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kiss and kiss and...
甘い。甘すぎる。
今日の公子は、ちょっとおかしい。
「あ、あの」
抗議しようと隙を見てずらした角度だけ、公子もまた首を傾けてまた私の唇を塞いだ。今夜は、というか、さっきから……不意に私の唇を奪ってから、何か楽しくなってしまったように幾度も私に口付けている。どうしたんですか、今日、と言いたい言葉は声にならない。ただくぐもった音となり、部屋に響くとそれは淫らにも聞こえ、顔が熱くなる。
何度も顔を離しては触れて、繰り返し、やがて深いキスで落ち着いたのか、と思ったところ、ぬるりとした感触。小さく上げようとした悲鳴すら飲み込むように、公子は舌で私の唇を割って口内へ。熱い。ぞくぞくする。声が漏れる。その度、さらにご機嫌になっているのか、もっと喉の奥へと舌が絡みつく。……力が抜けていく。力の抜けた私の手に指を絡めて、公子はそのまま腕の中に私を入れ込んだ。すっぽり収まる度に思わされる……いくら細くても、やっぱ男なんだと。
――溺れる。
息が吸えなくて、いよいよそう思った時、不意に公子の舌が引っ込み、私から顔を離した。すぐ側で息を吐く公子の頬は、いつもよりほんのり赤かった。ぷは、と、息を吸うと、彼は優しく目を細めた。
「べちゃべちゃ」
「え」
「口の周り」
ははっ、と声を出して笑われて、そっと触れた口元はどこもかしこも唾液で濡れている。今度こそ、かっ、と身体中の熱が上がった気がした。
「……公子のせいでしょ!」
「まあ、そうだね」
公子はそう言ってひとしきり笑ったあと、でも、と言って、もう一度私の頬に手を添えた。そのまま親指が、私の唇をなぞる。ぞくり。先程までの感覚が一気に蘇る。
「良い感じに、食べ頃にはなったみたいだ」
「……は」
「俺、料理は得意なつもりだから」
「いや、あの、今日は」
「今日は、何?」
抗議する前に、視界いっぱいに天井が広がる。そのまま私に覆いかぶさった公子は、悪戯っ子のように笑った。
「いただきます。君の国では、そう言うんだろ」
……もう、好きにしてくれよ。私は小さな抗議として、黙ったまま目を閉じた。
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1日前(月 12:58:09)
SS
待って、と言ったのは確かに私だ。ちょっと待って、少し待って、あと少しだけ待って。便利な言葉に甘え続け、一線を引き伸ばし続けようとして、ついにその長い足に止められてしまったようだ。不機嫌というよりは拗ねたように、隠していない方の瞳を吊り上げた。
「お前さんの言う"あと少し"は、一体全体いつになったら訪れるんだ?」
私を逃がすまいと両手首を掴む手に、見た目ほど力は入っていない。私が振りほどこうと思えば簡単に出来るだろう。形だけの拘束は、ただ私に、もう逃げるなと告げるため。実際、私は今までの彼からのさりげないアプローチに、全て気付かぬふりをして、蓋をして、ここまで来た。この状況になってもなお、まだ逃げようとしている自分に呆れを感じていると、それすら許さないといったように顔を覗き込まれ、目を閉じた。
「なあ」
視界の奥で、彼が言う。急かす勢いはない。けれど、どこか願いが篭っているようで、無視することは出来なかった。
数度深呼吸をして、目を開けた。彼と、そして現実と、しかりと目を合わせ、声にならない声を、どうにか言葉にするように。
「……明日」
「……明日?」
訝しむように、彼は私の言葉をなぞった。私は一度頷いて……出てきたのは、蚊の鳴くような声。けれど、彼はそっと目を見開く。
__明日、なら、良い、けど。
この期に及んで真っ直ぐに告げられないのが、自分でも阿呆らしい。吐きそうになる程に暴れる心臓は落ち着かず、黙ってしまった彼の顔を見続けることも出来ず。しかし、ふうん、と言いながら、彼はそっと私の頬に触れ、顎に指を滑らせる。たった指ひとつで、奪われる主導権。
先程の陰はどこへやら、彼はご機嫌な口角を隠そうともしないまま、柔らかく目を細めた。
「残念だな、明日は忙しかったのに」
「なら、別に」
「予定を空けないといけないようだ」
「……空けたいんでしょ?」
子供のように勢いを取り戻した彼に、皮肉をひとつ。刹那、こつりと額に淡い衝撃。
あ、待っ__。
何度も使った便利な言葉は、発することを許されなかった。永遠にも感じられた柔らかな接触が唇を離れ、彼の使う力と正反対の熱を感じ、全身が泡立って。
「……明日まで、待ってやるから」
彼は、それじゃあ、と言って手を離す。去っていく背中。去り方はいつにも増して優雅に見えた。
そ、と唇にひとさし指で触れる。
「あ、明日……」
口をついて出てしまった言葉を、既に後悔している。しかし、どこかでこれ以上の熱を期待している私もいる。ええい、どうにでもなればいい、と私はベッドに潜り込んだ。
夜は更けていく、瞼の裏に、ご機嫌な彼を浮かべながら。畳む 13日前(水 17:50:07) SS
親から貰った大切な身体に自分の意思で傷を付けた。穴を空けたのはとっくに前なのに、まだそこにある金属を異物と感じ、気がついたら舐めている。きっかけは些細な事で、最初は誰からも驚かれたが、今や普通の事となった。――こうして、出会い頭に彼に唇を奪われるのも。「また、舐めていましたよ。癖になっているんじゃありませんか。唇、傷んじゃいますよ」そう言って、何も無かったようにすれ違っていく彼の背を目で追いながら、そっと指で触れる。金属に残る、彼の体温。私の身に纏う、装飾品。畳む
ネタ
みなつむ 唇のピアス キス
紡が口ピ空けることは絶対に無いが、何かに憧れて空けたはいいものの定着しても唇を無意識に舐める癖がついてしまって、それをどうにかしようと色々してた結果キスしたらしばらく止まる……と思って出会い頭にキスするよつになった巳波……
実際10年前に出来た設定だから紡さんはピシッとしているが、いま実装されたゲームだったらピシッとしててもインナーカラーくらいはキャラデザに入ってそうなくらい時代変わってるしな〜(それはそれとして公式紡さんはそんな時代でもそんな事しなさそうで確定しているの強い)畳む
190日前(月 16:48:23)
SS,二次語り
キラメキユラメキトキメキ

べっとりと、滲んだ汗が服を突きぬけて肌に滲み、私の肌と彼女の肌が馴染んでいる間、唇に触れている体温はうだる夏の中であっても、とても熱く感じられた。首に回された腕は離れる意思を見せず、ただただ目をぱちくりとさせ、抵抗もろくにしていなかった私が出来たのは、顔を離した後の彼女が酷く気まずそうにしていたから、微笑んで見せてみることだけだった。
二人きりになって、今更気まずいと思う相手でもない。それもたまたま、つかの間の間だけ、私は宇津木さんが呼ばれていってそれきり、小鳥遊さんは監督と話をしている二階堂さんに最初は並んで挨拶をしていたが、盛り上がっているようで気を使ったのだろう、部屋へ戻ってきた彼女は何か逡巡したように見えたが、お隣よろしいですか、とすぐにいつものように微笑んだ。どうぞ、と私が頷くと、この広い部屋の中、彼女はほんの少し隙間をあけて、ソファの私の隣に座った。鞄をあさり書類を取り出して、仕事の確認をしているようだった。
五分経てど、宇津木さんも二階堂さんも戻っては来ない。宛てがわれた部屋は、エアコンの調子がいまいちなのか、はたまた耐え難い地球温暖化の賜物か、ほんのり汗が浮かび上がってくる程度ではある。あまり長居をしたいとは思えないこの状況に、私の方から赴くべきだろうか、と次のスケジュールの兼ね合いから出ていこうとしたその時だった。
動きを止められた、何が起こったのかよくわからないまま、理解したのは唇を重ねられてから。小鳥遊さんが、私が立ち上がりきらないうちに飛びつき、そのまま吸い込まれるように私の口に自分のそれを重ねた。そうして今に至るが、彼女は自分から接してきたことにそぐわないほど、私と目を合わせず、気まずそうにしている。
「……何かの罰ゲームでも?」
アイドリッシュセブンのメンバーと、そんな約束でもしたか、と暗に問うたものの、彼女が最高速で首を振るのと同じくして、そんな訳が無い事くらい、もう私も彼らのことをよく知っている。小鳥遊さんはそのまま恐る恐る、今度は私の胸元に抱きつき、ちょうどよく私の腕に収まってしまった小さな体に、これはいよいよどうしてしまおうか、とぼんやり考えた。
嫌悪はない。むしろ、好ましいと思った。ただ、彼女を少しでも知っている者として、素直に喜べないとも思った。小鳥遊さんが普段どれくらい公私に線を引いているのかなんて、知らない者なんていないのだから。
「それでは……これは、一体」
彼女と密着していると、余計に汗をかいた。彼女は何も言わないし、しかし離れようともしなかった。少し考えて、離れることが恥ずかしくなってしまったのかもしれないな、と、これまたぼんやりと考えた。明らかに恋愛慣れしていないのは、御堂さんとのやり取りから見えているし、現にいまこのアプローチの取り方は、きようび女子中学生でもしないだろう。
ここでふらっと二階堂さんが、宇津木さんが、帰ってきたらどうしようか。否、二人ならいい。悪ふざけをしていたのだと伝えれば大事に至らない。困るのは、誰かほかのスタッフに見つかってしまった時に、言い訳は無い。そして……被害を受けるのは当然、私では無い。――ふう、と一つ息をつき、私は腕の中の彼女を手放した。相変わらず、目が合った彼女は急いで逸らす。しかし、今度は私が許さなかった。
力を入れずに引っ張ると、無警戒だった体は容易く私の腕に戻ってきた。そのまま、私はその細い体を力いっぱい抱きしめ、今シーズン流行りの色に染まった唇を私から奪った。
べったりと、密着した肌が汗を持つ。薄い服を通した水分は、私のものか、彼女のものか。啄むように色を落としていき、素の色となった彼女の唇に、今度こそ深く口付けた。
彼女はただじっとそれを、受け入れていた。しれ、と目を開けてみたが、それが満足であるのか、困惑であるのか、はたまた他の何かであるのか、私にはわからなかった。
足音の気配を感じ、私は少し乱雑に彼女を離し、元に戻した。戻っていないのは、その惚けた顔だけで、嗚呼――好きなんですね、と確信めいた時の私の気持ちもまた、困ったものである。扉が開いた瞬間、マネージャーとして元の顔に戻る小鳥遊さんは、役者より役者向きだ、なんて思いながら、私は少しだけ自分の唇を指でなぞっていた。
「なんかこの部屋暑くね?……あー、ほら、マネージャーもだし、棗ちゃんも、汗すげーじゃん」
「本当だ。お二人共、体調を崩されてませんか?飲み物飲んでます?」
「ええ、私は大丈夫ですが……少しエアコンの効きが悪いようでして、ふふ、べたべたに。……小鳥遊さんは」
「へ?」
「小鳥遊さんは……大丈夫、ですか。……ご体調は」
刹那、私たちは二人だけの空間にいた。音は無くなり、二階堂さんと宇津木さんは大道具のように存在感を逸し、全てがスローモーションになる――もちろん全て、錯覚でしかない――私はそっと、ハンカチで汗をぬぐう。それが、私の汗であるか、別の誰かのものであるのか、混ざりあった体温はじんわりと、身体ではなく、もっと深い場所へ、遅効性の毒のように侵食していく。
「……私は……」
鞄を持ち、冷感シートで化粧を崩さないように汗を拭きながら、彼女はいつもより少しだけ上気した顔で、儀礼的に微笑んだ。
「……少し暑さに、やられてしまったかもしれません」
「そう。体調には、どうかお気を付けて。それと……」
ぺ、ろり。私もまた鞄を用意しつつ、敢えて彼女に見せつけるように、まだ湿ったままの唇を舐めた。目を見開き、しかし必死に無反応を装う彼女に、私は目を細めて首傾げ、小さく片目を閉じて言う。
「どうか陽炎には、お気を付けて」
「……は、はあ」
それでは、と言い残し、私と宇津木さんは部屋を後にした。一応、と手渡されたスポーツドリンクに口をつけながら、先程までの湿度が嘘のような車内で窓に寄りかかった。
――陽炎を見ていたのは、私のほうだったのだろうか。この酷い暑さの中ではもう、今更、わからない。
畳む 228日前(金 22:44:51) SS
「本当にすみません、連絡に行き違いがあって、送っていただいて……」
「いえいえ、普段お世話になっているズールさんですから。ウチのみなさんを送るついででもありましたし」
そう言ってほほ笑みかけると、助手席の棗さんもまた柔らかく微笑んで返してくれた。
夜の大通りは少し混んでいた。ツクモの方で珍しく連絡やスケジュールの行き違いがあったと話していたズールの皆さんに、一緒に乗っていかないかと声をかけたのは私の方だ。予定がある方はそこまで送り届けて、アイドリッシュセブンのみなさんは寮へ送り届けて、最後に残ったのは図らずとも私と棗さんの二人だった。
音楽はランダム再生にアイドリッシュセブンを流していたが、そうして明るい車内で私たちはあまり言葉を交わさないままでいた。なんとなく気になって棗さんを横目で見る度、その整った横顔がじっと窓の外を覗いているのが見えて、疲れているのかな、と思って閉口した。アイドルにとって移動時間は休息のひとつだ。送りを買ってでたのは私なのだし、役目だけを全うすることを考えよう。考え直して、指示器を出した時だった。
「小鳥遊さんは、このお仕事好きですか」
曲がる前に、思わず棗さんを目視する。相変わらず、視線は窓の外を見つめているままだ。車の流れに乗りながら、私は確かに、はい、と答えた。
「大好きなお仕事です」
「具体的には、どういったところが」
「アイドリッシュセブンに限らず……アイドルの皆さんを、輝かせるお手伝いが出来ることですかね」
「でも、私たちが輝けばファンは私たちの功績として喜び、私たちがコケれば貴方たちが叩かれる。報われない仕事だとは、思いませんか」
「確かに、そういうこともあります……が」
「そういうことばかりでは?」
「……でも、それがいいんですよ」
「はあ」
向かいの車がハイビームのまま近づいて、思わず一瞬くらりとしながら、気を引き締めて安全運転を心がける。棗さんにお願いされた場所まであと少し……と、そんな時だった。小鳥遊さん、と私を呼んだ棗さんは、今度は窓を向いていなかった。
「すみません、行先、変えてもよろしいですか」
「え?ああ、はい、構いませんが……何処へ?」
「……ゼロアリーナへ」
「……ゼロアリーナに?」
「やはり、わがままでしょうか」
「……いえ!思い立ったが吉日です、お送りします!」
「ありがとうございます……少し考えたいことがあって……。……そこからは、一人で帰れますから……」
一度路肩に車を停め、私はカーナビのマップを設定し直しながら、彼に聞く。
「何か、ご用事が?」
「……なんとなく。……すみません、そんな理由で、他の事務所の方を巻き込んで。……やっぱり、私、一人で」
「……いいえ。今日は私がツクモに言って、ズールの皆さんをお預かりしているんです!責任もって、お付き合いしますよ、何処へでも……!」
「……何処へでも、か」
アイドルのみなさんは、なにか悩むと、なにか思うと、ゼロアリーナへ向かうことが多いようだった。ゼロという伝説のアイドルが彼らの心を満たすのか、刺激するのか……そんな彼らを応援することが、それこそ私たちマネージャーの仕事で、喜びだ。棗さんも今日は疲れているようだし、なにかあったのかもしれない。
「……大丈夫ですからね、棗さん。私、今夜はちゃんとお傍に居ますから!」
では向かいますね、と助手席に微笑むと、少し目を丸くした棗さんがこちらを見つめ、やがてようやく緊張が解けたように、あはは、と吹き出した。
「では……傍にいて下さい、今夜、ずっと」
「はい!任せてください!」
「……ふふ」
「……ちょっと元気になってくれましたか?」
「いえ、何も……ああ、小鳥遊さん、もう一つお願いしたいことが」
「何でも言ってください!帰るまで、私のことを宇津木さんだと思って!」
「……では、カーステレオ……ズールの……私が作った曲を、流していても構いませんか」
「……あ、すみません……配慮が足りなかったですね!すぐ切りかえ……」
「いえ、私がやります。ここからゼロアリーナまでだと、アルバム一本分は流せますから……スマホ繋ぎますね」
やがて、静かな夜の道を走る車内に、ギラついた魅惑的な音楽が流れ出す。妙に隣から視線を感じて、ちらと棗さんを見遣れば、目が合って、今度こそにっこりと微笑まれる。
「ふふ、やっぱり私、ズールさんの曲……棗さんの作った曲、好きだなあ。……これ、棗さんのオススメですか?」
「ええ、全部……貴方に今宵、聞いて欲しい曲です」
「……私に?」
「……ええ」
今日のゼロアリーナはどこの誰もライブをしていない。近づけば近づくほど、祭り事のときに賑やかな郊外は閑静になっていく。車内に響く音楽の鋭さが、その分だけいつもより増していく気がした。
「……ねえ、小鳥遊さん」
ふと、隣から私を覗き込むように見つめながら、棗さんはほんのり、悪戯っ子のような甘え声で笑った。
「今夜は私の傍に居て、私の我儘に付き合って、私が作った曲だけを聞いていてくださいね」
「え?……はい!」
「……今夜は私が飽きるまで……私に付き添っていて下さいね?」
「任せてください……?」
「……ふふ」
カーナビが残り推定距離を言ってから、棗さんは元通り、喋らなくなって窓の外を見つめていた。しかしその表情は、さっきよりどこか明るく見えた。よかった、と私もほっとしながら、疎らな街灯の下を走らせ続ける。……ちら、と、もう一度目をやってみても、端正な横顔はもうこちらを向かなかった。ハンドルを落ち着かず握り直しながら、そっとアクセルを踏み直す。
真っ直ぐに海岸線を走る車内の無言は、いつしか気まずいものではなくなっていた。
畳む 318日前(土 17:02:35) SS
久方ぶりに足を踏み入れた彼女の部屋に、見慣れないものがひとつ増えていて、お茶を淹れますと言ったその背を見送りつつ、そっと近づいた。インテリアの一種かと思ったが、確かにどこか使ったあとの印象がある、タロットカードの大アルカナが堂々と棚の上を占領していた。
「あ、それ……」
