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カテゴリ「SS」に属する投稿49件]2ページ目)

NO IMAGE リュウ みなつむSS 私で繋ぎ止めて day1

    眩い光に照らされて、思わず紡は目をつぶった。
    刹那。
    音。光。振動。身体中で感じるその全て。自分では経験したことの無い、そんな圧に、紡は怯えながら目を開けた。
    ――歓声。
「……な、に、これ」
    観客は皆、興奮気味でこちらを見つめている。手にはサイリウム、うちわ、よくわからない横断幕のようなものまで様々だ。耳元で鳴り響く音、そっと手でなぞり……理解する。
    ……イヤモニだ。
「ちょっと!ちょっと、紡!」
    ぼーっと立っていた紡の名前を、知っている声が呼んだ。透き通る、淡い声。……しかし、紡は彼にそう呼ばれたことはなかったはずだった。小鳥遊さん、アイドリッシュセブンのマネージャーさん。そして、紡は……彼のことをいつも、亥清さんと呼んでいたはずで。
    しかし、彼はマイクから口を離しながら、紡の耳元で怒ったように囁く。
「パート忘れたの!?ステップも踏んで!今、パフォーマンス中でしょ!?」
    そう、まるで、彼が自分のユニットのメンバーにそう言うかのように。そうしているうちに、困惑気味の紡の視界の端で、何かが大きく動いた。視線を動かす。大きく空中で弧を描き、着地する。歓声がより大きくなる。――御堂虎於、その人だった。
「なんだよ、ツム、調子悪いのか?俺とトラでカバーすっから、ハルといい感じに休んでろよ」
「い、狗丸さん……?」
「は?なんでそんな他人行儀なんだよ。俺たち、メンバーだろ」
「え……」
    近づいてきた狗丸トウマは、そう耳打ちして紡にウインクして、虎於の元へ走っていく。対して悠は、紡の腕を引く。
「まったくもう、本番なんだからちゃんとしてよね!あと5曲、歌える?無理そうなら、なんとかMCで休ませてもらうから言って!それか俺がパート変わるから!……わかった!?」
「……は、い……」
    ライトの色が赤に変わっていく。光が、虎於とトウマをメインに照らす。紡と悠が、注目されづらくなっていく。アイドルを引き立たせる舞台演出……普段、自分がやっていることだ。
    紡は、息を大きくはいて、吸って……理解する。
    ここは、ステージの上なのだ。

    驚いたことに、紡は「歌えた」し、「踊れた」。ŹOOĻのことは、確かにアイドリッシュセブンと友好的なユニットとして関わりは多くあったが、曲まで完全にコピーしてパフォーマンス出来るほど知っているつもりではなかった。でも、やろうと思ったら出来てしまった。体に動きが染み付いていたのだ。まるで、そう……今までずっとそうしてきたかのように。
    ステージが暗転し、うまく動けずにいる紡の腕を、強引に悠が掴み、そのまま袖にはけていった。ライブは終わったのだ。逆に言えば……自分は、ライブのステージに立っていたのだ……ŹOOĻと一緒に。流れに身を任せつつも、やはり混乱したままの紡に、お疲れ様です、お疲れ様です、とスタッフの声がかかる。渡されたタオルと飲み物を受け取りながら、お疲れ様です、と機械的に返していく。そうして。
「……皆さん、お疲れ様でした。今日も盛況でしたね」
    はい、狗丸さん。はい、亥清さん。はい、御堂さん。
    ……はい、小鳥遊さん。そう呼ぶ声に、紡ははっとする。
「どうして……棗さんが」
    ライブ衣装ではなく、スーツに身を包み、アイドルたちに声をかけ、微笑みかけている彼こそ、ステージに立っているべきだったアイドル、棗巳波だ。紡が思わず言った言葉を測りかねているのか、巳波は首を傾げながら、ああ、と一言。
「今日はちょっとパフォーマンスで戸惑ってしまっていたようですけれど、スケジュールがキツかったでしょうか?後で調整しましょうね。すみません、私の力が及ばなくて。まだまだ、マネージャーって、慣れなくて……」
「マネージャー……?」
「ホントだよ巳波!紡がもっとライブで力出せるようにしてよ!やっぱ昨日、あんな時間まで仕事だったからぼーっとしちゃったんだよ」
「あらあら、申し訳ありませんでした。ふふ」
「笑ってないで!紡はまだアイドルとしては新人なんだから――」
    何を言っているんだろう、まだはっきりしない……いや。はっきりはしているが、混乱している頭で、名前で呼び合うアイドル衣装の三人と、スーツを着た巳波を見つめていると、巳波と突然目が合った。瞬間、紡に微笑みかけ、他の人に見えないように、そっと手招きする。
「てかさ、今日のMCのトラ――」
「あれは――だって――」
「そもそも――」
    楽しく談笑しているŹOOĻに、そっと近づいてみる。もう少しこっち、と無言で巳波の手に導かれていく。
    一歩、一歩。近づくと、三人が紡を振り返った。
「なあ、ツムだってそう思うだろ?」
「違うよね!?トウマも虎於もおかしいよね!?」
「俺はおかしくないだろう!?」
    ぐるぐる回り続ける頭のまま、紡は迷って……苦笑いをして、やり過ごした。

