No.7671
一、足音。
二、扉の開く音。
三、靴を脱いで、鍵を閉める音。
四、カバンを置いて、上着を脱ぐ音。
五、居間の扉が開く音。
六、珍しくドタドタと言う足音。
七――
「……疲れた……」
ぼふん。勢いよく、しかしゆっくりと、しっとりと。ソファで横になって本を読んでいた私の上に、巳波さんが覆いかぶさり、背に顔を埋めて小さくそう呻いた。回された手は優しく、しかし何処か焦って私の体に触れ、ようやく安定する場所を見つけたのか、改めて彼の体重が全て私に乗っかった。そっと、伸びたままになっている手で今読んでいたところに栞をはさみ、本を優しく床へ落として、私を抱きしめて力尽きている腕を撫でる。
「クランクアップお疲れ様でした」
「……ようやく……あの現場からおさらば出来ましたよ」
「ふふ……嫌がってましたもんね」
「……嫌がっていたというわけではありませんよ。ただ、なかなか気遣いが必要な現場だっただけで」
「無理してましたもんね」
「無理はしていませんけれど……」
うだうだと、しかしちみちみと、巳波さんは一頻り心に溜まった膿を吐いて、吐き終えてからはまた、ぎゅっと私を抱きしめ直してじっとしていた。
「お夕飯、用意しておこうかと思ったんですが、打ち合げがあるといけないと思ってまだなんですが」
「……打ち合げはありましたし、食べてきてしまいました。貴方は」
「私は軽食を」
「……そう。お腹は空いていませんか?」
「うーん、まあ、そこそこに」
「……そう……」
そう言いながらも、巳波さんは頑なに私から離れようとはしなかったが、やがて……少しだけ私に掛かっていた体重が軽くなったかと思えば、ぐいと体勢をなおされて。見上げた巳波さんは、少し長い髪をそっと耳にかけなおして、私に近づく。
唇が触れている間、私は至近距離の端正な顔をじっと見つめ、その頭を優しく撫でていた。撫でれば撫でるほど、深く、しかし優しく、巳波さんは私の唇を求めていたけれど、やがて……機嫌悪そうなまま、目を開けて、ふう、と息を吐いた。
「どうして目を閉じないんです。普段見られない、疲れきった私がそんなに愉快ですか?」
「ふふ、お疲れが溜まっていると棘が鋭いですよね」
「……貴方も、その棘に刺されるのがたいそう好きなご様子ですけれど」
「綺麗な花にはなんとやらですし。それに……」
そっと、ほんの少し手を伸ばして彼の頬に触れる。巳波さんは一瞬驚いた顔をして……また元通り不機嫌な顔をして、けれど私が撫でるその手に、頬を擦り寄せてきていた。やがて、少しずつ、長いまつげが、絹のような髪が、整った唇の端が、少しずつ和らいでいく。
私は……彼のこんな瞬間が、大好きだ。テレビや映画でも、なんの仕事でも見せない、隠さない本心と安らぎと我儘の境目。それこそが、巳波さんが最も美しい瞬間。
「……貴方って、変わってますよね」
「……でも巳波さんは、変わっている私が好きでしょう?」
「……否定はしません。……ねえ、お夕飯、お寿司とかどうですか。ピザでもいい」
「がっつり食べたい気分ですか?」
「それはどうでもいいですけれど……」
ぎしぎしと、ソファを軋ませながら、巳波さんは乱暴に起き上がり、いつのまにか貯めていた寿司やピザのチラシを物色している。私はそんな彼の、先程とはまた違う、ちょっと不貞腐れているような、素直に喜べないでいるような、横顔の歪みを見て……また、嬉しくなって、思わず声を漏らした。
「……本当に貴方、気色悪い時ありますよね」
「ふふ。巳波さんが好きなだけです」
「……。……特上寿司と四種のミックスチーズピザ、どちらも頼みたいのですけれど」
「はい、お疲れ様会しましょう。ソフトドリンクも頼みますね。メニュー、どれにします?」
「いえ、注文は私が電話しますよ。貴方は……。その……。……」
スマホに番号を打ち込む手を一度止めて、同じように起き上がった私を見ないまま……しばらく、動きを止めて。
「……貴方は……そこで……寿司とピザを注文する愛しの彼にでも、目を奪われていてください。……弱ってる時の私の日常の姿が、好きでしょう」
「よくご存知ですね」
「貴方、なかなか性格がお悪いから」
「ふふ。……巳波さんが一番お美しい瞬間を、見ているのが好きなだけですよ」
「……はぁ」
お祝いと労いの用意はほんの少ししてある。彼もそんなことはわかっているだろう。彼がぶっきらぼうに注文をする声にまた愛しさを募らせながら、私は落ちていた本をテーブルに置いて、台所へと向かうのだった。
畳む




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