決して安価では無かったであろうカードの趣向を手で触りながらその高級感あるざらつきに微笑んでいると、ティーカップをふたつ、紡さんが盆に乗せて運んできた。ローテーブルにふたつ並べ、壁に立てかけてあったクッションを同じように置いてから、私の隣に並んだ。
「タロットカードなんて持っていらっしゃったんですね」
「ええっと……巳波さんに、影響を受けまして……」
「私に?」
「巳波さん、よく色々と占って下さるじゃないですか。だから、私にも出来る占いやってみようかなって思って。そしたら……綺麗なカードにご縁があって」
「なるほど。タロットはやり方が分かれば出来るものですしね。楽しんでいますか」
「ええ、毎日、今日の運勢を一枚引くことにしています。……ですが……えへへ、まだまだ初心者なんでしょうが、占いで落ち込むこともあって」
「と、言いますと?」
並んでいるカードのひとつを指しながら、なんとも言い難い微妙な笑顔で、紡さんは伺うように私を見やった。
「今日のカードは月の正位置、ってやつで。いくら調べても不穏なことしかなくて……実際、今日あんまよくない日だったし。なんだかこういうことが続くと嫌だなあ……なんて。占いへの道は、険しそうです」
「ああ……そういうことでしたか」
少し悲しそうな顔をしながらそう言った彼女の眉間のシワを人差し指で伸ばしながら、くすくす笑う私に彼女は首を傾げた。私はそっと棚の上の月のタロットを手に取った。
「占いで難しいのは、占い自体よりもリーディングかもしれませんね。……ねえ、紡さん、私はご存知の通り占いの類が好きですが、占いとは悪いことを避けるため、身を守るため……つまるところ、人が幸せのために作った方法です。ですから、見通しの立たないカードの日も、一縷の見通しを立てるために読んでいいのです」
「で、でも……他にも、塔のカードの日にも、あまり調子が良くなくて、やっぱタロットって当たるんだなあって……!」
「フォアラー効果というやつですね」
「フォアラー……」
「貴方を占いました、と言って、曖昧だが誰にでも当てはまりそうな言葉で同じ診断を複数人に配ったところ、大方の人々が自分のことだ、と思ったという実験があったそうで。占いとは言ってしまえばそのように人に当てはまるように作られた統計ですから」
「……で、でも……」
納得いかないのだろう、少しむくれた様子の紡さんは可愛らしい。スポンジのように全てを直ぐに飲み込む素直な一面と対になるように持ち合わせている、自分で実感しないと納得出来ないこの頑固な側面も、私が好ましいと感じているひとつだ。
ならば、と私はそっと月のタロットを手に取り、彼女の目の前でくるりと向きを変えた。ぽかんとする彼女に微笑み、私は一言。
「今日の紡さんの一日はワンオラクルで大アルカナの月……の、逆位置かもしれません」
「……え?だ、だって、ちゃんとカードの向きは見ましたよ……?」
「けれど、初心者の貴方はうっかり引き方を間違えたり、シャッフルを間違えたのかもしれません」
「そんなあ、だって」
「絶対に言いきれますか?」
「そう、言われますと、自信が……」
「はい。それに……ふふ。今日は……こうして、会えたじゃないですか?」
はっ、と弾かれたように紡さんが私を見上げる、その頬は少しずつ赤く染っていく。すみません、こんなことで、と反射的に口を動かず焦る彼女の頬にそっと片手を添えて、するり、撫で下ろすと分かりやすく身体が強ばって、そんな可愛らしさにまた、ふふ、と笑ってしまう。
「月の逆位置……月夜で見えづらいものに、ようやく触れられる事の暗示です。例えば、何か起こると敏感になり過ぎて悲観的になっていたり、過剰に占いを盲信して不安になっていたことへの終わり……そして……」
「……そして?」
興味津々といった調子で、無意識だろう、少しずつ私に近づいてきていた彼女の耳にそっと口を近づけて、囁いた。
「……恋愛面においては……進展があることの、暗示、とも読めますよ。……さて?」
「ふぁ!?ふぉ、フォアラー効果、でしょう!?あ、お、お茶冷めちゃってるかも!」
「ふふ。これは占いをした上でのリーディングですよ。何がどう進展するのかは、お茶を飲んでからでも読みましょうか」
「け、結構です!」
からかいすぎたかもしれない。耳まで色が染まりきった彼女は少し拗ねたように、改めて私をローテーブルに招いた。私はそっと、棚の上に逆さまの月を置いてから、彼女の向かいに座る。
先輩として、明日からの彼女の占いが、彼女を幸せにするものとなるよう、悪戯のまじないをかけて。
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319日前(金 15:47:15)
SS
(歌詞引用 ROMANCE/JanneDaArc)
「……無理、しなくていいんですよ、紡……」
うぷ、と小さくげっぷを逃がしながら、まだ飲みきれていないグラスの中身に、胃なのか肝臓なのかはたまた臓器ではない精神的な胸の奥か、居所のはっきりしない重みがかさなる。それらをないものとして笑っている今の私の笑顔は、はたして歪んでいないだろうか。しかし、目の前の私のエースは、歯牙にもかけていないご機嫌さだ。
「無理なんてしていませんよ。でも、私がある限り、巳波さんにはずっと一番輝いていて欲しいのです」
「輝いていますよ。ほら、グラスの中身に映る私、キラキラしてるでしょう」
「やだなあ、それはお店の照明でしょう?」
「……あはは」
勘弁してくれよ、と思いながら、無邪気さのあまり邪悪さの塊となっている姫から目を逸らした。なんとか飲み干せば終わりだ。ラストオーダーであることに気づかせぬよう、気分を害さぬようにとグラスを操っていたところ、我が優秀な姫君は少し笑みを緩めて……目つきだけ鋭く、店内を見渡して、言った。
「……そろそろ、ラストのお時間ですよね」
――勘弁してくれよ。もうたくさんです。結構です。少し休ませてください。酒焼けと連日のラストソングで、もう、喉が。
「……巳波さん、追加で、これ……お好きでしたよね?」
「……ありが、と、う、紡……」
私が言う前に注文を呼んだ紡と、どんな顔でいるのかわからない私を見比べて、同僚は憐れむような顔をしつつコールを煽り始める。ああ、これで今夜も私が一位だろう。
『それでは〜!愛しの姫より一言〜!』
マイクを向けられた私の姫は、もう慣れっこのくせに毎度初々しく、両手で受け取り、わざとらしく最初に言い淀む。
『え〜っとぉ……』
頼む。頼みますよ。もう、連勤で、キッツイんです、毎日貴方の相手をするのが。頼むから連勤終わりの今日くらい、平和に終わらせて。……そんな願いで笑顔が引きつっていたのかもしれない。私をちらりと見るなり、姫はにっこりと、完璧に微笑んで、控えめな声をスピーカーに載せる。
『明日も楽しみですね〜、よいちょ……』
マイクを手放し、そっとウインクをした私の姫は得意気で、もう何処までが天然でどこからが計算なのかもわからない。飲め飲めと言われるまま、気が狂うまで液体を喉に放り込み、その度に喉が熱く、胃が熱く、頭が痛くなっていく。
会いに来るつもりかぁ……ぼんやりとしながら、結局最後にマイクを持たされた。もう抵抗しない私に、姫は控えめに腕をからませながら、上目遣いに微笑む。
『……無邪気に笑う君を見てると〜……と〜きどき少し胸が苦しくてぇ……』
うっとりとした姫、反して盛り下がる店内、選曲は最悪だ。わかっている。けれど。
『これも愛のカタチでしょ〜……』
もうやる気のない私の歌声は、皆にどう聞こえているのだろうか。
『未来の〜ない……関係には……終わりは……なぁい、だって……』
――私たちって、いつ"始まった"のだろうか。
『始まってもないから。』
歌いながらちらりと隣の姫を見やる。
目が合った私の姫は、二重にぼやけて、相変わらず無邪気な笑顔で、百二十パーセント、笑っていた。
畳む
320日前(木 18:23:37)
SS

「紡、お昼はなににしますか」
「……さっき、朝マック食べませんでした?」
「あのくらい、すぐ消化してしまいましたよ。……揚げ物か、海鮮丼か……なら、どちらです?」
「……海鮮丼、いいですね……」
「ならここにしましょう。もう今日は一歩も外に出たくないって、言ってたじゃないですか」
「確かに昨日、寝る間際にそんな話しましたが……」
「ほら、ここ……ここ。ここに来なさい、枕が欲しいです」
「あー、もう、ちょっと。せめて抱き枕にしてくださいよ……」
「紡、夕飯はどうしたいですか」
「ウーバーイーツってけっこう量が多くて……もしかして三食ウーバーするおつもりですか?朝からトイレ以外離して下さらないし……」
「うーん。なら少し軽そうな……スイーツもありますよね。ドーナツとか、ドリンクとか。どうします?タピオカもありますね」
「ああ、タピオカ、いいですね」
「ならこれで……注文、と」
「……配達員の方も、びっくりしてませんか、三食も同じ家に……」
「配達員なんて毎回違うものですよ。それに、良いじゃないですか。平日に三食ウーバーする贅沢なご身分だなと思われることですし。……さて、四十分後だそうなので、それまでまだまだごろごろできますね」
「……まあ、そうですね……。……巳波さん」
「はぁい」
「……ぎゅー……」
「あらあら……四十分後に離れられますかねぇ」畳む 321日前(水 20:03:44) SS
一、足音。
二、扉の開く音。
三、靴を脱いで、鍵を閉める音。
四、カバンを置いて、上着を脱ぐ音。
五、居間の扉が開く音。
六、珍しくドタドタと言う足音。
七――
「……疲れた……」
ぼふん。勢いよく、しかしゆっくりと、しっとりと。ソファで横になって本を読んでいた私の上に、巳波さんが覆いかぶさり、背に顔を埋めて小さくそう呻いた。回された手は優しく、しかし何処か焦って私の体に触れ、ようやく安定する場所を見つけたのか、改めて彼の体重が全て私に乗っかった。そっと、伸びたままになっている手で今読んでいたところに栞をはさみ、本を優しく床へ落として、私を抱きしめて力尽きている腕を撫でる。
「クランクアップお疲れ様でした」
「……ようやく……あの現場からおさらば出来ましたよ」
「ふふ……嫌がってましたもんね」
「……嫌がっていたというわけではありませんよ。ただ、なかなか気遣いが必要な現場だっただけで」
「無理してましたもんね」
「無理はしていませんけれど……」
うだうだと、しかしちみちみと、巳波さんは一頻り心に溜まった膿を吐いて、吐き終えてからはまた、ぎゅっと私を抱きしめ直してじっとしていた。
「お夕飯、用意しておこうかと思ったんですが、打ち合げがあるといけないと思ってまだなんですが」
「……打ち合げはありましたし、食べてきてしまいました。貴方は」
「私は軽食を」
「……そう。お腹は空いていませんか?」
「うーん、まあ、そこそこに」
「……そう……」
そう言いながらも、巳波さんは頑なに私から離れようとはしなかったが、やがて……少しだけ私に掛かっていた体重が軽くなったかと思えば、ぐいと体勢をなおされて。見上げた巳波さんは、少し長い髪をそっと耳にかけなおして、私に近づく。
唇が触れている間、私は至近距離の端正な顔をじっと見つめ、その頭を優しく撫でていた。撫でれば撫でるほど、深く、しかし優しく、巳波さんは私の唇を求めていたけれど、やがて……機嫌悪そうなまま、目を開けて、ふう、と息を吐いた。
「どうして目を閉じないんです。普段見られない、疲れきった私がそんなに愉快ですか?」
「ふふ、お疲れが溜まっていると棘が鋭いですよね」
「……貴方も、その棘に刺されるのがたいそう好きなご様子ですけれど」
「綺麗な花にはなんとやらですし。それに……」
そっと、ほんの少し手を伸ばして彼の頬に触れる。巳波さんは一瞬驚いた顔をして……また元通り不機嫌な顔をして、けれど私が撫でるその手に、頬を擦り寄せてきていた。やがて、少しずつ、長いまつげが、絹のような髪が、整った唇の端が、少しずつ和らいでいく。
私は……彼のこんな瞬間が、大好きだ。テレビや映画でも、なんの仕事でも見せない、隠さない本心と安らぎと我儘の境目。それこそが、巳波さんが最も美しい瞬間。
「……貴方って、変わってますよね」
「……でも巳波さんは、変わっている私が好きでしょう?」
「……否定はしません。……ねえ、お夕飯、お寿司とかどうですか。ピザでもいい」
「がっつり食べたい気分ですか?」
「それはどうでもいいですけれど……」
ぎしぎしと、ソファを軋ませながら、巳波さんは乱暴に起き上がり、いつのまにか貯めていた寿司やピザのチラシを物色している。私はそんな彼の、先程とはまた違う、ちょっと不貞腐れているような、素直に喜べないでいるような、横顔の歪みを見て……また、嬉しくなって、思わず声を漏らした。
「……本当に貴方、気色悪い時ありますよね」
「ふふ。巳波さんが好きなだけです」
「……。……特上寿司と四種のミックスチーズピザ、どちらも頼みたいのですけれど」
「はい、お疲れ様会しましょう。ソフトドリンクも頼みますね。メニュー、どれにします?」
「いえ、注文は私が電話しますよ。貴方は……。その……。……」
スマホに番号を打ち込む手を一度止めて、同じように起き上がった私を見ないまま……しばらく、動きを止めて。
「……貴方は……そこで……寿司とピザを注文する愛しの彼にでも、目を奪われていてください。……弱ってる時の私の日常の姿が、好きでしょう」
「よくご存知ですね」
「貴方、なかなか性格がお悪いから」
「ふふ。……巳波さんが一番お美しい瞬間を、見ているのが好きなだけですよ」
「……はぁ」
お祝いと労いの用意はほんの少ししてある。彼もそんなことはわかっているだろう。彼がぶっきらぼうに注文をする声にまた愛しさを募らせながら、私は落ちていた本をテーブルに置いて、台所へと向かうのだった。
畳む
322日前(火 18:50:49)
SS
「お、らっしゃい。今日はどんな花を見に来たの」
最寄り駅のすぐ近くの花屋さんは、若いお兄さん。名札にはひらがなで、にかいどう、と書いているから、きっと二階堂さんなのだろうけれど、よくお兄さんは〜と話す癖があるようで、だから常連からは皆、お兄さんと呼ばれているし、私もそうしていた。カラッとしていてサッパリとしている爽やかな、眼鏡の青年。
「前に買ってったのは元気?そこそこ手間のかかる子だったけど」
「ええ、とても綺麗に咲いています。お兄さんが丁寧にメモを作ってくださっていたから」
「はは。違うよ。お客さんの愛」
「でも」
「スポーツと一緒。勝てば選手のおかげ、負ければ監督のせい、ってね」
「ふふ、相変わらずお兄さんは……謙遜しますねえ」
「偉そうな花屋店員よりいいっしょ」
「フレンドリーではありますけれど」
「馴れ馴れしいって?」
「言ってませんよ」
おどけたように笑う"お兄さん"に、自然と笑みが零れる。小さな花屋に並ぶ苗を見ながら、彼を盗み見ていると、鋏で茎を整えながら、お兄さんはこちらを見つめていた。
「……またなんかあったんだ?いつものクソ上司?それとも得意先のセクハラ男?」
「……私、そんなにわかりやすいでしょうか」
「どうでしょ。お兄さんのカンがいいだけかもよ。……今日もどの子か連れて帰るの?お家、ワンルームなんでしょ。ベランダ埋まっちゃうんじゃない」
「……そうですねえ」
「どうせなら今度はシダ植物なんてどう。暗くて寂しいところで育つ、きっとお客さんの心の翳りの中でも、なーんて。……ちなみに俺も、どっちかっつーと日光は少なくて良い派。……そんなインドアなお兄さんと、奥でコーヒーでもどう?」
「……本当に馴れ馴れしい花屋さんですよね」
「ホントは酒がいいんだけど、この前ミツ……たまに手伝いに来てるちっこいのに、花屋で酒出すやつがいるかって言われてさ」
「ごもっともですね」
「はあ、お客さんも手厳しいねぇ。昼間っからお客さんと飲むビールの美味さってのが、わかっちゃいねぇ」
そうやってまた微笑むお兄さんの表情は、さっきよりも優しい。ほっと、緊張していた心が和らぐのを感じて、甘えるように店の奥、靴を脱いでちょっとした土間に上がり、座った。しばらくして、マグカップを二つ、現れたお兄さんは自分の前と私の前にカップを置いて、で、とレンズ越しに私をじっと見据えた。
「全部ここに置いていきなよ。酸いも甘いも、辛いもすべて」
「……ありがとう、お兄さん……あのね――」
ありがとう、また来てよ、と笑うお兄さんに手を振り返しながら、私は新しく腕にビニール袋を抱えて帰る。袋の中には勧められた葉っぱのような植物の苗と、土と、適切な肥料、そして……お兄さん直筆、育てかたのポイントまとめの紙が入っている。
あの日、あの時。心も天気も土砂降りだったあの日にたまたま目が合ったお兄さんに貰った観葉植物から始まった、私のちいさな恋は……まだ、部屋に溢れている植物たちよりも、ずっと育つのが遅いようだが、それでいい。
育ちきってしまったら、きっともう、"お兄さん"とは会えなくなるのだから。
畳む
322日前(火 14:51:49)
SS
何年付き合っても、何年連れ添っても、その指にリングを通し合っても、書類上の苗字が同じになっても、いくら寝食を共にしても、彼女はわがままになることを知らないらしかった。
「あら、似合っているじゃないですか。買ってきたんですか」
普段プライベートのお洒落に興味を持たない妻はその日、珍しく綺麗にタッチアップされて帰宅した。普段の紡が選ばないカラーリングは彼女をより大人の女性らしく引き立たせ、特に赤過ぎない口紅は彼女に非常によく似合っていた。素直に、心を伝って出てきた言葉だった。
彼女は返事に困る時、一瞬だけ口の端を結ぶ癖がある。
「好きだったんですけど、一度持ち帰って検討してからにしようと思いまして」
「成程」
そんな一瞬の彼女の躊躇いを見なかったことにしてあげて、帰ってきたばかりの妻を抱きしめ、荷物を受け取った。
見られているのか、いないのか、芸能界にいることが人生の多くの割合を占めていると、人の視線に敏感になる。それが善意からなのか悪意からなのか、奇異からなのか、そういった温度感も次第に感じるようになるし、今は良い、今は悪い、と時と場合によって判断を下せるようにもなる。
人の少ない高級デパートの女性用化粧品売り場に立つ棗巳波はさぞ目立っていただろうが、逡巡、むしろ店員に聞いてみるか、と……視線の主に微笑みかけた。驚いた様子で固まった店員に、小さく手を振りながら声をかけた。
「失礼、少々お伺いしたいことがあるのですけれど」
