた。ぎゅっとそのまま抱きついて、きつくきつく背中にしがみつくと、一度あたしを持ち上げるようにしてから、しっかり抱き締め返してくれる。
「……どした、何かあったのか」
「……うん」
 そうか、と深く聞かず、幼馴染はしばらくあたしを抱きしめ続けてくれていた。そのあたたかさが変わっていなかったことに安心して、あたしはちょっとだけ、そう、ほんのちょっとだけ、幼馴染の胸を借りて泣いていた。

 王が言えばいとも簡単に執務室の中へ入れてしまった。幼馴染は紅茶とクッキー、それからチョコレートをメイドさんに持ってこさせていた。ちゃんと、あたしの好きなダージリンとミルク。クッキーもチョコレートも甘くて、美味しくて。夢中になっているあたしがたまにはっとして幼馴染を見ると、そんなあたしを隣でじっと見つめていて、よく知っている優しい顔で笑う。
「気にしないで食えよ。部屋に入るなり腹の音響かせてさ」
「……って、言いながら甘いもの出してくるのね?」
「しんどい時は、ちょっと贅沢したっていい。だろ?」
「……まあ、そうね」
 あたしは紅茶のカップのふちを指でもよもよと触りながら、中身が揺れるのを見つめていた。またしばらくして、それを飲み干す。
「……聞かないの?」
 何を、とは言わずに幼馴染に聴きながら、寄りかかる。幼馴染は流れるようにあたしを受け止めながら、そうだな、と答える。
 何があったのか、聞かないのか。そうだな。別にあたしたちの間には、そう言葉は多くなくていい。なのに。
「……何故だか、不安だわ」
「不安?」
「カイトの隣にいるのに、何故だか不安なの。一番安心出来る場所だったはずなのに」
 「……そうか」
「ごめん。あたしのために時間使ったって、カイト、忙しいのに。こんなことしてる時間なんて、勿体ないのにね……」
 あたしが来てから完全に執務をしている様子はない。ガラスペンは立ったまま、書類は置いたままだ。そんなのに構わず、幼馴染はあたしをとっている。あたしとの時間を……。
「そうだな。でも、勿体ないとは思ってない。俺もお前といる時間は好きだから」
 そう言って、幼馴染もまた、あたしに少し体重を預けた。
 あたしたちは、もちろん恋人なんかじゃない。むしろ、家族のように育った。道は、別れてしまったけれど……。
「ずっと、会えなくてごめん。寂しい思いをさせてるよな」
「……なんていうか、その。あたしも、たくさん疲れて……でもそんな時、カイトがいないと空っぽだなって思っちゃった。アグノムとかミクとかはまた違って……あたし、カイトがいい、カイトの隣が。」
「……わかった。それじゃ、今日のリクエスト聞くか」
「え?リクエスト?」
「ああ」
 一瞬、なんのことかわからずに聞き返す。けれど、しばらくして思い出す。時計を見れば、あたしたちのご飯の時間が近かった。
 昔はこうして、幼馴染に夕飯のリクエストをしていたのだ。あたしは忘れていたけれど、幼馴染は……王様になっても、覚えてくれていた。
 じわ、と目元が少し熱くなるのを感じた。そのまま、口からいつものように――前のように、リクエストが出てくる。
「オムライスと、ナポリタンと、ハンバーグと、あと、あとね……からあげと……あと……」
「……それじゃあ今日はお子様ランチだな」
「も、もうお子様じゃないけど!」
「バカだな、まだまだ子供でいいんだ……お前は。……いや」
 幼馴染は、言い直しながら、あたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
 俺たちは。