    スケジュールも調整したいし、少しお話が伺いたい、と巳波に言われ、紡は待っていると聞かなかった三人を説き伏せ、先に打ち上げに行ってもらった。ステージメイクを落とし、私服に着替え、紡はようやくいつもの自分になれた、と安心していた。それでも、スーツではなく私服だ。慣れないと思いながら、ツクモプロダクションの一室に呼ばれ、緊張しながら扉をノックした。
    変な夢だ。いつしか紡はそう思いながら、しかし何をやっても目覚める気配はなく、痛覚もある。身を任せるしかないのかもしれない、と思いながら、開けた先にいたのは巳波だ。ŹOOĻに宛てがわれている部屋は広く、紡はぼんやりと、小鳥遊プロダクションの事務室がいくつか入るな、なんて思いながら、勧められるがままにソファに座った。
「すみません、私が気が利かなかったせいで。SNSでも少し言われちゃってるみたいですけど……そんなことよくありますし、気にしないでくださいね?」
「ああ、はい、ええと……」
「お茶です。お菓子、最中買ってきたんですけれど。お嫌いでしたか?」
「いえ!嫌いなお菓子、ないです!」
「それはよかったです。他の方々、好き嫌いが激しいですし。貴方だけ素直な人で、助かります」
「あ、あはは……」
    アイドリッシュセブンとŹOOĻとは最近現場が重なることも多い。必然的に巳波に会うことも増えていた。それでも、マネージャーの巳波に会うのは当然初めてだ。それも、自分のマネージャーとして……。彼は気がつくほうだから普段からよく動くけれど、マネージャーだからそれ以上に仕事をしているように見えて、紡はどうにも落ち着かない。本来自分がやるはずのことをアイドルに押し付けているような、そんな罪悪感が胸の中に渦巻く。
「いいんですよ、アイドルなんだから。お世話させてください」
    そんな紡の胸中を見抜いているかのように、巳波は皿に載せた最中を紡の前に置いた。自分の分も置いて、紡と机を挟んで座る。……ちゃっかり、二つ食べるつもりらしくて、そういえば食べることが好きなんだっけ、と思うとなんだか微笑ましくなって口元が緩んでしまう。……と、いつの間にかばっちり目が合っていて、紡は気恥ずかしくなって慌てて出されたお茶に口をつけた。
「どうでした、ライブは。頭、真っ白になっちゃいました?」
「あ、ええと……本当に申し訳なく……」
「いいんですよ。初めてのライブで数万人の人間に見られて、完璧にパフォーマンス出来る方がおかしいんです。途中止まってしまっていたところ以外はできてましたよ、ちゃんと見てましたからね。最後、頑張りましたね」
「ありがとうございます」
    よく頑張りました、と言いながら最中を頬張る巳波を見つめながら、紡は少し前のことを思い出す。ステージの上。三人にフォローされながら、やるしかないと思ってこなした数曲。不思議なことに歌声はそれなりで、ダンスもそこそこできた。見ていた、頑張っていた、普段自分がアイドルたちを見つめてかけていた言葉を改めて聞いてみるといまは……非常に心強く感じた。
「……ところで私、初めてのライブだったんですか?」
「え?」
「ああ、いえ!……は、初めてで……したね!」
    きょとん、と紡を見つめる巳波を見て、慌てて取り繕う。そうだ、この夢の中ではおそらく自分はそれなりにアイドル活動をしている。いきなりマネージャーに自分が初めての舞台だったのか聞くようでは、心配されてしまうだろう。巳波はそんな紡を見つめながら、返す。
「歌もダンスもハイパフォーマンスなあの三人のライブのなかに貴方を入れると聞いた時には戦慄したものですけれどね、貴方の歌声も全然劣っていませんでしたよ」
「そんな、お世辞は……」
「自分のアイドルにお世辞言って得があります?」
「まあ、多少は……」
「ふふ、まあ、そうかもしれませんね」
    それでも貴方に自信を持って欲しいのは本当なんですよ、と言って、巳波は微笑んだ。つられて、紡も微笑んだ。マネージャーの巳波とは、紡も気が合いそうだ。少しだけ心が軽くなる。いつもの気持ちで接して大丈夫そうだと、そう感じたのだった。
「わざわざお時間とっていただき、褒めていただいてありがとうございました!元気出ました、えへへ」
「いいんですよ。アイドルは褒められるのが仕事です。……それに」
    紡の先程の感覚は、直感であったのかもしれない。
「私も先日、朝起きたら急にマネージャーになっていてびっくりしていたんです。貴方もそうだったんでしょう?少し……お話しませんか」
    ねえ、小鳥遊さん。小鳥遊プロダクションのマネージャー、小鳥遊紡さん。紡の頭からほんの少しずつ、こぼれ始めた言葉を、かき集めるように。巳波の声が耳元を擽った。