「は、はい……」
「先日、妻が……ここでタッチアップさせて頂いたと……思うのですが……」
「……奥様が」
「ええ」
結婚の公表などとうに済んでいる。私はあの日、よくわかっていない様子の紡と無理やり写真を撮って、あの日の彼女の様子を残していた。店員に日付を言い、写真を軽く見せると、ああ、と覚えのある顔に、そしてきちんと店員の顔になった。
「妻がタッチアップした化粧品、わかりますでしょうか」
「勿論、一ヶ月内にご来店頂いた方の試用については記録に残してございまして……」
お名前までは伺っていないのですが、と店員が取り出したデータを盗み見ると、成程、金髪でやや童顔、購入の意思は無し……と、それくらいの情報でも常連以外がタッチアップすることが珍しい店なのだろう。
長年連れ添っているうちに、紡はウインドウショッピングが趣味になっている側面があった。当初、私に遠慮して家の中でばかり過ごそうとしていた彼女を、私が無理やり外で過ごしましょうと連れ出し回ったのがきっかけだろう。報道後からは遠慮なく二人でデパートを歩き回ることもあり、私は良い男らしくプレゼントをしようと何度も試みたが、いつものらりくらりかわされて、結局渡せたのはいつも安い物ばかりだった。金額が全てでは無いと思いつつも、男というのは時に格好つけたくなるものだ。
案内された化粧品を一式見て、許可を貰って私も手の甲で試した。勿論、私たちの肌の色は違うから、どちらかというと手触りやテクスチャの確認だった。これら一式、ちらと値段を見やると、まあ、成程。ゼロの数は彼女が普段使いしている化粧品より、いくつ多いのだろうか。
「……妻は、お試しさせて頂いた時、どんな様子でしたか」
「目を輝かせていらっしゃいましたよ。ただ、まあ、その……予算のことを、気にされていたもので」
「すみません、妻が失礼を」
「いいえ。私共も、自信をもって良いものをお作りしてお勧めしておりますが、決して安くない買い物ではあるとわかっておりますので」
そう答えた店員に嫌味はない。私はしばらく考えて、やがて、店員に口紅を指さした。
「これをラッピングでお願いします」
その日、帰ってきた紡はよれよれだった。誰がどう見てもそう形容するであろうくらい、よれよれになっていた。それでも気丈に振舞おうとしているのが痛々しく見えて、私はため息混じりに笑い、帰ってきたばかりの彼女の背に抱きつき、首元にキスを落とした。
「お疲れ様」
「あ、ありがとうございます……」
「怒られ仕事でしたか」
「まあ、こういう日も、ありますよね」
「理不尽に怒られて、耐えて、頭を下げ続けて、偉い、偉い」
「見てきたように言いますね」
「たまに、見かけますからね」
「恥ずかしいなぁ……」
「格好良いと思っていますよ。タレントを守るために戦う貴方がたを。貴方も、ウチのチーフマネージャーも、知り合いの方々みんな」
「……タレントさんにそう言われたら、報われます」
ふふふ、と笑った彼女は少し元気を取り戻したように見えた。体を離し、用意していた食事に仕上げをしに台所へ。着替えてきます、と部屋に消えた彼女を見送って、食器を並べ、用意した。
食事を終えた彼女は疲れ切っていたのか、ソファで私と寄り添いながら、かくんかくんと船を漕いでいた。たまにはっとして下船しては、またいつのまにか乗船している。私は呼吸を整えて、些か緊張していた心を落ち着けて、彼女を軽くゆすり、船から下ろした。
「今日も頑張った貴方にプレゼントがあって」
「え、何かの記念日……とかでしたっけ」
「そうですね。いわゆる、何でもない日、というやつで」
「……?」
「まだ寝ぼけていますね」
「お、起きましたよ!でも何も無いのに、と思って」
「何でもない日に、妻に贈り物をしたい時だってあるものです。はい、これを」
小さなラッピングボックスにリボンをかけて、手のひらほどもない箱を手渡した。彼女はそれを両手で大切そうに受け取り、しばし首を捻り、ちらちらと上目遣いで私を見る。
「なんです」
「い、いえ……いまここで開けるべきなのか、部屋でひとりで開けるべきなのか、悩んでしまって」
「ここは貴方の家なのだから、どこで開けてもいいんじゃないですか。貴方ががっかりするようなもの、持ってきたつもりはありませんし」
「じゃあ……失礼します……」
丁寧に、丁寧に。箱を壊さぬよう、リボンを破らぬよう、彼女は開け、やがてそのロゴを見て目を丸くして……そっと小さな箱を開けて……開いた口が塞がらないとは、今の彼女を形容するために生まれた言葉なのかもしれないなと思いながら見つめていると、勢いよく箱の蓋をしめ、彼女は私にそのまま押し付けた。今度は私の口が塞がらなくなる番だった。
「も、もらえませんよこんなお高いもの!」
「ああ、待って、紡……」
動揺したまま、彼女は激しく壁にぶつかりながら、彼女の部屋に飛び込んで、逃げるように扉を閉めた。一生懸命口を閉じて、扉を叩いて名前を呼んでも、しばらく彼女が出てくることは無かった。
まあ、予想していた範疇の出来事であった。
紡は頑なにプレゼントを受け取らなかった。否、一度あまりにも好意的に受け取ろうとするものだから、私が奪い直した。
「返品してくるつもりでしょう」
「そ、そんなわけ……」
「貴方はレシート持ってないんですから、無理ですよ」
「……家計の管理のために、ほら、レシートは一緒に置いておいてくださいよ」
「もう捨てました。私のポケットマネーからなので」
「……んもう!」
紡は次の作戦が失敗したことに腹をかいて、またしばらく部屋から出てこなかった。今日の仕事のストレスも相まっているのだろうが、このまま平行線ではこちらだって、贈り物をするからには喜んで欲しいだとか思うし、受け取って貰えるまで緊張もするし。何より……。
「……紡、扉を開けて」
返事は無い。ドアノブにそっと手をかけたが、扉は開かない。鍵をかけているのではなく、扉の前に座って陣取っているのだろう。
「紡……」
「……巳波さんのお気持ちはたいへん嬉しいですが、そんなお高いもの、受け取れません」
「……どうしても?」
「受け取れません……返してきてください……」
「では私に、妻への贈り物に失敗した笑いものになれと、そう言うんですね。結構ですよ。棗巳波、妻にフラれる、プレゼント失敗……とかSNSにでも書かれてしまえばいいんです」
「そんなこと言ってないじゃないですか!」
「ふふ」
「ああっ!?」
思わず少しだけ扉を開いて否定しに来た紡を利用して、扉が閉まらないように足を突っ込んだ。バランスを崩した紡がごろんと床にころがって、私は部屋に足を踏み入れる。
「さ、こちらへいらっしゃい」
彼女のベッドのへりに腰掛け、特に転げた彼女を起こすでもなく、私は手招きした。気に食わなさそうな顔のまま、紡は私の隣に座った。しかし、両手はぎゅっと握りしめたまま。意固地になってしまった彼女が簡単にはなびかないことくらい、もうわかっている。だからこそ……。
ラッピングされた箱を目の前で開け始めると、彼女は目を丸くして、ぎょっとした顔で私を見つめていた。私はあえて彼女には目もくれず、ただ淡々と彼女のためにされたラッピングを解いていった。やがて、素の、商品の口紅のパッケージを開けたところで、紡がついに小さく一言。
「あ、開けちゃった……んですか……」
「貴方が開けたくなさそうでしたから」
「そ……ういうことでは……」
「開けたかったんです?受け取ろうとしなかったのに」
「ちが……くて……」
「難しい人ですねえ」
とにかく混乱しているのであろう、紡は疲れた頭がついにショートしてしまったようで、思考を放棄している彼女の隣で、私は開けた口紅を人差し指に、とんとん、と軽く取ってみた。優しく反対の手の甲を撫でてみる。十分すぎるほどの色が出て、美容部員のアドバイスを思い出し、少し色を落とす。
「……はい、紡、こちらを向いて」
「え」
「こっちを向くんですよ、ほら」
怪訝そうな顔を、緩く指先でこちらへ向かせた。そのまま、色を取った人差し指で彼女の唇を優しくなぞる……びくりと体を震わせた彼女に構わず、とんとん、と、優しく色を乗せていく。一日の終わり、わざわざ何を落とさずとも彼女の唇は素の色に戻っていた。そこに柔らかい赤を載せていく、丁寧に、やさしく……大切に、たいせつに。
――うん、良い。出来栄えに自分で頷いて、もう少しだけ紡の唇を整えた。自分で思った以上に満足して、笑みがこぼれて、そんなご機嫌な私を見る紡の頬は、紅を載せていないのにちょうどいい色に染まっている。
「よく似合っています」
「……あ……ああ……ありがとう、ございます……?」
「やっと受け取ってくれましたね、プレゼント」
彼女がぽかんとして緩めている手のひらに、そっと口紅を握らせた。今度こそ、彼女は拒まなかった。それよりも気になるのだろう、そっと自分の唇に手をやって、また少しだけ彼女の頬が染まっていく。疲れ切っていた紡の表情が柔らかく歪んでいく。そっと頭を撫でると、もうすっかり慣れた様子でいつも通り、私の手に擦り寄った。
「いつもお疲れ様」
「……あ、あの……何も無い日の突然の贈り物にしては……ちょ、ちょっと、こ、この先こういうのは……びっくりしちゃうっていうか……」
「それならきちんとそう言ってください、私だって良い男らしく、たまには格好つけたいのに、あんな風に拒まれては傷つきます」
「……傷つきました?」
「ええ、それはもう、二度となおらないくらい、深い深い傷を負いました。ああ、苦しい、死んでしまいそう」
「……傷ついては……なさそうですね」
「なんて非道い。この傷、ちゃんと今日中に癒して頂かないと明日は仕事になりませんよ」
「そう言われましても」
「ああ、傷ついた。傷ついたなあ、ねえ紡、私、傷ついた」
「めんどくさいなぁ……」
傷ついた、と連呼しながらずるずると彼女に寄りかかる。彼女は言葉の割に、嫌がる様子はあまり見受けられないまま、今度は優しく私の頭を撫でる。小さな、あたたかい手。……目を閉じる。心地よい。
「……に、似合ってますか、私」
「ええ、とても。こうして無理やり押し付けたくなるくらいには、似合っていると思っていますよ」
「……か……かわ、いいですか……」
「言うまでもありません」
「……」
「失礼、気が回ってませんでした。言って欲しいんですよね。可愛いです」
「いつも一言余計です!」
「ふふ」
んもう、と言いつつ、急に紡が勢いよく寄りかかってきたものだから、私は驚いたままバランスを崩す。押し倒される形でベッドに収まった私に、紡の長い髪がほんの少しかかり、やがて頭に、頬に、体に――一斉に落ちてくる。
「……どうしたんです、急に」
一瞬ゼロになった距離を少しだけ離した、逆光の紡の唇の彩度はこちらから見てもまだ高い。私が自分の唇を触る前に、紡の人差し指がそっと拭った。その指先はほんの少し、赤く染まっている。
「別に……」
ふい、と目を逸らす彼女はそう言いながらも、私を覆う体をどけようとしない。私は思わずくすりと笑って、そのまま体を引き寄せる。
「いつもそうやって、わがままでいてくださったらいいのに」
「巳波さんって意外とわがままさんですから、私まで、あんまりわがままになれないでしょう」
「あら、そんなことを言うお洒落な口はこれですか」
「ええ、お洒落したばっかりに心無い言葉ばかり出てくるようになった悪い口です。……ほ、放っておいたらもっとお喋りになって、巳波さんの悪口がいっぱい出てくるかも……」
「それはそれは、何が飛び出してくるのか、聞いてみたいですね」
「……そ、そうですか……」
「冗談ですよ。……ほら」
少ししゅんとした様子の紡に笑いながら促すと、彼女は少し眉間に皺を寄せながら、しかし瞳に熱を浮かべて私の首に腕を回した。私はそっと彼女の頭を、顎を優しく傾けて、お互いそっと、距離を縮める。
「責任を持って、しっかりと塞いで差し上げないと、ね」
畳む
着想の呟き
紡さんの休日 ウキウキデパートウインドウショッピング タッチアップした口紅があまりに良かったので値段を見て2桁万にビビり散らかして帰ったら「似合ってるじゃないですか、買ってきたんですか」って言われて「いやぁ、持ち帰って検討しようと思ってェ〜」とかテキトーなことを言う
高級なデパートに遊びには行くものの やはりあまり買い物にまで手は出ない 当日の持ち物から推測して巳波もあたりをつけて行ってみるんだけど さすがに微妙な色の違いまではわからず 唸っていたら店員さんにめちゃくちゃ見られていて(まあ、公表してるしいいか……)って
「先日妻がタッチアップして帰ったと思うのですが…」って切り出して
怒られ仕事してボロボロになって帰ってきた紡に「プレゼントです、いつもお疲れ様」「えっここで開けていいやつですか!?」「ここ貴方の家なんですからいいのでは…」って渡された小さな包 開けたら件の口紅でビビり散らかす紡
「n万ですよ!?」「知ってますよ、私が買ってきたんですから」「だって!?だって!?」みたいになってて受け取ろうとしないのですっと紡の手から受け取って指先に少し取って
紡の唇にトントンって軽く塗って
「ほら、似合ってるじゃないですか」って笑いながら紡の手に口紅を入れ込む巳波
畳む 1年以上前(火 12:13:15) SS
自分へのご褒美で買った香りは甘くて、けれどほんのちょっと苦くて、瓶は可愛くてオシャレで、憧れていた綺麗な大人の女性に仲間入りをしたような気分でウキウキで棚に飾った。嬉しくて仕事場につけて行って、そして見事に、つけすぎですよ、と後輩に笑われてからは何だか恥ずかしくなって、置物と化してしまった。
身近にこんなにも香水を使っているアイドルがいるのだから、使い方をちょっぴり聞けば良いのだけれど、プロデュースしている側の私がそんなことも知らないのだと思われたくないような、変な意地が先行してしまって、結局聞けずにいる。それでも、聞くならやっぱりナギさんかな、なんて思いながら、休憩所で落ち着きなく彼らの仕事の終わりを待っている間、手の中の瓶だけが大人の女性だった。
「あら、今季の新作ですね」
「ひゃっ」
くるくると手の中で回していた瓶を慌てて隠すと、声の主の笑い声が降ってきた。慌てて立ち上がって頭を下げて、ふいと見回すと、棗さんは穏やかに微笑みながら軽く頷いた。
「私だけです、ドラマの撮影で」
「ああ、それはそれは」
お疲れ様です、と声をかけると、にこりと微笑まれる。芸能界で仕事をするようになってから美形の男性の笑顔にも慣れたつもりでいるものの、不意打ちにはまだ弱い。とりあえず慌てて鞄に入れようとした手を優しく掴まれて、混乱する頭の中で中性的な棗さんの手の大きさで、ああ、この人も男の人なんだ、なんてどうでもいいことだけ浮かんだ。
「気になっていたんです、今日お使いなんですか?どんな感じでしょう。意外と香りは弱め?肌乗せすると人によって結構感想が違うようですけれど」
「あ……ええと……ええ、と……」
口ごもる私にやや首を傾げながら、緩く距離を近づけた棗さんにどうしたらいいのかわからなくなって、ただ目だけが泳ぐ。照明。灰皿。ソファ。自販機。扉。廊下の壁。床。……私の匂いを嗅いでみたのかもしれない、何かを察したようにくすくす笑う、棗さんのお姿。
「香水の中でもお高かったでしょう、初めてでよくチャレンジしましたね」
「……べ、別に……そういう、わけでは」
「誰にも言いやしませんよ。……少々拝借しますね」
「え、あ、あの……」
「手首……だと香りすぎますかね。失礼します」
「あ、あ、あ」
腕のボタンが外されて、くるくるとシャツが捲られて顕になった腕の内側に、棗さんは香水瓶の宝石のようにカットされた蓋を躊躇無く取って、少し離してプッシュした。肌に霧がかる感触と共に、ふわり、滲んだのは桃の香り。後から後から、少し苦い、ビターな大人の香りもついてくる。
「こんな感じで使うといいかも。……ああ、うん、良い感じですね、ユニセックスだけれど、女性寄りな雰囲気でしょうか」
「あ……はい……好きな匂いで……」
「オードパルファムですし、このメーカーは思っているよりも乗りが良いですから、小鳥遊さんの職種ですと本来は下半身の方が良いかもしれませんけれど……まさかいきなり女性の腰や足を触るわけにもいかなかったので」
「……す、すみません……香水の使い方も知らない社会人なんて知られるのが……恥ずかしくて……」
「興味が無ければ大半の人は知りませんよ」
「けれど、私、こういった仕事をしているのに」
恥ずかしい、様々な感情で上気する体を認識しながらも、私は小さく頭を下げた。ほんわりと自分から漂う好きな香りが心地良い。棗さんは反対側の私の腕にもつけてくれて、優しく袖を戻してくれた。
「……ふふ、良い香り。私も試してみても良いですか?」
「あ!は、はい、どうぞ」
「すみません、では……」
躊躇無く首元に、少しボタンを外して胸元に、手首に、噴射された香りを棗さんが纏った時、もしかして今……私たち、同じ香りなんだろうか、なんてとんでもないことが頭をよぎって。
「肌によって香りが変わったりしますから……ほら、私と貴方でもトップが少し違……小鳥遊さん?どうかしましたか」
「あ……いや……ええと……」
顔を上げられないまま、そっと差し出された手首に、促されるまま顔を近づけて、そっと香るのは、私と……ほんの少しだけ違う、お揃いの香り。少しだけ、私よりも苦味が強くて、甘みが後から漂ってきて。――けれど、同じ香りだ。
「……ありがとうございました。……小鳥遊さん」
「あ!?は、はい」
「この香り、ちゃんと貴方に似合っていますよ。……私にも、ね」
「へ……」
くすりと笑うその顔が素の彼でないことくらい、悪戯心で少し演じていることくらい、もう痛いほどわかっているのに。回らなくなっていく思考はきっと、そう、そうだ、香水のせいだ。
「せっかくなんだからもっと使ってあげてくださいね。ああ、瓶ごと持ち運ぶよりアトマイザーに移した方がいいかもしれないです。プッシュは1も要らないかも……。……それでは、失礼しました……お疲れ様でした」
「……お……おつかれさま、でした……」
瓶を手に返されて、そのままふらりと棗さんが消えていくのをすっかり見送ってから、へなへなとソファに座り込んだ。……そっと、自分の体から漂う香りを嗅いでみる。
「……同じ、匂い……って、何言ってんだか、あは、あはは……」