「王様が使うようなキッチンではないのです、ここは……!ああ、お召し物が、汚れてしまいます!我々がやりますから!」
「いいから、それでいいから料理をさせてほしいんです、料理長。どうして俺が立ってはいけないんですか」
「だから、王だからですよ!王というのは、自分で料理する必要なんてないんです!」
「うーん」
 王でも城で許されないことがあるらしい。厨房を借りる、と言った幼馴染に付いてきたものの、幼馴染も予想外だったのか、なかなかはいどうぞとは言えないらしい。危険だの、汚れるからだの、色々と理由をつけているが、あたしには居場所を取られることに恐怖しているようにも見えた。
 と。
「どうしたんだ」
「あ、兄王子様……」
「トキ!」
 この城の第一王子、あたしと一緒に戦ってくれていたこともある、トキだった。トキはあたしとカイトと料理長を一瞥して、ため息をつく。
「今度はなんの騒ぎなんだ。城の使用人たちが嘆いてるぞ、王様が自由すぎる、掃除もやりたがるし料理もやりたがる、と」
「その節はすみませんでした。その、そういうの好きなので……でも、今日は料理をさせてほしいんです。料理長の料理じゃなくて、俺の料理をミヅキに食べさせたい」
「……ふむ」
 トキはあたしを見る。あたしは何故だかなんとなく、カイトの服の裾を掴む。カイトはあたしの手を、そっと握った。
「……つかの間の家族ごっこを、させてくれませんか」
「……だ、そうだ、料理長。今代の王についてはもう諦めたほうがいいかもしれないな」
「そ、そんな……もしもお怪我があったら……」
「案ずるな。すべて自己責任、たとえ厨房で暗殺が行われようがお前たちに責任はない。……今日は先に休憩でも何でもしてくれ。給与には関わらないから」
「は、はい……」
 トキの言葉で諦めたのか、いやまだ諦めきれていないのか、あたしを恨めしそうな顔で見ながら料理長と、厨房の中にいた料理担当の使用人たちがぞろぞろと出ていく。
「……トキさん、俺、ちょっとだけ使わせて欲しかっただけなんですけど……こんな人払いしなくても」
 王だけど、カイトはカイト。だから、トキに敬語を使うその姿が、偉そうに変わっていなくて嬉しい。
「王に料理させる、なんて罪悪感やヒヤヒヤをあいつら全員にさせ続けるのも可哀想だろう。お前は……城の中ではいまいち気が配れないな」
「ああ、なるほど。それは失礼」
「……で、何を作るつもりだったんだ」
 トキは咎めているようではなく、興味本位のようだ。カイトはそれなりに説明する。
「そういえば、狭い客間が今日は空いていましたよね。そこで食うか」
「? 別に、いつも通りの食卓で食えばいいんじゃないのか」
「あはは、トキさんも意外とわかってないですね。……よかったら、トキさんとツバサも一緒にどうですか。お口に合うかわかりませんが……賑やかな方がいいだろ?」
 そう言ってあたしに優しくカイトが微笑む。
「……別に。今日はカイトがいれば、それでいい」
「じゃ、決まりってことで。飯が出来たら部屋まで呼ばせますから」
「……お前たちの意思の疎通は、俺には少し難易度が高いな」
 では待ってるから、と、トキは部屋へと戻って行った。それを見送って、あたしたちは城の厨房へとお邪魔する。
「そいじゃ、使わせてもらいますか。相変わらず、ひっろいな」
 俺用の狭い厨房でも作ってもらおうかな、なんて冗談を言いながら幼馴染は料理を始める。そんな姿を、あたしは眺める。
 そう、あたしは好きなのだ。この時間が。料理をしている幼馴染を見つめる時間が。少しずつ美味しそうな匂いがしてきて、あたしはいつもこの時間戦隊モノを見ていて、手伝えよ、なんて言われながら、お皿の用意をしぶしぶ手伝って。
 ――いまでは、それこそがこんなにも愛おしいのに。
「ねえ、カイト」
 手を動かしながら、なんだー、と返事が帰ってくる。
 ここは、城の厨房で。その一角を使わせてもらっているから、とても広くて。けれど。なんだかここが、元のウチの気がしてくる。
「……早く作ってよ、お腹すいたから」
「はいはい、じゃ……皿でも出して手伝ってくれ」
「……仕方ないわね」
 あたしたちは、変わらない。
 なにひとつ、変わっていない。
 幼馴染が王になろうとも。
 あたしが"王"になろうとも。
「ねえ、今日のごはんは?」
「お子様ランチ・カイト様スペシャル、だ」
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Icon of reverseroof リュウ クラージュ兄弟と八原兄妹の出会いの話(2017年頃)