甘くて苦くて、少しずつ悪戯に変化していく。それは……とても彼に、よく似ているような気がして。優しく香水をつけてくれた手つきが、少し甘い声で笑う顔が、少し大きな手の体温が、頭の中でぐるぐると廻り……マネージャー、と声をかけられて、慌てて頭から考えを振り切る。駆け寄った彼らに香りを褒められて、照れながら笑いあって。
その日、おシャレな置物はお守りに変わった。芽吹くかどうかわからない、私も気付かぬ感情の始まりと共に。
畳む 1年以上前(水 17:49:23) SS
「炬燵を買うか迷っているんですよね」
彼女の赤切れた手にクリームを塗っていると、たまに染みるのだろう、彼女は眉をしかめつつも、そんな私たちの手を見つめている。
「まあ確かに、貴方は別に……炬燵から出られなくて困るようなタイプじゃありませんし、いいんじゃないですか」
「そうですかねえ……布団からはよく出られなくって……冬はもう、ギリギリの出社になってますよ」
「それで最近お化粧がシンプルなんですね」
「……やっぱ手抜きに見えます?」
「いえ、手抜きとまでは。オフィスメイクとしてはいいんじゃないですか……はい、出来た。ちゃんとマメにクリーム塗ってくださいよ、せっかくプレゼントしたのに」
「……ついつい、時間が勿体なくて」
「ハンドクリームを塗る時間まで焦らなくていいでしょう?一分もあれば出来ることですよ」
ハンドクリームの蓋をしめる、その時に、開けた時と同じようにまた柔らかな花の香りが鼻腔を擽った。私から彼女へ、ちょっとしたプレゼントがしたくて選んだ物だ。そのまま彼女のポーチへ戻す。選ぶ前にそれとなくリサーチした時は、手が荒れて困っているだなんて言っていたのに、あまり使っている様子は見られない。……贈り物に失敗した気がして、こうして会う度に無理やり彼女の手に塗り込むのが恒例になってしまっている。
彼女は彼女で、ポーチを受け取りながら自分の手を見つめて軽く口元を歪めている。
「何がおかしいんです」
「……いいえ。だって、巳波さんがいつも塗ってくださるから」
「貴方が自分で塗らないから」
「それが良いんですよ」
「……何も良くないですよ?」
「良いんですよ」
ポーチを雑にカバンに放り投げて、彼女は炬燵の中に手を入れて、私に体重を預けた。私は彼女を受け止めつつ、同じように手まで炬燵に入れ込んだ。二人で寄り添い温まる。
「やっぱりいいなぁ、炬燵、あったかいですね」
「そんなに気になるのなら、一度買ってしまえばいいのに」
「うーん、でもなぁ……もう少し……巳波さんの家で試着してからにしちゃおうかな」
「炬燵って、試着、ではないでしょう」
若干ため息をつきつつ、目を閉じて彼女の首元に頭を埋める。
「冬の貴方、どうしようもない人ですね」
「そうなんです。どうしようもないので、お世話焼いてくださいね」
そう言って幸せそうに笑う彼女を見て、ああ、甘やかしすぎたかな、なんて、少し呆れた。
畳む
1年以上前(月 10:48:57)
SS
「嫌い」
口付けを終える毎に彼女は吐き捨てるように言う。じゃれついた戯言ではない。心から滲み出る彼女の憎悪と飽きをそのまま、私も小さく嫌い、とお返ししながらまた口付けた。重なる唇はいつもより雑で、お互いにまるで合わせるつもりが無い、一方的なものばかりだ。
「いつまで続けるんです」
彼女の腹を指でなぞりながら問いかけると、ふい、と彼女は目を逸らす。はあ。私も小さくため息をついて、そのまま小さな体を抱きすくめる。
酷く義務的で、むしろ私たちはとてもいがみ合っていて、けれど指と指を、足と足を絡め、荒い息が重なった。答えない彼女を、そのまま攻めていく。態度とは裏腹に体は快楽に正直に私に応えてくれるが……。
「……明日は、ま、た……あの人と、会うんですか……それとも……別の人?」
はあ、と熱い息を吐き出しながら私の首に腕を回す彼女に、今度は私が答えない。答えない私の首に、更に不機嫌な彼女がそっと歯型を付けた。甘噛みでは無い、血が滲む感覚と、傷口を舐められる感触。ぴりぴりと染みる彼女の唾液が憎い。
「……別れちゃえばいいのに、私たち」
「ええ、本当に」
そう言ってくすくすと笑い合う時だけ、私たちは心から楽そうに笑った。なんの愛も無い、ただ刺激を求め合うだけの夜は妙に長い。
全てを終えて眠り落ちた彼女の隣で、私は少し隙間を空けて横になる。そうして、暗がりでノートに今日の日記を付けた――。
愛し愛される、それが重いと感じ始めたのはいつからだろうか。特別なものが嬉しいのは、特別なものが特別になったばかりだからだ。それが当たり前になっていくにつれて、当たり前のものに喜びなど感じなくなる……言うまでもない、自然の摂理だ。
好きだと言い合った夜は次第に惰性になっていく。喜びはただの快楽へ堕ちる。逢瀬は義務へと変わっていく。そうなってしまえばもはや、真面目に恋愛していることの方が馬鹿らしくなっていく。
刺激を求めて、他の人へ手を出し始めたのは私の方だ。最初は彼女だって糾弾したし、私にだって罪悪感はあった。しかし、いつの日にか彼女も同じように誰かと夜を過ごすようになり、私たちは付き合ったまま、お互いがお互い別の人間と関係を持つことにそのうち疑問すら抱かなくなった。どうしてか?なんて、自分がいちばん分かっている。……つまらなくなったから楽しいことをしている、それだけだ。
それでも彼女との関係を終わりにしようという結論にならないのは自分でもよく分からない。彼女からも別れ話は持ち出されない。冗談めかして悪態を付き合いながらも全てを終わりにしないのは、なまじ体の相性がいいからなのか、なんなのか。愛が冷えたどころか、勢い余って憎しみすらお互いに抱いているのに、私たちはいつまでも恋人であった。
今日の相手と親しく会話して、スキンシップをとって別れた。スマホの通知は一昨日会った相手からだ。雑に可愛らしそうなスタンプをセレクトして会話を終わらせる。一息ついて、時間を見ながら現場を移動した。
現場で会った彼女はいつもと何ら変わらない。私も何も変わらない。義務的に挨拶して、人目がある場所ではそれなりの仲を演じている。ただ、お互いに見つめ合う視線が少しだけ鋭いだけだ。人はある程度を超えたら、嫌悪を隠せなくなってしまうものなのだと知った。
「今日は帰り、お早いんですか?」
張り付いたような笑顔で彼女が不意に聞く。私もそっと笑い返して言う。
「それ、貴方に何か関係、あります?」
「痛い……っ、巳波さん、いた、いたい」
「痛いわけないでしょう、当てつけですか?感じてるくせに」
痛いのはこっちですよ、と吐き捨てながら私も背中に食い込む爪の痛みにぐっと耐えた。彼女は達する時に爪を立てる癖がある。元からだが……最近はより顕著になっている気がする。先日スタイリストにも「ペットでも飼ってるんですか?」と聞かれたくらいだ……あまり背中が広く出る服を着ないから良いものの、私のプロモーションが別の方向性だったらこの人はどうしたつもりなのか。いや、だからこそなのか、とも思う。この爪痕で困ってしまえ、そう言われているような気がして、急に腹が立って、まだ私を絞り上げている中に向けて、強く突いた。苦悶なのか喘ぎなのか、彼女の淫らな声が呼応する。
「……今日話していた方は、どちらの方ですか?」
「貴方こそ、随分とADさんと親しそうでしたこと」
譲らない態度のまま、私たちは顔を見合せ、どろどろになったまま、揃って笑った。
「ねえ、巳波さん、雰囲気の良いお店なんか知りませんか」
「あら、今まで私と行った場所の中には思い当たらなかったようですね。他の誰かと開拓なさったら」
「ふうん、いいんですね」
「別に、今更でしょう?」
やるだけやって、私たちは真反対を向いて、それでもひとつの布団の中に収まっているのは酷く滑稽に思えたが、私はそのまま肩まで布団をかぶる。
畳む 1年以上前(金 20:20:49) SS
翌朝、目を覚ました時はいつも通りの天井が見えてほっとしたのだけれど、すぐにあの柔らかな声が聞こえて絶望した。
――貴方はこれから、何千何万の”ミナミサン”に声をかけられるでしょう。けれど、そのひとつにだって声を返してはいけません。反応も。まるで、気づいていないかのように振る舞うんです。私が貴方を呼ぶ時は……。
昨日の巳波さん……本物の棗巳波にそう言われたことを反芻しながら、耳元で、頭の上で、もはやどこかわからないところで私を呼ぶ……謎の声に、その度にびくりとしながら、しかし懸命に無視して支度を済ませた。
声はずっと、私の呼び方が定まらない。タカナシサン、タカナシ、ツムギ、ツムギサン、ツムギチャン……それらは確かに昨日、誰かには呼ばれた呼び方だったけれど、ふと思い出して、巳波さんの態度に納得した。
昨日、巳波さんは、一度も私のことを呼ばなかった。貴方、としか言わなかったのは……悪霊たちにあれ以上の情報を与えないためだったのだろう。彼が私のことをなんと呼ぶのか。それを知って、より私を惑わすことがないように……。
(……早く壮五さんに会って、この事を……)
MEZZO"の出社は今日は遅い。ふと、壮五さんから、そして巳波さんからも追加で頂いた札を見て……昨日から何かある度に自分が怖がりなだけだと思い直して気にしない振りをしていた現実を見た。
札はもう、黒くなっているだけではない。どれもボロボロで、触ると焦げた紙のように、ボロボロと崩れていってしまった――。
実際に効果があったのかわからなかったが、少なくとも私の心のお守りでもあった札がすべて無くなってしまってから、冷や汗をかきながら通勤した。
車のハンドルは、気を抜くと変な方向に曲がった。独り言を呟くと返事が来る。なんだか、体を触られたような心地がする。ぞっとする、心霊体験の数々。霊感もなく、そういった運命でもなかった私にとって、ああ、本当に存在するんだ、というのがやっと出た感想だった。そして、すぐ気が狂いそうになっている。
現場についてから、苦しさに御堂さんに連絡を入れた。昨日巳波さんに札をもらったことを添えて連絡を入れてみたのだが、これがまた……チャット画面が急にぐにゃりと歪んでアプリが落ちてしまい、連絡がとれたのかはわからなかった。
霊って、電波まで扱ってくるのか……と頭を抱えながらも、怯えてはいられない。本日最初の仕事のために、皆さんと合流するために局に足を踏み入れた。
「……おぞましい数」
朝一で私と現場が重なった巳波さんは、私と……私の周りに視線を巡らせて、頬に一筋汗を浮かべた。何があっても笑顔で何も悟らせないような彼がそんなふうに驚くことに対して、恐怖心が増すのを感じていた。そんな私に気づいたのだろう、そっと「持っていなさい」と呟いて、彼は私に小さな何かを握らせて、挨拶回りへ行ってしまった。……私が来るまでアイドリッシュセブンの楽屋に居てくれたのは、私を心配して待っていてくれたのだろうか。
握らされた手を開くと、そこには小さなお守りがあった。ちりめん生地で作られた赤と紫と金色のお守りには、何が書いてあるのかは読めないが……ずっと触れられている気がしていた背中の感触が離れた気がした。……ほっとする。
「……壮五さん、今日ってお昼から、だっけ」
はっとして陸さんを見ると、陸さんはかなり困った様子で同じように私と……私の周囲を見ている。気づかない面々にそうだよ、と肯定されながら、私に心配そうな顔を向けている。……そうだ、陸さんには”見える”。私には”見えない”けれど……。
一体、私の周りにはどんなおぞましい姿をした悪霊がいるの?どれだけの数?聞きたくなるのを堪えて、笑顔で返した。
……陸さんと壮五さん以外に霊感がなくてよかった、と心から思った。陸さんにすら、見て欲しくはなかったけれど。それにしても。
(……壮五さんには止められたんだよね。だけど、私は行ったから……行ってしまった、から……そして……)
巳波さんが私を守ろうとしたから、巳波さんまで。
ろくでもないことに人を巻き込み続けていることが悔しくて、唇を噛んだ。
大丈夫ですよ、ツムギサン、ほら、こっちを向いて。
耳元で、”ミナミサン”の声が……止まらない。
〜
「私が、私がお守りを頂いてしまっていたから。だからこんなことになって」
「……別に、大丈夫です、御堂さんがなんとかしてくださいましたし。流石、餅は餅屋ですね……本職の方ってやっぱり違う」
「……私の、せいで」
「違いますよ」
「私の……」
「違うって言っているでしょう」
苛立った様子の巳波さんに何度言われても、巳波さんの包帯が目に入る。痛々しい……それもそうだ。体を半分持っていかれそうになった、私にはよくわからない概念だったが……壮五さんと御堂さんが間に合わなければ、巳波さんは……。
「……」
病室で二人になってから、初めての沈黙だった。今度こそ、沈黙だ。誰の声も響いてこない。変なタイミングでそれに気づいて、少しほっとして、けれどこの状況はなにもほっとすることではなくて。
ぼたぼたとこぼれ始めた涙を、そっと巳波さんの手が受けた。顔を上げると、ベッドから動けなさそうな巳波さんが呆れたように手を招いている。
「おいで。……”つむ”」
「……はい」
言われるがままに、そして……安心して、彼のベッドの側面に腰掛けた。彼は包帯を巻いた右腕と、そうでない左腕をなんとかぎこちなく動かして、そっと私に抱きついた。首元に顔を埋め、安心したように全体重をかける彼をそっと抱き返しながら、ぼんやりと瞼が重たくなっていくのを感じる。
「……悪霊対策に呼び名を変えてみていましたけれど、悪くないですね、つむ」
「……そうかも……」
「みな、と呼んでくださってもいいですよ。狗丸さんのように」
「あれは……狗丸さんの専売特許感が……」
「ふふ」
くすくすと笑うこの声は本物の巳波さんだろうか、疑いたくなるような気持ちで見ていると、そんな私の気持ちに気がついているのだろうか、ちょいちょいとまた手招きをする。……顔を近づけると、そのまま唇が重なった。
「……生きてる……」
重ねて、離れて、また重ねて。結んで開いて、手を打って結んで……そんなリズムでキスを続けた後、巳波さんはそれだけを呟いた。少しだけ、震えた声で。
――巳波さんだって、怖かったに決まっているのだ。
「私たち、生き残れましたね」
「……巳波さんが、いたから……」
「逢坂さんと御堂さんのご家庭が本職ではなければ、私たちはとうに連れていかれていますよ。逢坂さんには今度激辛ラーメンのお店でも紹介しておこうかな……それくらいじゃ相殺できないかもしれませんが」
「……御堂さんへのお礼……そんじょそこらの物じゃ足りなさそうですよね……」
「いえ?意外とあの人は庶民的なもので釣れますよ」
「そんな気持ちでお礼をするべきことではないと思うんですが……」
「ふふ、いいじゃないですか。お互いに身内でしょう」
「まあ……びっくりは、しましたけどね。ただのお金持ちのご家庭だと思い込んでましたから」
「”そういった”ご家庭もいまは表立って看板を出していることが減りましたからね。ただ、推測するに……家名が発展した歴史には、確かに払い屋や陰陽師の側面があったのでしょう。古くから日本では、そういった立場は重宝されてきていますから」
「……ごめんなさい」
ぽつり、と呟いた私の頭を、ぎこちなく動く巳波さんの手が撫でた。ごめんなさい、ごめんなさい、止まらなくなった言葉をつぶやく度に、柔らかく大きな手が、そっと頭を撫でる。
「……私が変な仕事を受けようとしたから……」
「……そうですよ。反省なさって。私ではなく、知識のない方を巻き込んでいたら、本当に貴方と誰かは……連れて……。……いえ。私に話してくださって、よかった。私の知らないところで……得体の知れないものの餌食になって消えてしまうなんてことにならなくて……よかった」
「巳波さん……」
ぎゅ、と私を抱きしめる腕に力が入る。私もそっと、抱きしめ返す。
「私を巻き込んでくれて、よかった」
「……巳波さん」
「……でも、まだふわふわとした心地なんです、私」
「大丈夫、ですか?」
「……ねえ」
ここにいるって、生きているって、実感させて。
そっと耳元で囁かれた言葉。私を惑わす、しかし本物の彼の声。優しく食まれた耳たぶと、慌てる間もなく重なる唇と、絡まっていく指と指。
そこには確かに、あたたかさがある。
――生きている、私たち。
「……み、巳波さん、ところでここは……病室、なんですけれど」
「……もうすこしだけ。なんたって、生と死の境を経験してきたんですから……生を満喫したいでしょう」
もうすこし、貴方がほしい。そう言って私に触れる手が愛しい。私もそっと体重を預けて、また唇を重ねて、そっと彼の体に触れて。
――生きている。
「退院したら、真っ先に貴方を抱かせてくださいよ」
「……それは、幽霊には囁かれなかった言葉です」
「ふふ。囁かれていたとしても、幽霊には抱かせません。貴方に触れていいのは、私だけ」
「……はい、みな、さん」
「……ふふ。つむ」
コンコン、とわざとらしいノックが聞こえるまで、私たちは何も気づかずにそうやって触れ合っていた。いや。気づいてなかったのは私だけか。
「……入ってくるの遅いから、思わず紡さんといちゃついてしまいましたよ」
赤面する壮五さんと呆れた顔の御堂さんにそう言って笑う巳波さんの腕の中で、私は恥ずかしさで二人の顔をろくに見られないまま、今回の後始末について聞かされることとなったのだった。
畳む
設定ネタ
「悪霊は常に名前を欲しがっています。なぜなら、彼らは何にもなれないから。……なのでいま、ここには無数の”ミナミさん”がいるのですよ」
ミドー家、オーサカ家が払い屋の家系で、それに伴って……とかいう
「オーサカ家の札には敵いませんが、貴方がもっている札はもう真っ黒。使い物にならない…これはミドー家の札です。持たされていたので…あなたはこれを使って」
「で、でも!狙われているのは」「貴方もですよ。これから貴方に悪霊たちは私の名前と声で囁く。ですが、耳を貸してはなりません」
「私が貴方を呼ぶ時は……」
悪霊の類がたくさんいる場所での仕事の下見へ行った紡は無数の悪霊に囲まれながら思わず助けに行った巳波を「巳波さん!」と呼んでしまう
そこから悪霊たちが”ミナミサン”となり、襲い掛かっていく……という話畳む
1年以上前(土 12:34:00)
SS,二次語り
―月―日
今日はアイドリッシュセブンの晴れ舞台!ライブの日の彼らは何度観ても、どこから見ても、むしろ見る度にどんどんすごくなる!私の自慢のアイドル。私の自慢の虹!
うーん、もっと演出勉強して、今日よりもみんなを輝かせたいな。
そういえば今日は皆さんを招待してたんだ。彼にも……今日の感想、聞いてみようかな。
―月―日
最近、ちょっと忙しい。空き時間に勉強してるからかも。スキマ時間以外はずっと仕事。
あ、そういえば……連絡、返したっけ?返してないかも……今からラビチャ返そう。怒ってない……よね?
―月―日
しばらく日記書くのも忘れてた。
疲れたなあ。
会いたいな。
―月―日
今日、久々に彼に会った!お仕事だったのに、帰りに家に寄ってくれた。
夕ご飯を一緒に食べた。今日の煮物はお口にあったみたい。彼の好物はメモしてるから、追加しておこうかな。
―月―日
あー。生理近づくと、こう……アレだね、アレ……むらっとするというか……。
日記だとなんでも書いちゃうな。
最近、彼とそういうことないな。私も彼も忙しくてそもそも会えてないしね。
一日中ずっとそういうことする日とか、欲しい……なんて、彼には内緒ね。
―月―日
体調が悪い。
経血が多い。
女ってめんどくさいなぁ……。
今日のお仕事は万理さんに代わってもらった。申し訳ないよお……。
―月―日
生理痛で寝込んでて、ふと起きたら彼がベッドにいた。びっくりした。痛み止めとお腹をあっためるものを持ってきてくれてた。
日記だから書いちゃうけど、見た目があんなにすごいかっこいいのにこんな風に気遣いも出来ちゃったり、ほんとに……私にはもったいないくらいの……でも自慢の彼!
気を使ってささっと帰ってくれた。でも……キスくらい、して欲しかったな、なーんて……。
―月―日
彼と喧嘩した。もちろん、私たちの関係性は……うん。日記にも書けない、けど。
確かに覚悟はしてた。でも、たまーに……。
街中で腕を組んでるカップルとかが、他の人の目も気にせずに「あれほし〜買ってよ〜」とか言ってるのとか……高校生カップルが手繋いで渋谷歩いてたり……カフェでデートしてる人達とか……。
あ、プレゼントが欲しいってことじゃない!違う、そうじゃなくって。
……仲直り、するべきだよね。
私が悪かったんだ。
―月―日
もう、私たち、ダメなのかなー……
……こんな仕事じゃ、恋愛なんかろくにできないか。
いや、でもまあ、彼がそもそも普通の人でもないから……。
……日記ですら色々と書けないのが、少し心苦しい。
―月―日
びっくりした。今日、家に帰ってきたらいつの間にか鞄にラッピングされたものが入ってて、慌てて開けたら手紙がついてた。彼からだった。
この前は私も言いすぎました。これからも私と一緒にいてくれませんか、だって。苦労はかけるかもしれませんが、貴方と一緒にいたい気持ちは同じなんです、信じられないかもしれないけれど……だって。
信じられないわけない!私だって、アイドルのマネージャーやってるから、アイドルの彼らをずっと見てるから。彼のやりたいこととか、夢とか、そういうもの、理解できないわけじゃないから。ただ、ちょっと……寂しくなっちゃった、だけだったから……。
あーあ。彼はこんなにも考えて考えて、向こうから行動も起こしてくれたのに、私といえば子供っぽいわがままばっかで困らせて……。
……プレゼント、嬉しいな。……ストールだ。……お仕事でしれっと、使っちゃっても……いいよね?
あー。誰かに自慢、したいよう……彼から貰った、って言いたいよう……。
お返し、何がいいかな。
―月―日
あの喧嘩のあとから、私に気を使ってくれてるんだと思うけど、空いてる時間に通話のお誘いが来るようになった。会うのは難しいけど、喋るのなら時間が作りやすいからって、そうやって考えてくれていたことが嬉しい。
ほんとは会いたい!もう、いまも会いたくて……ぎゅって……してほしい。……また長いこと会えてない。彼の匂いを忘れてしまいそうで、怖い。力いっぱい抱きしめてくれる時、力強くて痛いくらいなのも、忘れたくない……。
でも、声が聞けるだけでも……とっても嬉しい。さっきもちょっとだけ喋った。えへへ、いま、しあわせ。
―月―日
誕生日のお祝いをさせてくださいって言われた。覚えててくれたんだ……せっかく会っていたのに嬉しすぎて、私変な顔してなかったかな?
お店どこがいいですかって言われて、思いつくお店あげてみたけど少しだけ困った顔をされただけだった。まあ、そりゃ、やっぱ私たちじゃ、こう……年相応のカップルが行くようなミーハーなとこはダメだよね……。むしろ彼が広告になってるくらいだもんね……(これって、ギリセーフかな……日記にどこまで書いていいかいつも悩むなあ)
サプライズじゃなくてすみません、って言われたけど、むしろ楽しみができて仕事に張合いが出たって言ったら笑われちゃった。貴方は仕事ばっかり、だって。
よーし!楽しみもできたし、二週間休み無しフル活動だけど、アイドリッシュセブンのために頑張るぞ!
―月―日
体調が悪い。
疲れが溜まってるのかな。
気付いたら寝てて、彼からのラビチャ、不在ばっかり……ごめんなさい……。
―月―日
あと三日で休み。
あと三日で休み。
―月―日
ーーーー(ぐちゃぐちゃとした線がまばらに描かれているが、意図も文字も読めない)
―月―日
……もう、生きていたくない……。
みんなに、申し訳が立たない……。
週刊誌の表紙やインターネットを見るのが、怖い。
―月―日
部屋でぼーっとしてたら、いつの間にか彼がいた。お父さんが案内してきてくれたんだって言ってた。顔が合わせられなかったのに、涙止まんなくて、私が泣き止むまで抱きしめててくれた。
貴方のせいじゃありませんからねって何回も言われたけど、言われるたびに苦しくなった。
一番恐れていたことになった。
私は彼の人生を壊した……もう、何しても償いきれないよ……。
―月―日
彼、今日も来た。会いたくない、って言ってドア越しに追い返しちゃった。なんか……悲しそうだった気がする……ごめんなさい……。
会いたいよ。ぎゅってしてほしいよ。不安だよ。でも……。
……お別れ、しないと。そんでもって、広まってるスキャンダルは事実無根ってことでなんとかしないと……。
……私たち、付き合っていたことすら嘘にしなきゃいけないんだ。
彼と付き合うまでは、当然だって思ってた。有名人の熱愛発覚って、結構ショックだったし。でも、いまは……。
彼も、私も、ただひとりの人間としてお互いを好きになっただけなのに、どうしてこんなに知らない人達にやんや言われないといけないんだろう。
彼の精神が心配。でも私に出来るのは、謹慎くらい……。
―月―日
一ヶ月も引きこもってたから、現場復帰初日の今日、ガチガチに緊張しちゃった。
あっちこっちでひそひそ言われてるの聞こえてた。また彼に迷惑かけちゃったな。アイドリッシュセブンのみんなもなんかこう、腫れ物触るみたいだったし……申し訳ない……。
ずっとラビチャも無視してたから、今日彼のユニットメンバーづてに伝言を預かった。結局私の誕生日を祝えなかったから、祝わせて欲しい、いつなら空いているか、だって。こんな形で皆さんにバレるの、最悪だったな……。
……最後に。本当に最後に、会いたいって思っちゃってる自分がいる。これって……甘えても、いいのかな……。
お別れのプレゼント、用意しておこう。
―月―日
明日、彼との食事の日。
楽しみなのに、これが最後だと思うと苦しいな。変な汗ばっか出るし。色々思い出して、きついな〜……。
別れましょうって、ちゃんと言えるかな。練習していこう。
泣かないようにしなくちゃね。
―月―日
別れを切り出したら、なんか、結婚する話になってた。
……?
今日は、寝よう……久しぶりに彼と抱き合ったりしたし、頭が働いてないのかも……。今日の彼、なんか……優しかったな……。
―月―日
だんだん落ち着いてきたら冷静になってきた……けど、え!?ってなった。私、プロポーズされたってこと……?
彼に本気だったのか改めて通話で聞いてしまった。何馬鹿なこと言ってるんですかって一蹴されちゃったけど。
でも確かに、彼が言うように、結婚報道を間近に控えていました、バレちゃいましたけど、っていうのは鎮火にはいいのかも……?
……。
私、なんかうまく言いくるめられてたり、する?
―月―日
あれ、なんか……一緒に住む家の話とか決まってる……。
―月―日
引越しの日取りが決まってた。
彼が家に来て、判子あります?って聞かれたからここにありますよ〜って言ってたら、なんか婚姻届完成してた……んだよね。
明日出しに行きましょうね、って言われた。珍しく二人ともオフなので、そのままちょっとデートしましょう、だって。
うーん……?
―月―日
名字が変わった。
棗紡。
二文字になったなぁ、って思った。
デートでいっぱい手繋いでくれて、エスコートしてくれて、嬉しかったな。
もう隠す必要ないですからね、少しくらいなら見せつけてやっていいんですよ、って言われて。嬉しかったなぁ。
これからはもう少し、二人でお外に行けたりするんだろうか。
―月―日
結婚報道の日だった。ずっと怖くてヒヤヒヤしてたけど、ナギさんが彼なら大丈夫ですよって、一緒に会見を見守ってくれた。
ネットでは賛否両論。でも結婚間近で用意してて、実際にもう結婚してます、っていうのがなんか、よかったらしい?