「今日、でかけるからな」
 え?って言うと、前から言ってただろってきたにぃが後ろ向きで言う。え?ってもう一回言うと、はやく準備しろって急かされる。
「約束まであと一時間しかないからな

「約束?だれ?ゆうにぃ?りょうにぃ?あきにぃ?」
「んや、おまえは初めてだな。仕事の知り合い」
 じゃあなんであたしが、と思いながらも、寝巻きのボタンに手をかけた。
 蒸し暑い梅雨の晴れた日、昼寝の予定を返上して、知らない人に会いに行く。
 
 誰かわかんないし、とりあえずパーカーを羽織って、いつも通りのスタイルで家を出た。2人でバスに乗り、ついた先は……流行りのショッピングモール。小さな遊園地や水族館みたいなのもついていて、なんでも少しずつ楽しめるっていうのが人気だった。
 ショッピングモールの待ち合わせによく使われるのは、時刻によって噴射の仕方が変わり、音楽やライトアップで恋人達にも人気の噴水広場。あたしときたにぃはその噴水のそばに立って、誰かわからない待ち人を待っていた。暑いし人は多いし、イライラする。
「ねえ、めっちゃ人多いんだけど」
「日曜だからなぁ」
「仕事?仕事なの?」
「んや?ふつーにオフ」
「じゃーなんであたしも???」
「会ってみたい…って言ってたし、せっかくだからな。お前も、友達増えるいいチャンスかもよ」
 余計なことを言いながら、きたにぃはあたしにピースした。全然ピースじゃない。あたしはグーで返した。勝った。
 呆れた顔のきたにぃのスマホが鳴ってすぐ、こちらへ歩いてくる人影が見えた。2人。ちっちゃいのとおっきいのだ。昼間の強い日差しに照らされて、2人の金髪がキラキラと光っていた。
 金髪のおっきいほうは、きたにぃに片手をあげて、それからあたしを見て、手を振った。優しそうな笑顔。となりの小さい方はあたしを見て、その青の目をキラキラさせた。
「待たせたな」
「んや、まだ時間なってねーよ。俺らもさっき来たしな」
 な、ときたにぃに言われて、とりあえず頷いた。そんなあたしを見ながら、またおっきい人が優しく笑う。ちら、と隣を見ると、ちっちゃいほうもあたしをニコニコしながら見てる。ちっちゃいほうはあたしよりも大きかった。許せない。何を考えてるのかバレてるのか、きたにぃに頭をぐしゃぐしゃにされて、俯いた。
「…んじゃま、行く前に紹介するか。時々話すだろ、こいつ、ヤアス。俺の友達」
「ミヅキの話はキタツキからよく聞いてるよ。よろしく」
「………ドーモ」
 差し出された手を見ていると、きたにぃに手を掴まれた。引っ張られた。強制握手。…たくさん働いてる人の手だと思った。
「それでこっちが、弟のアマル」
「よろしくね、えっと、ミヅキちゃん」
 馴れ馴れしく名前を呼ぶな、と思ったところできたにぃにさっきより激しく頭をぐしゃぐしゃされて、大人しくその手をとった。…こっちもなんだか大変そうな手だな、と思った。
 きたにぃはあたしとアマルが握手をする所まで見届けて、ヤアスと目配せして、それじゃ行くかと切り出す。
「どこへ?」
 言った拍子にあたしのお腹が鳴って、恥ずかしくて頭が熱くなる。
「…まずは昼飯だな」
 きたにぃたちに流されるままに、あたしは全然知らない人たちと一緒に昼食をとることになったのだった。畳む