本当のファンならそのうち戻ってきますよ、って彼は笑ってた。芸能人ってやっぱりタフだなって思った。
―月―日
一緒に暮らし始めた。彼……ってもう書かなくていいのか、付き合ってるっていうか結婚してるの報道されたから……巳波さんはびっくりするほど物が少ない!だから私の物で部屋がいっぱいになっちゃったけど、そのままでいいですよって言われた。
結婚式してないから結婚の実感はなかったけど、巳波さんに一日「お嫁さん」だの「妻」だの「奥さん」だの呼ばれてるうちに、なんか……ああ、結婚したんだなぁって思った。
でもいつか……ウエディングドレス、着たいなぁ。
―月―日
家族親戚とお世話になっている関係者の方々をお招きして結婚式をした。
巳波さんは本当に綺麗で……惚れ惚れしちゃった。ウエディング雑誌の表紙の撮影みたいだなって思ってたのに、私に誓いの言葉言うし、私にキスするし、現実なんだなぁって思った。
お父さん、めちゃくちゃ泣いてて面白かったな。皆さんが用意してくれたプレゼントや余興もすごく嬉しかった。
今日、一生忘れられない日になりそう。
―月―日
幸せだなあ。
―月―日
ここを区切りに、日記の存在を忘れてしまったのか、書く必要がなくなったのかは知らないが、途切れている。たまたま見つけてしまっただけなのだが……読んでしまった。
また紡さんが日記を書こうとした時にびっくりさせてみたいので、ここには今日の私の日記を書いておく。彼女、どんな顔を見せてくれるだろうか。
ねえ、紡さん。私も今、幸せですよ。
一生離さない。
次に私か貴方のどちらかがこの日記を思い出し、中を開く時にも、私たちは一緒に幸せでいましょうね。
畳む 1年以上前(金 00:48:50) SS
彼女が退職する、と聞いた時には耳を疑ったものだが、アイドリッシュセブンがデビューし、売れ始めてから。さらに言うのなら、私たちズールがアイドルを始めてから。もう、長い時間が流れたのだと思い直せば、別に彼女が別の道を選ぶことや、第一線から退くことについては、なんらおかしいことではないのだと思い直した。
私たちも全員よくお世話になったから、亥清さんや狗丸さんが率先しつつ、四人で彼女への餞別を用意することにした。よく一緒に仕事をした他の十二人も同じことを考えていたようで、十六人としても、各ユニットとしても、そして人によっては個人としても。二つから三つのプレゼントをこっそり用意するアイドルたちは、多忙に流されながらもそれを見守り、サポートし、応援してくれる彼女への想いを各々再確認しているように見えた。
そこに、恋情を抱えたままの人間は見当たらなかった。ここ数年で、一時期は少しだけ噂になった八乙女さんも、距離が近いからと少し疑われたことがある和泉さんや七瀬さんも、現在は別に彼女に対して恋愛感情を持っていなかった。
割り切れていないまま、ずっとずっとそれをひた隠しにしてきていたのは、私だけだった。
私は、ある時から彼女への恋情を自覚し……しかし、彼女と私の立場、彼女のスタンス、私の活動についての事情、アイドルというもの、その他様々な事情から、この想いはそのまま消えていくまで誰にもわからないように押し込めておこうと思っていた。誰かに告げたところで変な噂が立つ。それは私にも、彼女にとってもマイナスなことだ。面倒見がよく、可愛らしく、頼りにされがちな彼女はよく芸能人から声をかけられていたけれど、その全てをきっぱりとひとつ同じ理由で断っていたのを見て……私もまた、絶対に言うまいと心に秘めたまま過ごしてきていた。
タレントのマネージャーをしている以上、タレントとは付き合わない。それが彼女の決意のようだった。
それならば、と私は、自室で雑誌を捲りながら――大人の女性に人気のファッションブランドを見て、彼女に何が似合うか思いうかべながら――ぼんやり思う。
マネージャーではなくなる彼女は、タレントとの恋愛関係をどう思うのだろうか、と。
彼女の退職が近づいてくると、現場によっては彼女の送別会が行われたり、プレゼントが渡されたり、彼女はそんな待遇に「自分がタレントではないのに」と困ったようにしていたが、それだけ色んな人に慕われる存在だったのだと皆が言った。彼女はそれを聞いて、心から嬉しそうにするのだった。
私と彼女も終わりがけの現場で一緒になることがあった。彼女は相変わらず私に屈託のない笑顔で接する。これまで色んな男性が勘違いさせられ、または惑わされてきたこの笑顔が、私もまた、好きだった。休憩時間に少し手持ち無沙汰にしていた彼女に私は声をかけて、ケータリングのパンを手渡して、隣で食べた。
「小鳥遊さん、その。どうして、このお仕事を辞められるんですか」
これだけ噂になっていて、いつもの現場で彼女の退職を知らない人はいないくらいだったのに、不思議なくらい、その理由は聞いていなかった。彼女はパンを口いっぱいに頬張っており、それをなんとか飲み込んでから、笑って言った。
「現状に不満があって辞めるわけじゃないんです。このお仕事はとても好きですし。ですが……私、高校卒業してすぐずっとこのお仕事やってきて。うーん、言葉にすると難しいな。何でしょう、少し……自分を見つめ直したい……とか?」
「業界に戻ってくる予定はあるんですか?演出家のお仕事も」
「そうですね……演出も、しばらくはお休みする予定なんです。ただ、アイドリッシュセブンのみなさんについてはやらせて頂くこともあるかと思います……えへへ、みなさんが……そう希望してくださって……」
「……彼らは貴方のお仕事が好きなんですよ。……私も」
「棗さんにそう言っていただけて恐縮です」
そう言いながら笑う彼女は、結局綺麗な言葉で言語化できない気持ちを持て余していたようで、聞いてみればそれが数年間続き、一区切りとして一度業界を離れることを提案されたという。転職先はもう決まっていて、業界とは少し遠いところにある業種の事務をやるのだと言っていた。
「……結婚でもするのかと思っていました」
「け、結婚!?」
「だって貴方、タレントさんに好かれやすいのに全てお断りしていたんでしょう。仕事と恋愛をはかりにかけた結果だったのかな、なんて思っていました」
そう言って私は笑った。しかし心中は穏やかではなかった。聞きたかったけれど、聞けなかったこと。誰かと結婚するから、理由をつけて業界を離れることにしたのではないか。本当は誰か相手がいたのでは無いか。逆に、一般男性とだって、十二分に。
けれど。
「まさか!恋人だっていませんよ、もうずっと……業界に入ってから。恋愛なんかしてる暇、ありませんでしたからね」
「……そうですか」
私はそう返しながら、安堵と落胆に同時に襲われた。
彼女に今、意中の相手はいない。これは私にとってはチャンスだろう。しかし。
意中の相手がいたら、すっぱり諦めてしまえたのに。
休憩時間が終わる。彼女は私に軽く頭を下げてから去っていく。私はパンの残りを無理やり口に押し込んで、ミルクティーで飲み干した。ろくに噛まず胃に押し込んだ。硬いまま飲み込めば、想いも一緒に流して消化できるのではないかと思ったが、結局魚の小骨のように喉元から消えることはなかった。
彼女の送別会を、十六人のアイドルとそのマネージャーや関係者で行った。いよいよ退職間際のことだった。
人気アイドルが十六人、個人のために一堂に会するのは圧巻の出来事だっただろう。私たちはスケジュールの網の目を縫って計画し、実行した。実際に遅刻してくる者も、途中で抜けていく者もいたが、十六人と彼女、それから各々のマネージャーたちで集合写真を撮ることが出来た。面倒見のいい百さんが全員分用意して、データと一緒にアナログ写真をくれた。現代において、アナログ印刷された写真はなんだか特別な意味を持つような気がしていたが、それは彼女も同じようで……貰ってからずっと、彼女はその写真を大切そうに眺めていた。同じように、彼女へ宛てた大量のプレゼントは、机の上にまとめてある。私もそっと、そこに自分のプレゼントを置いた。
私たちはとっくにもう全員成人している。彼女はあまりお酒に強くない。ここでは無理に飲みを強要する者はいないが、浮かれた彼女は自分でそれなりの量を飲んだようだった。すっかり彼女とのお別れを終えた各々が歓談し始める中、彼女は少しふらつきながら窓の傍に体を預け、外を見ているようだった。ズールのメンバーも各々自由にし始めたところで、私はさりげなく彼女のもとへ水を持って行った。
どうぞ、と水を差し出すと、彼女はふにゃふにゃになった顔でありがとうございます、とへらへら笑った。しかし手はなかなかグラスを掴めていない。私はそっと彼女の手を取り、その手にしっかりとグラスを持たせてから手を離した。ちびちびと水を飲みながら、彼女はありがとうございます、と笑った。
「嬉しくって、ちょっと飲みすぎちゃいましたぁ」
「だいぶだと思いますよ。そんなに酔ってるの、その、あまり見かけませんから」
「そうですか〜?よく飲まされてますよぉ」
「そうですけど……仕事の緊張感がないから酔ってしまったんじゃないですか。もうこれ以上はオススメしませんよ」
「……えへへ。棗さん、お父さんみたいだなぁ」
無邪気に、にぱ、と笑う彼女を見て、今日はもうダメみたいだな、と内心笑ってしまう。仕事の時に一瞬も気を抜いていない彼女だからこそ、こんな顔を見てしまったら……もちろん今日は私だけが見ている訳でもないのに……嗚呼。独占深い感情が渦巻くのをどうにか振り払い、私も彼女の傍で烏龍茶を飲んだ。
「何を見ているんですか」
彼女がずっと眺めているのは夜景だった。今夜は月が大きな日だったが、都心では星はほとんど見えない。時計の針が一番上を通り越しても眠らない街を、彼女はじっと見つめていた。
「……何も、見てないんです、いま。しいていうなら……全部が始まった日のこと、かな、思い出を見てる……」
「……どんな日だったか、聞いても、いいですか」
「……始まり……と、呼べるのは……どこでしょうね……ですが……みなさんが……いや……私が……」
彼女はいざ話すとなると迷い始め、そして呂律は回っていなかった。考え始めたら思考が回らないことに気がついたのか、しばらくして何も言葉が出ない、と言って私に笑った。私もまた、微笑み返す。
やがて彼女が潰れそうになっているのに気づいた百さんが場を閉める。今夜はマネージャーも全員飲んだ。各々事務所の運転係を呼んで、解散となった。
彼女の退職が来週になった。スケジュールを確認して、その日までにアイドリッシュセブンやメッゾと現場が重なる日は数える程しかなかった。現場に来るのが彼女とも限らない。もう、会えないかもしれないのか、と思うと非常に落ち着かず、どうしようもない気分になった。我ながら、愚かしいとすら思った。
残念と言うべきか、自分はこんなに彼女を想っていても、今以上に親しくなろうと努力をしたことがまるでなかった。時間の経過と会う回数が私たちをここまで親しくさせてくれたけれど、それ以上でもそれ以下でもない。何らかの理由をつけて二人で食事に行ったことすらなかった。だから……彼女から見て私は、良くも悪くも親しい方の仕事仲間でしかない。他の人のようにもっと休日に遊びに誘うような仲になっていたら、退職後も連絡をする理由があるのかもしれないけれど……私にはそれが全くないのだ。
そして、たとえ退職後の彼女に勇気を出して連絡をしても、彼女が無視をすることだって可能だし、彼女はプライベート用にラビチャのアカウントを変えるかもしれない。そうしたらもう、連絡を取る手段もない。
こんなに希薄な関係なのに、彼女を想い続けてしまっている自分を嘲笑いつつ、私は……送別会で置いてこなかった、否……置いてこれなかった小さなプレゼントを、鞄の中で手で回したり、転がしたりして、どうしたらいいのか考えあぐねていた。
彼女は私をどう思っているのだろう。ふと、そんなことを思う。もしかして、本当にもしかしたら、私のように実はずっと想いを秘めていて……いや。そんなろくでもない期待、するべきではない。息を吐いて、そっと鞄から手を出した。スマホをタップして、ラビチャの彼女とのトークを開いた。履歴は事務的な話ばかり。たまに私の仕事ぶりを褒めてくれたり、その逆もある。しかし、本当になんてことのない他愛ない会話は無いに等しかった。これが、私たちの関係の全てで、現実なのだ。他人から見た通り、私たちは悲しいほどに、何でもなかった。
彼女の退職日が近づいていく。自分でも無自覚に、その日にだけスケジュール帳に印を付けてしまっていた。終えた日にはバツを付けていく。会えなかった。今日も。また今日も。近づいていくその日が、何故だか恐ろしかった。そうして、最後に会える可能性を秘めたその日……私は二階堂さんと共演するドラマの番宣に出たバラエティ番組で、彼女と会った。
悲しいほどに、私たちはいつも通りだった。会って挨拶をして、収録をして、休憩中に談笑して、そうして収録が終わる。二階堂さんに次のスケジュールを告げている彼女を少し離れたところで見ながら、私も次のスケジュールに時間があまりないことを頭では考えながら……その場から動けずにいた。先に現場を出たのは二階堂さんで、彼女はひたすら現場で終わりの挨拶をして回る。……やがて彼女は私を見つけて、何故か立ちすくんでいる私にも挨拶をしに近づいてきた。
「棗さん、本日はお疲れ様でした。大和さんとの共演、よろしくお願いいたします」
それだけ、それだけだ。いつも通りで、彼女らしくて、その顔は次の仕事のことしか考えていない。私が恋した彼女そのまま。私も反射的によろしくお願いしますね、と口にしているようだった。なんだか幽体離脱でもしたかのように、自分が遠い。私はどうやら彼女とほんの少し世間話をしている。何を話しているのだろう。わからない……頭と、口と、心と、体が、すべてバラバラで、失敗したジェンガのように崩れていくような感覚に襲われて。
――やがて、棗さん、棗さん、と呼ばれながら体が揺れているのに気づいて、はっとした。彼女が私の腕を掴んで体を揺さぶっていたのだ。動き回っていた彼女の手は、スタジオにずっといた私の体温より冷たかった。
「大丈夫ですか?なんだか、ぼんやりされていて……もしかして、その、体調が……」
「……ああ、すみません、ええと。私……何か変なこと、言っていましたか?」
「え?いいえ……ただ、なんか、途中で電池が切れたみたいに動かなくなっちゃったから……心配で……あ!」
突然、すみません、と言って彼女は慌てて私の体から手を離した。勝手にお体に触ってしまいすみません、ともう一度彼女は慌てて頭を下げた。私は彼女が掴んでいたところをそっと手で撫でてから、お気になさらず、と呟くように言った。間、これではもう仕事に差し支える、どうせ終わるのなら終わらせてしまおう、私の側面の一つである極端な思考が勝って、挨拶をそこそこに踵を返そうとした彼女の肩を、今度は私が掴んだ。彼女は動きを止めて、こちらを見て目を丸くしている。
「……あの、小鳥遊さん」
「は、はい……」
私から彼女に、こんなに乱暴なアクションをしたことはなかった。私も相手に鼓動が聞こえていないだろうかと心配するほどであったが、彼女もなんだか身を硬くしながらその続きを待ってくれている。……しかし、実は何も続きなんて考えていなかった。苦し紛れに声をかけた。名前を呼んだ。時間が過ぎてしまう。もう会えないかもしれない。時間が無い、時間が……。
……いや。私は俳優だ。そう思い直すと、ほんの少し冷静になって……そう、これはきっと、恋愛ドラマの一場面で。私は想いが叶うことがない、"主人公"に振られてしまう噛ませ役で。ずっと想いを抱えていたが、彼女に会えるのは今日が最後だ。だから。いつもは大人しく、彼女を見守っているだけだった"彼"は……少し、大胆な行動を取るのだ。そうして、物語は最大の見せ場を得る。視聴者は次回、彼女がメインの"お相手"と別の男との関係にどのような表情を見せていくのか、展開が気になっていく。そうだ。
見せ場を作るのは、苦手では無い。
「……今夜、お時間ありませんか」
「……え」
「夕食、ご一緒にいかがですか。……私たち、二人で」
「……え……っと……」
「……嫌いなものはありますか?お店、予約しておきますから」
「あの、棗さ……」
「時間、あとでラビチャしてください。今日は私、夜のスケジュールは空いていますので、合わせられますから……それでは、すみません、次の現場へ向かわないと」
「あ、あの…………」
「ご連絡、待ってますからね」
そう言いながらも、彼女の返事は待たない。そう。"主人公"の返事を待たず、"彼"は去っていく。"彼"は至って冷静な雰囲気を保ってはいるが、内心非常に穏やかではなく、しかし"彼"は期待と歓びで高揚しながら、次の仕事へ向かう。"彼"の足取りは、今までずっと想いを秘め続けていたその時よりも、遥かに軽いのだ。
役名は、棗巳波。"主人公"に振られ、"主人公"と"お相手"の愛を深める為だけに用意された、哀れな傀儡だ。その"お相手"がいつどこで誰なのかは、私にも分からないが。
役名、棗巳波の本日の私は、その後の仕事を完璧にやりおおせた。はずだ。隙間時間には慌ててディナーのための店を探した。しかしながら、今日調べて今夜予約できるような洒落た店はあまり存在しない。かと言って、私の一世一代の……否。"彼"の一世一代の名場面が、大衆居酒屋なんてのはあまり相応しくないように思えて、懸命に探した。私があまりに真剣にしているからかもしれないが、途中までグループの皆は私に話しかけてこなかったが、不意に肩を叩かれた。
御堂さんだった。
「何を探してる」
「……えっと」
ふと後ろを見ると、三人並んで立っている。椅子に座って私が扱っているスマホの画面がちらちら見えたのだろう、検索ばかり行っているのがバレている。
「俺達も探すよ、何、大事なもの?」
「ほら、人づての方が早いかもしんねえしさ」
「……えと……」
急に親しい人間に話しかけられて、私はすっかり私に戻ってしまっている。おたおたとしていると、御堂さんがいつになく鋭い目で私を見つめていた。そういえば、さっき切り出したのも御堂さんだったか。
――嗚呼。何も言わないでいてくれているけれど、恐らく、彼に……何かが、バレているのだろう。
「……御堂さん、ちょっと……」
そっと手招きすると、亥清さんと狗丸さんは何やら微妙な顔をしていたけれど、御堂さんは素直にそっと私の顔に耳を寄せてくれた。
「……そうおっしゃるからには、良いお店でもご紹介してくださるんですよね」
「……なんで『お願いします、教えてください』とか言えないんだ?」
「……そ、その……いえ……それではお願いします、教えてください」
「なんで今度は素直にそんなこと言うんだ。なんか巳波らしくないぞ」
「……」
「はあ、からかってすまなかった。今夜でいいのか?いいムードのホテルを知ってる、そこでよければ」
「ホテル……ホテルに……来てくれますかね……」
「ディナーを食べに行くだけだ、で押し切って、いい感じだったらそのまま部屋を取ればいいじゃないか」
「馬鹿ですか!?今日初めてアプローチするんですよ……」
あ、言ってしまった、と思いつつ、我々はまたひそひそと続ける。
「わかった。じゃあ少しハードルを下げて……知り合いが隠れ家的にやってるレストランがあるんだ。そこを貸し切るのはどうだ、ホテルよりは誘いやすいか?」
「どんなお店です?」
「連れていって喜ばなかった女はいない」
「……」
「嫌ならやめておくが」
「……いえ、お願いします」
御堂さんの価値観で店を選んで良いのか逡巡はしたものの、藁にもすがる思いで頭を下げた。御堂さんはすぐにどこかに電話をかけながら楽屋を出ていく。連絡を取ってくれているのだろう。
「……虎於に話して解決したっぽい?」
「えっと……ひとまずは……恐らく……」
「よかったじゃん!……それで、その……ミナ」
「巳波……」
「……はい?」
いきなり名前を呼ばれ、ぽかんとしてしまった私に、二人は拳を握る。
「なんか知らないけど、頑張れ!」
「なんかわかんねーけど、うまくいくように願ってる!」
「え……」
「巳波、その……勝負前みたいな顔してたからさ……」
「なんか今日?大事なことがあんだろ?」
「……私、そんな顔、してたんですね……」
頑張れ、と繰り返す二人と、楽屋に戻ってきて私に手で丸を作った御堂さんに頷いて、微笑んだ。もって三年だと言われていた私たちは、もうそれを遥かに超えるほど共にいる。長く共にいるとうんざりすることがないわけでもないけれど……大切な居場所だと、思い続けられている。
「当たって砕けてきたら、皆さんにお話しますから、笑って頂けますか」
「何砕ける前提なんだよ」
「ふふ、そういうシナリオなんですよ」
「誰の……?」
「……私の」
ありがとうございます、と声をかけてから、私は彼女に詳しい店の位置を送った。返事を待つ時間もなく、私たちは仕事をこなす。休憩時間に返事を確認する。まだない。未読。仕事。繰り返す。連絡はない。ない。ない。ない。ない。
繰り返し。そうして、いつしか日は暮れていた。
家まで送らないでいいんですか、とマネージャーは首を傾げていて、私は笑顔で用事があるので、と頷いた。お気をつけて、と言い合って私は一人で街へ出て、しばらく歩いていた。たまに人の視線を感じたが、無視して人混みへ溶け込む。今日はオフの時間にファンに声をかけられているロスタイムは持ち合わせていない。
御堂さんが送ってくれた店の場所を確かめた。一見では到底入りづらい狭く、暗く、しかし汚いというわけではないバランスの扉と地下へ通ずる階段。扉には「本日貸切」と貼られていた。確かに間違って誰かが入ってくることもなさそうで、私にとっては都合が良い店構えだった。
何せ、人気タレントが一人の女性と密会しようというものなのだから。
予約時間は彼女の都合を考えて少し遅めに伝えておいたので余裕はあったが、まだ彼女から返事は来ていなかった。しかし、既読にはなっている。私は返事が来るか来ないか、花占いのように頭の中で繰り返した。占いは趣味にしているが、だからこそ占いで何かを変えることは出来ないということを痛いほど知っている。いっそ魔法使いであったらよかったのにな、と現実逃避をする。杖を一振、彼女から返事が。いや、彼女の心を我が物に?……逡巡、私が求めているものはそんなものではないのだと思考を振り払う。
予約時間の一時間前を切って、ぼんやりと、このまま返事が来なければズールの皆を誘って四人で貸し切るか、と思い始めていた。店を貸し切った以上、キャンセルなどはしたくない。その時は私が皆に奢るつもりでいよう……というよりも、私はそれを現実的に考え始め、ついにグループチャットに「皆さん夕飯でもご一緒にどうですか」と打とうとしていた、その時だった。
スマホが僅かに震えた。画面上部に現れた通知は、彼女からのラビチャのものだった。すぐに既読になってしまったら怖がらせてしまう、なんて考えられないくらい、私は急いでそれを開いた。
彼女とのトークルームに、新しいメッセージがぽつりとひとつ。
『ただいま仕事が終わりました。棗さん、まだ待ってくださっていますか』
勿論です、お待ちしています、と返した。きっと、気色悪いくらい、一瞬で。
待ち合わせは現地にした。並んで歩いているところを誰かに見られるのは都合が悪い。私は中で待っています、と伝えた。少し入りづらい店構えであることも、写真を添えて伝えた。いつになく饒舌なメッセージを送ってしまい、私は先に店内に入って待っていたが、一番広いテーブルに案内されてから、しばらく恥ずかしくなって、顔を手で覆っていた。
店内は落ち着いた、しかし大人な雰囲気をもったレストランだった。暗めの照明の中に、さりげなく紫や青のライティングが施されていて、雰囲気としてはバーに近い。メニューに目を通したが、当初考えていたようなホテルのディナーに劣らないラインナップとクオリティ。それでいて価格は少し財布に優しい。流石御堂さんだな、と彼の育ちの良さと目利きに改めて感心した。同時に、頑張れ、と応援してくれた亥清さんと狗丸さんのことを想って、組んでは緩めてを繰り返していた両手をぎゅっと握った。
演じろ、演じるのだ、早鐘を打つ鼓動を鎮めるために、私は目を閉じて考えた。私の脳内のこのドラマにおける、棗巳波という役柄のことを考え、役に入り込もうと必死になりながら、彼女を待った。それでも落ち着かず、彼女を待つ間に二回ほど水を貰い、店員にはさぞ喉が乾く客だと思われただろう。
入口の扉が軋む音と、外の空気が流れ込んでくる気配で、彼女の来店に気づいた。彼女は仕事終わりの格好そのままであった。私に気づいて、落ち着かないように店内をきょろきょろと見回して、ゆっくりこちらへ近づいてくる。私は席を立ち、軽く手招きした。彼女も席へ来て、荷物を下ろす。お疲れ様です、とお互い声をかけながら、私はなんだかいつもより大人っぽい気がする彼女を隅まで盗み見た。やがて、その正体はいつもと違うメイクなのだと気づいた。髪の毛も軽く編み込んである。……私との待ち合わせに、ほんの少し手をかけてくれたという事実に、心が浮き足立つのを止められなかったが、顔に出ていなかっただろうか。
「な、なんだか素敵なお店……ですね?よく来るんですか」
「うふふ……いえ……初めてです」
慣れています、と言ってしまえばよかったのだけれど、私は正直に答えた。
「御堂さんのご紹介で。いい雰囲気ですよね」
「え、それって結構お高いんじゃ……」
「それがそうでもないですよ。遠慮なく楽しんで下さいね」
「え、いや」
「ここは奢ります。円満退社のお祝いに」
「あ……ああ!そ、そうですよね……!そう、ですよね。ですよね!?ですよね……」
何か慌てたようにひたすら呟いていた彼女のもとへ、店員が水を持ってきて、彼女はそれをそのまま飲み干した。喉が渇いていたらしい。私ももう一度飲み干して、二つ空のグラスが並んだ。私は彼女が来る前に穴が空くほど見つめたメニューをテーブルに広げ、彼女の側へ見せた。遠慮がちに顔を輝かせる彼女を微笑ましく見つめながら、目をつけていたコースを提案する。彼女も笑顔で頷いた。待たせていた店員に、ようやく注文をしてから、私たちは……どちらからともなく、黙ってしまった。
何か話さなければ、と思いつつ、何から話せばいいのやらわからない。役に入ればどうにかなると思っていたのに、今の自分を他人のように思うことは不可能だった。目の前には好きな人がいる。今日を過ぎればもう二度と想いを告げられないかもしれない。数万人の前でステージに立つよりも、たった一人の彼女と二人きりでいることのほうが、ずっと緊張していた。彼女も彼女で、手を組んだり開いたり、何度も見ている店の内装を見てみたり、落ち着かない様子だ。やがて……意を決して、私が沈黙を崩した。
「今日は突然のお誘いに来てくださってありがとうございました」
「ああ、いえ……こちらこそ、すみません、お誘いいただいて……その……送別会なら、この前十分すぎるくらい開いて頂いたのに」
「ふふ、楽しかったですよね」
「ズールの皆さんにも、棗さんにも、プレゼント頂いてしまって……ストール、使わせていただいています、落ち着いた色合いで……とても好きです。ありがとうございます」
「喜んでもらえたのなら何よりです、一生懸命選んだので」
「……今日も、持ってきてるんですよ」
彼女はそう言って微笑んで、鞄からベージュとブラウンのストライプのストールを覗かせた。私個人から彼女に宛てたプレゼントだった。
「……思った通り、よくお似合いです」
微笑むと、彼女はまた鞄をしまった。そうこうしているうちに、テーブルに飲み物が置かれる。私と彼女のグラスにはお揃いで、スパークリングワインが注がれている。
「……先に、乾杯しましょうか。貴方の新しい門出に」
「……ありがとうございます」
乾杯、彼女は私のグラスの飲み口よりも低い所へグラスを当てた。そのまま二人で一口飲む。
すっきりとした味わいの、しかしほんのり甘い刺激が喉元を通るのが熱い。ほんの少し、脳の片隅が痺れ始めるのを感じていた。
料理はどれも本当に素晴らしかった。黙りがちだった私たちは、料理が美味しいという話からようやく花が咲いたように喋り始め、酔いも回り始めたのか、彼女も私も、喋ったことがないくらい話題が尽きなくなった。大勢で話す時とはまた少し違って、彼女は私にたくさん初めての顔を見せてくれた。私は話を聴きながら、ころころと変わる彼女の表情に見惚れていた。店の雰囲気もあるのだろうか、元気いっぱいで無邪気なだけではない彼女に、ひどく女性としての色香を感じ、すっかり痺れてしまった脳のどこかが喉を鳴らす。
やがてデザートを食べ終え、私たちは数杯目の酒を仰いで、彼女は見た目からしっかり酔っているようだった。私も私で、思考がまとまらなくなって来ている事には気づいていたが、もう一杯失礼します、と言って頼んだ。もう少しだけ、自分をどうにかしておきたかったのだ。彼女は律儀なもので、そう言うと自分も、ともう一杯頼んでしまった。酔ってしまった私たちは、けらけらと笑いながら、それじゃあもう一回、とグラスを重ねた。ガラスとガラスが当たる音が心地良い。
「……寂しいです」
私がグラスに口を付けていた時、ぽつりと彼女はつぶやくように言った。両手でグラスを包むようにして持ち、その中の氷を見つめているようだった。
「寂しい……?」
「もう、私、退職なんだなぁって」
「……そう、ですね。貴方がお選びになったのだとお聞きしましたが」
「そうは言っても……こうやって……みなさんや……棗さんとかと……お話することも、なくなるでしょう」
彼女が零した言葉で、私は急に冷水を浴びせられた心地になり、頭が冷めていくのを感じた。彼女は視線をグラスから移さないまま、ぽつりぽつりと続けていく。
「私、これでよかったかなぁ、なんて……最近ずっと思ってるんです。でも、まあ、良かったんですよね、たぶん……新しいこと経験して、若いうちにほら……戻ってきたかったら戻ってきていいからってお父さんも言ってくれたし……でも……うーん……」
「……貴方はご自分で思ってるより好かれているのだから、退職後も知り合いのタレントにコンタクト取ってお会いすることは出来ますよ、心配なさらなくても……アイドリッシュセブンも……貴方にお世話になった私たちも……誘われて断ったりはしませんよ」
「いいえ……一般人になるんです。一度皆さんの連絡先は消さなくちゃ。一応、事務所との約束なんです」
「……そうでしたか」
やはりな、と思った。彼女の連絡先は変わる。彼女から私たちへのみならず、私たちから彼女へコンタクトする手段も失われる……。
「……ああ、寂しいなぁ。今日だって……誘っていただけて……嬉しかったですよ……び、びっくりしちゃったけど……こうやって門出をお祝いしていただいて……」
「びっくり……しました?」
「だ、だって。棗さんとお二人で……食事……って言われて……その……あはは。いえ、なんでも」
何かを言おうとして、慌てたように笑った彼女は、髪の毛の先を人差し指でくるくると弄びながら、落ち着かない様子だった。そんな彼女を、肘を着いて眺めながら……私はなんだか酷く愛しく思えて……。
もう一杯なにか飲もうかな、なんて言いながら笑った彼女の頬に、そっと手を添えた。触れた瞬間、彼女の体が跳ねた。目を丸くして、そんな私の手を、そして私の目を見つめた。私は構わず、その頬をそっと手の甲で……やがて、手のひらで、指で、なぞった。始めは何かを言おうとしていたように見えた彼女も、結局何も言わず、ただ黙って私に触れられたままでいた。
「……明日、早いですか」
「……どうして、そんなこと、聞くん、ですか」
「さて、どうしてでしょう」
どうですか?と再度聞くも、彼女は少し俯いて……顔を赤くしたまま……私はそのまま手をずらして、親指で彼女の唇をなぞった。今度こそ彼女は体中で驚いて、私の手を振り払った。その頬が紅潮しているのは、酒のせいだけでは無いのだろう。
「……帰らなくちゃ」
彼女はそう言いながら、私が触れたところを自分の指でなぞっていた。
「質問にはお答えいただいていないですけれど」
「うーんと……別に……早くない、です。引き継ぎは終わったから、退職までは定時から定時まで……今日はすこし残業しましたけど……」
「……そうですか」
「は、はい。以上です。……え、えっと、本日はご馳走様で……」
慌てたようにそう口走り、彼女は帰り支度をしようとしている。けれど、私も勢いよく鞄を持とうとしたその腕を掴んだ。彼女は困ったような目で私を見る。恨めしいような、しかし何かを期待しているような、そんな自分を嫌悪しているような、目。私の痺れた脳の奥を刺激するには十分すぎる彼女からの熱。
「小鳥遊さん」
「は、はい……」
「……もう少し、一緒にいたいです」
「……えっと」
「もう少しだけ……ダメですか」
「ん、と……」
彼女は迷っている。酔っていつもより判断の鈍っている彼女は隙が多い。手を伸ばして、彼女の髪を梳いた。そのままそっと頭を撫でる。ずっと、ずっと触れたかった、夢にまで見た彼女に触れた。彼女はそこからもう動けないまま……小さく萎縮しながら、どこに目をやっていいのか迷っているようだったが、私の手を押しのけはしなかった。
「……飲み直しにでも行きましょうか。個室があるところを知っているので……」
「……ええと……」
「私が持ちますよ、貴方は何も心配しないで」
「そうでは、なく……」
私は彼女の答えを待たず、先に会計を済ましてから席に戻った。彼女はまだ席にいた。鞄を両腕で抱きしめるようにして、何か思い詰めたような顔をして。しかし、座っていても少しふらついているのがわかる。私だって、これ以上飲むのはあまり良くなさそうだ。飲み直すなんてのは言い訳に過ぎない。
「……立てますか、小鳥遊さん」
「あ、だ、大丈夫……」
「思っているより強いものを飲んでいますからね。ほら、手を」
「あ……は、はい……」
手を出した時には自分で立とうとした彼女は、見事ふらつき、慌てて私の腕に抱きついた。そうして、今度は慌てて離れようとする。私はそのまま彼女の肩を抱いて、もう片方の手で彼女の手を掴んだ。
「タクシー、呼んであるので、もう来てると思います」
「いつのまに……」
「ふふ、手際はいい方なんです」
「……ですか」
「え?」
彼女は私から顔を背けながら、小さく言う。
「女の人、いつもこうやってたぶらからしてるから、手際がいいんですか」
そう言って、なんだかムッとしている彼女は、いつもより子供っぽい。……私は少し驚いて、聞き返す。
「……それって、どういう意味です?」
「……なんでも、ないです……」
「女遊びなんか、していませんからね」
「信じられませんよ……」
私は少し不機嫌そうにする彼女の態度を自分の都合のいいように解釈しそうになって……今はまだやめておこうと思い直した。地下一階のレストランから階段を登る。自分が思っていたよりも酔っていたことに気づくが、目的地は変えない。個室のどこかでなければ、彼女と二人では居られない。もはや飲み直すなんてのは口実に過ぎない。
タクシーは着いていた。私は彼女を半ば押し込みながら、よく使う店の住所を運転手に伝えた。彼女は体重をほんの少し私に預けながら、窓の外を見ていた。彼女と触れているところが、あたたかい。身体中の血管が沸騰しそうだ。それに。いや、だって。
私が女慣れしていそうなことに怒るなんて、少し期待してしまうじゃないか。私も……そんな彼女の体をそっと、引き寄せた。彼女は嫌がらず、もう少しだけ体重を預けてくれた。
うっかりそれ以上彼女に触れそうになった頃、タクシーは目的地に到着した。私は慌てて彼女から体を離す。そうして私たちは、小さな個室飲み屋に場所を移した。
彼女は何かが吹っ切れたように、ヤケになったように度が強いものを頼んだ。私は連れてきた手前カシスオレンジを頼んだものの、チェイサーばかり飲んでいる。
「……その、連れてきた手前言いづらいですが……そろそろやめておいた方が、いいですよ、色々と」
「棗さんの奢りなんでしょう。めいっぱい奢らせて後悔させてやりますから。……も、もう一杯……」
「……まあ、別に、構いませんけれど……」
そっと注文に水を紛れ込ませて、彼女にグラスを二つ。もはや飲んでいるのが何であるのかわかっているのかも怪しいところだ。
「だいたい〜、棗さんが悪いんですよ」
「あら」
やがて彼女はテーブルに突っ伏して、そんなことを言う。
「……ばか!」
「……それは……すみません……?」
「ばか、ばか、ばか……棗さんのばか……」
「……うーん……」
個室で良かったのは彼女の痴態を晒さないで居られたことかもしれない、と思いながら、私は彼女の向かいから……彼女の隣に、席を移した。お隣失礼しますよ、と声をかけても、彼女はテーブルに突っ伏したままでいた。眠ってしまったのかと思ったが、どうやら起きているらしく、そっと背中に触れると手を跳ねられた。
「……私が退職するから、都合いいんですか」
「は?」
やがて彼女はそう言いながら、今度は泣きそうな目で、体を起こしながら私を睨みつけた。
「そういうつもりなんじゃないんですか、今日……そうなんでしょう……もう辞めるから、最後に一発ヤっておくみたいな……」
「どこでそんな言い方覚えたんですか、辞めてくださいよ、そんなつもりないですって……私は、ただ……」
「ただ、何です?」
「……」
私は黙って、また水を口に含んだ。答えが得られなかった彼女は不満そうだ。だが、この様子なら……私だけではなかったのだろうな、と改めて思った。彼女はモテる。退職を理由に誘われて、ついて行って、嫌な思いをしたことも何度かあるのだろうと想像はついた。
「……一夜の体の関係を求めているのではないことだけは、信じてください」
「……でも、こんなに酔わせて」
「私は勧めてないですよ。貴方が自主的に飲んでいるのを止めていないだけで」
「普通止めるでしょう」
「それなら訂正しますけれど、最初のうちは止めていましたよ……覚えているかわかりませんが……貴方が止まらないので放ってましたのは事実ですけど……」
「……私が、悪い?」
「悪いとは言ってません……まあ、酔い潰れて不機嫌になっている貴方は新鮮で素敵ですよ」
「……またそんなこと言って。すみません、もう一杯……」
「ダメです」
「なんで止めるんですか。奢るって言ったくせに」
「……なかなか、酔うと難題を持ちかけてくるタイプなんですね……」
手のかかる酔っ払いになってしまった彼女は、幼い子供のようで、しかし普段からずっと大人を演じ続けている彼女の素顔を独り占め出来ていることが嬉しかった。やがて私に当たるのをやめ、彼女はまたぼんやりとして……そのうち、また私に寄りかかった。
「……棗さんにも……会えなくなりますね……」
「……寂しいです」
「リップサービスがお上手で」
「本心ですよ、寂しいです。……退職後も、会ってくださいませんか、こうやって二人で」
「……なんです、それ、告白ですか」
「告白ですよ」
「え……」
半笑いで私をからかおうとしていた彼女の顔が、ふっと真顔になった。少し酔いが覚めたのかもしれない。もう少し違う形で言おうとタイミングをはかっていたけれど、いま言うのがベストに感じて。少し間を置いて、彼女は無理やりにまたヘラヘラと笑う。
「またまた……」
「今日貴方を誘った理由を気にしてましたよね。体目当てじゃありませんが……もうひとつ、渡したい物があったからです」
「渡したい物……って」
私が真剣に話すと、彼女も真剣に聞いてくれた。私は悩みながら……しかし覚悟を決めて、鞄から小さな箱を取り出した。ラッピングされているそれは、傍目から見て何が入っているのかはわからない。私はそれを、彼女の目の前でリボンを解く。開けて、さらにその中の小さな箱を、開けた。
彼女はぽかんとして、口を開けたままだ。私はそんな彼女の手をそっと掴んで……そこに、そのまま……箱から取り出した指輪を、嵌めた。デザイン性よりも機能性を重視したピンクゴールドのリングに、しかし綺麗にカットされた淡いピンク色のストーンがいくつか埋まっていてさりげなく可愛らしく、いま大人の女性に人気と噂のモデルだった。
キザったらしく彼女の左手の薬指にぴったりと嵌めたそれは、可愛らしい彼女にとてもよく似合っていた。
「……貴方がずっと好きでした」
私は彼女の反応を待たずに言った。
「これからも……ずっと……好きだと思います……貴方とこれから会えなくなるなんて……耐え難い……ですから……その……想いを、伝えたかったんです。受け取って頂けなくても結構です……でも……伝えたかった……これは、私のエゴです……すみません、困ってしまいますよね。でも……頭の片隅にでも、覚えておいて頂けたらと思ってしまったんです、私のことを……」
困らせてしまってすみません、そこまで彼女の指をなぞりながら言い切った。言ってしまった、と思った。これみよがしに彼女の左手の薬指を独占した。もう、心残りは、無い。ムードのいいレストランでここまで出来ていたら、もっと格好良かったのかもしれないけれど……私はイマイチカッコよくはなりきれなかった。見てくれはいくらでも綺麗に出来るのに、こういうところはどうにも上手くできなかった。すっかりお互いに酔ってしまって、記憶が無くなるかもしれないところまで来なければ、勇気が出なかった。出来ればもう、明日彼女が飲みすぎていて、記憶が無いんですよね、この指輪のこと知ってますか?なんて言って笑われた方がいい……そんな風にすら思っていた。
やがて……返答もない彼女の顔を、恐る恐る見上げていくと……彼女は私が嵌めた指輪をじっと見つめて……やがて、自分の指でなぞった。
「……聞いてくださって、ありがとうございました。私の用はこれだけです。……タクシー、呼びますね。代金はこちらで持ちますから」
付き合っていただいてありがとうございました、と言うと……彼女と目が合って……私はぎょっとした。彼女はぼろぼろと、大粒の涙を両の眼から零しながら私を見つめていた。
「す、すみません、困らせてしまって……でも……その……もう会えないかと思うと……どうしても伝えておきたくて……」
「……棗……さん」
「泣かせるつもりはなかったんですけれど……すみません……わがままで……」
泣いてしまった彼女を慰めようと手を伸ばす前に、彼女の方が私の胸にすっぽりと収まってしまった。現実を把握する前に、そのまま彼女が私の背に手を伸ばした。遅れて、そっと彼女の背に手を置いてみたけれど……彼女が私に抱きついた、のだと状況を整理するまでに、少し時間がかかった。
「……酔っていますね、小鳥遊さん」
「……酔ってるんじゃなくて……」
「酔ってますよ、いきなり飛びついて……私じゃなかったら……そういう空気になっているでしょう……」
「……そういう空気にはしないんですか」
「……しませんよ、告白したかっただけだって、言ったじゃないですか。それに酔わせるだけ酔わせていいようにするなんて、私はそんなしょうもない男ではありません」
「ずるいですよ、棗さん。言うだけ言って、いなくなるなんて」
「いなくなるのは貴方のほうですが……」
「付き合って、とか、言ってくれないんですか」
「……貴方はタレントとは付き合わないんでしょう」
「……でも、もうすぐ私は……」
彼女が何を言わんとしているのかわからないほど野暮な鈍感ではない。泣いてしまった彼女がそんなふうに言う心境が、信じられなくて嬉しくもある。けれど、それは果たして本心だろうか?彼女は男性免疫がなさそうだ。雰囲気がいいところに連れていかれて、優しくされて、流されて。そうなのかもしれないと思うと、すんなり喜ぶことはできない気がして。
「……タクシーまでお送りしますね」
そっと彼女の体を離す。何かを少しだけ期待しているような彼女にただ微笑みだけ返して、さっきよりも重心の安定しない彼女の体を支えて歩いた。
タクシーに乗る前、彼女は私をじっと見つめてしばらく動かないでいた。私は手を伸ばさなかった。運転手に急かされてタクシーに乗り込んだ彼女は、こちらを振り向くことは無かった。私はそれがわかっていながら、彼女に頭を下げた。
不思議なものだなと思った。彼女に手酷く振られるつもりで全て用意して、覚悟を決めたのに、彼女がそれを受け入れようとした瞬間……それはダメだと思い、自らふいにした。
私は彼女主演の恋愛ドラマのキャストには相応しくないと思ってしまったのだ。端役にすらなれない出来損ない。長く温めてきた想いを伝えたことで、私の気は晴れた。そして彼女がそんな私に何かしらの感情を抱いていたのだと知れて、もうすっかり満足してしまった。
押したら結ばれたかもしれなかった関係、明日誰かに話したら笑われてしまうだろうか。彼女を傷つけるだけであったこの行為に、意味はあったのだろうか。
どこまでもエゴイストだ。自分にほとほと呆れながら、私も少し怪しい足元に注意しつつ、家路を辿っていく。いつもより風の冷たさを感じながら。
彼女は退職したらしい。あれからやはり現場で会うことは一度もなかった。ラビチャを一回だけ、あの後「本日はありがとうございました」とだけ送っていたが、既読になることはなかった。すぐにブロックでもされたのかもしれないし、退職する時には連絡先を消すと言っていたから、もうこのアカウントは使っていないのかもしれない。
あれからズールの皆はなんだかそわそわして、けれど決して私に何がどうなったかは聞いてこなかった。そういう人達だ。それがわかっていながら、私は話さなかった。御堂さんにだけ、こっそりと良いお店をありがとうございました、とお礼を言っておいた。彼個人もまた、それ以上を言わない私には何も聞いてこなかった。
その後、別の誰かに何を言われることもなかった。彼女も結局、誰にも何も言わなかったのだろう。律儀な人だ。私への悪評なんて、彼女が言えばそれなりに広まっただろうに。あの後、彼女はあの指輪をどうしたのだろうか。告白なのにプロポーズみたいなことをした。彼女だって女性なのだから、好きな人に最初に指輪を嵌めてもらう日を夢想したこともあるだろう。……悪いことをしたかな、と今は思っている。
アイドリッシュセブンはしばらく色めきだっていたが、私の方は日常は何も変わらない。現場で彼らと共演する時に挨拶する相手が彼女ではなくなっただけだ。抱えていた想いも、彼女にすっかり投げてしまった。彼女を差し置いて、私はすっかり身軽になってしまっている。まったくもって酷い男だ。
あれからどれくらい経ったのだろうか、あるオフの日に私が歩いていると、なんだか穏やかでない視線に射抜かれていることに気がついた。しばらく撒こうとあちこちふらふらしてみたものの、視線はいつまでもついて来る。厄介なファンだろうか、それとも面倒なゴシップ記者だろうか。どちらにせよ、のんびりとした休日を過ごしたいだけの私には邪魔な相手だった。
なかなか撒けない相手を私は炙り出して、捕まえる路線に切り替えた。あえて人通りのない道を歩き、そのまま路地裏に入り、やがて視線の主が覗き込んだところでその腕を掴んだ。細い腕だった。女性だと直感した。おいたが過ぎたファンなのだと思い、目深にかぶった帽子を奪った。
あ、と相手が小さく声をあげた。私はその声に聞き覚えがあった。そして女性の左手には、見覚えのある指輪が嵌ったままであった――。
「……どうして」
思わず彼女の腕を掴んだまま、彼女の帽子を奪ったまま、私は絞るように声を出した。彼女は……小鳥遊さんは……しばらく視線をあちこちにやって挙動不審になっていたが、やがて、小さく、すみません、と言った。
「たまたま、お見かけ、して」
「……声をかけてくださればよかったのに」
「警戒されていたから……」
「……どうして?」
私は二回目であるその言葉を繰り返した。今度は別の意味合いを孕んでいることは、きっと彼女にも伝わっているだろう。彼女はしばらく目を合わせようとしなかったが……やがて、私をそっと見上げた。
「……連絡先を、渡したくて……」
「……」
「ああ、いや、えっと。でも、一般女性の私がこんなことをしたら、問題になるか……とか、色々、思ってて、なかなか声をかけられなくて……ここまで……」
「……マネージャーの間はタレントだから、一般女性になったら部外者だから。本当に……難儀な人ですよね」
「……すみません、オフでしたよね……ご気分を害されたかも……」
「払拭してくれるんですか?」
「え」
「私が久々のオフで貴方に追われて嫌になった気持ちを、貴方が払拭してくれるなら、それでチャラにしますよ」
「……どうやって」
もじもじと私に腕を掴まれたまま、上目遣いのその目は初めて見る温度感で。服装も、メイクも、髪も、私が見慣れた彼女のそれではない。知っているのに、知らないような彼女を見て、すっかり吹っ切ってしまっていたと思っていた胸中が妙にざわつくのを感じていた。それが何なのか……具体的に、よくわからないまま。いや、わかっているのだ……わかろうとしたくないだけで。
私は、終わったことにしたかった。しかし、彼女がそれを許してはくれなかった。
きっとドラマは私が思うもっと前から始まっていたのだ。私は、途中降板を許されなかった、それだけ。……そうであるのならば。
「……今日は、お時間あるんですか」
「え?は、はい、休みで……ウインドウショッピングをしてて……」
「……なら」
私は掴んだままだった彼女の腕をやさしく解いた。彼女は逃げたりしなかった。私はそのまま、彼女の手を私の手で包む。彼女は強ばった表情のまま、そんな私を黙って見つめていた。
私はそっと、彼女の指に嵌ったままの指輪をなぞり、そして、その手に自分の指を絡める。びくりと緊張した彼女の指は躊躇いを孕みつつも、私たちの手はひとつになる。彼女の手は、私より少し冷たい。
「はじめましてから、始めませんか」
「え」
「ここから始めるんです、何もかも。私たちは今日、ここで出会った。貴方が私に惹かれて、追いかけて、私も貴方に惹かれた。そこにはアイドルも元業界人も、部外者も、何も関係ない。私たちはただ出会った男女、それだけです。それなら――恋に落ちたって、いいじゃないですか」
「……そんなの、詭弁じゃないですか?」
「詭弁とはいつだって、抜け道を突いた素晴らしい発想ですよ。……だから」
手を絡めた反対の手で、彼女の頬をそっと撫でた。困惑気味の反面、期待に目を煌めかせている彼女は、私の言葉をそっと待って。
「はじめまして、私は棗巳波。……貴方は」
「……小鳥遊、です……小鳥遊紡……。……はじめまして……貴方が……好きです」
たどたどしく、主演女優は台詞を読み上げた。そんな彼女の手をそっと引いて、私は彼女を抱きしめる。おそるおそる回された背中の手が愛しくて、そのまま私は彼女の唇に自分のそれを重ねた。何度も。何度も。優しく触れる度に、捨てたつもりだった想いが湧き上がる。だんだんと泣きそうな顔をする彼女に、私は笑顔で返した。
エンドロールに主題歌はない。ここでドラマは終わっている。続編は私たちだけの秘密で。しかし、彼女の手に嵌った指輪がやがて新しくなったことと、私の手にも同じように指輪が嵌っていることだけは、少しだけ仄めかしておいてもいいと思っている。
これは、ごくありふれたどこにでもある、ただの男女の恋物語のひとつだ。
畳む 1年以上前(火 17:34:27) SS
紡さんが人を好きになって
桜が咲いて舞い落ちて
陽射しがアスファルトを焦がし
色づき損ねた紅葉がそよいで
柔らかく積もった新雪の足跡は二人分
私と結ばれないでください と彼女は言った
だから私は彼女を愛したのだ
紡ぐ歌声 十六夜の彼方
逡巡せし二人の靴音
吾は白く闇に浮かぶ彼女の手を
引くか 引かずか
地球が大きな磁石と言うのならば
私たちは惹かれる運命だったのではないのでしょうか
騒がしい街を行き交う人間の群れを見つめる彼女の頬を照らす陽光
午前十時 待ち合わせの彼
1枚のメモ紙
開いた折り目は懐かしく
添えてある貴方の言葉が
私には愛しくてたまらないのです
まるで そう
私が知らないその頃の貴方を
見ているような気がするのですから
畳む 1年以上前(金 08:20:32) SS,二次語り
ウチの村では数年に一度、豊穣と災害の祈願のために女を一人、神様に差し出すことになっている。そしてそれが、今年は……ウチの家系であり、私である。予めわかっていたことであるし、そうやって言い聞かせられて生きてきた。だから、今更、そう今更不安になったとて、どうしようもないのだが。
友達、だと思っていた人達は薄情にも思えるくらいあっさりと贄となった私から目を背けた。皆、私から目をそらす。向けている視線の先は神様がおわすと言われている祠の中。祈る人々の前へ出て、神職様の後ろについて、身綺麗にした私は歩いていく。
母も昔、贄であったと父に聞いたことがある。そうなると、父は二人の家族を神とやらに捧げたことになるが……この村ではそれを何もおかしいこととはしていない。だから、父も……いや。ほんの少しだけ、昨日泣かれてしまって、だから私も少し揺らいでいるのだけれど。
祠に足を踏み入れた。神職様と同じように最低限の礼を尽くして入っていく。敷居を跨いだ途端、空気が変わり、ピリピリと冷たい風が頬を撫でたのを感じた。……居るんだ、神様って本当に……。贄ではなく人間として最後に考えた事はそんなことだった。なんにせよ、こんなに信仰の厚い村なのに、私たちは一度も神様とやらを見たことはなかったから……。どんな見た目?人間みたいなもの?それとも……化け物のようなもの?
そこで初めて、体が震えるのを感じた。そうだ。私は……贄だ。食われるのだろうか。それとも?何をされるのか、何をするのかもわからないまま、どんな形状をしているのかもわからない「神」とやらに捧げられる……ぞわぞわと背中を冷たさが走っていく。しかし、もう逃げることは出来ない。神職様の後ろをただ黙ってついて歩いて、奥へ、奥へと歩いていった。
神社の外観どおりの内装を歩き、やがて縁側へ出た。カコン、とししおどしの音が鳴った。パシャン。水の音がして、びくりと体を震わせた。何か、生物の音だったから。しかしすぐに頭を下げ、体を低くした神職様に合わせ、私も同じようにしていたから、枯山水の端っこと縁側の境目くらいしか見えなかった。
「……あら、それが新しい贄ですか」
人の声がした。神職様のものでは無い……中性的な。けれど、男性だろうか。柔らかく、透き通るような……そう、まるで、水の中で反響しているような、泡のような声。パシャリ、パシャン。同じように、水から這い出る音がする。近づいてくる。心臓の鼓動がうるさい。汗が頬を伝っていく。足元が見えた。宮司様みたいな袴……に、裸足で、服も体もべしゃべしゃに濡れていて。やがて……がし、といきなり顎を掴まれた。驚いて、ひ、と小さく声を上げる私の顔を、それは思い切り上にあげて。
深い朱を称えた瞳と、目が合った。絹糸のような長い髪を結わえ、神職の装束を着て、こちらを真っ直ぐに見据えている。ぞくぞくと、言いしれない不安のような興奮のような何かで心を埋めつくされて、私は何も言えないまま、動けないまま、ただ固まっていた。そんな私の両頬を、その人の濡れたままの指がなぞった。雫が私の頬に移って、首を伝って、庭に落ちた。
「初めまして、私の贄」
すっと、口元を歪めた相手はそう言った。はっとして、私は慌てる。気づけば隣にいたはずの神職様はもういない。この人と、二人きりになっていた。
「……あ、あなたが、神様ですか?」
なんとか出せた声で、私はそう聞いた。彼はしばらく黙って……しかしなぜかくすくすと笑い出して、言う。
「巳波と呼んで」
「は、はあ」
「貴方の名前は」
「え……いいえ。私は贄です、神様……巳波様。名前も一緒に捨ておいて……」
「では拾ってきてください。貴方の名前は?村で親に貰った名前があるのでしょう」
「……紡、です、巳波様……」
「そう。紡」
「あ、はい!よろしくお願いしま――」
ぐい。さっき掴まれた顎をそのまま。反対の手で体ごと引き寄せられて。私が言葉を言い終わる前に、唇が塞がれた。
一体何が起こっているのかもよくわからないまま、それはまた離れて、そして触れた。……巳波様の唇だとわかって、私は慌てたが、どうしようもできなかった。何度か離れて、また口付けて、弄ばれているような変な感情が渦巻いていく。やがて唇にざらりとした感触がして、体ごと熱くなって、逃げようとしても、いつそうなったのか背に手を回されていて逃げられなかった。問答しているうちに唇を何度も舌でなぞられて、慌ててきつく閉じた唇の継ぎ目を……割り込んでくる。それでも抵抗し続けた私は、結局縁側に押し倒されて、今度こそ抵抗する術なく巳波様にされるがままになっていた。
巳波様の舌が口の中をからかう様に遊ぶ。ざらついた舌の感触が口内で暴れ、体が熱を持っていく。……も、もう。もう。接吻の一つもしたことがない私は限界だった。懸命に体を押し返していると、やがて巳波様が体を起こした。……人間よりも長い舌が、そっと巳波様の唇を舐めとって、口の中へ消えていった。満足しているのか、何を考えているのかよくわからない不敵な笑みで、私を見下ろしている。
「……あ、あの、あの!あの、これ、は……?」
「これからよろしくお願いしますね、紡……私の可愛い贄」
「あ、み、巳波様!?」
巳波様は私の質問には答えないまま、そのままどこかへ――文字通り、消えてしまった。
私は……先程まで巳波様に遊ばれていた唇をそっとなぞり、大きく息をつく。
「……なんだったの、さっきの……っていうか」
贄って、何。役割は神様に聞けと言われているのだ。巳波様はどこへ行ってしまったのかわからない。しかしもう、村へは帰ることもできない。しばし呆けて……庭をぼんやり眺めながら、ししおどしの景気のいい音ではっとする。
「……神様の贄なんだから!とりあえず……!」
そっと、縁側から部屋にお邪魔して、触ってみれば埃だらけだった。私は母親がいなかったから、掃除も炊事も大得意だ。
「神様の家、綺麗にするところから!」
気合いをいれて、雑巾を探すところから私の「贄」としての生活が始まった。
畳む
1年以上前(火 21:12:41)
SS