    どうぞ、と巳波が運転席から声をかけたとき、思わず紡は「免許持ってましたっけ」と返して暫し呆けていたのだが、巳波はただ笑って助手席を勧めた。勧められるがまま、紡は助手席に座り、運転席の巳波を見やった。
「どうやらマネージャーの私は普通免許を持っているし、運転にも慣れているようなんです。不思議なんですけれど、運転したことないのに自然に走れるんですよ。大丈夫、もう慣れるくらいには彼らの送迎もしましたから」
「はあ……」
「逆に言うと、貴方は免許を持っていないそうなので。おそらく頭から運転の仕方も抜けているんでしょうけれど……気をつけてくださいね」
「わかりました」
    ちょっと遠回りして、打ち上げにお送りします、そう言ってから巳波は車を出した。付けていたラジオから、リクエストでŹOOĻの歌が流れた時、紡はその中に明らかに自分の声が混ざっているのに気がついて、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「不思議ですよね。つい昨日まで、この世界のŹOOĻは三人組だったんです。歌声も三人分だった。それなのに、今日になった途端、貴方が入っていたんですよ。まるで、ずっとそうだったかのように……さすがに夢なのかと思ったのですが、先程の貴方の反応を見ると……夢にしてはよく出来すぎていますよね」
「……棗さんはこれが……現実だと思っているんですか」
「最初は私も信じていませんでした。明晰夢の類かと思っていて。まあ楽しむかな、くらいの気概でいたんですけれど……これがなかなか覚めなくて、焦ってきてしまったんですよね」
    紡は窓の外をぼんやり見つめながら、道行く人たちを見やる。スモークガラスだから、向こうからこちらは見えていないのだろう。ふと目に付いたポスターにはŹOOĻがいた。亥清悠、狗丸トウマ、御堂虎於……小鳥遊紡。男女混合四人組アイドル。そう、まるで最初からそうであったかのように、ポスターの中の紡は中性的な雰囲気で、しかし彼ら同然まるで噛み付くような顔をして、こちらを見つめている。当然、撮った覚えのない写真なのに、紡の頭の中では撮影した日に三人と笑いあった記憶が、早回しで再生されていた。
「他の人にも試みたんですが、元の世界のことを覚えているのは……いえ……おそらく私と同じ世界からここへ来てしまったのは、貴方だけなんだと思います」
「……なんだか、フィクションのような話ですね」
「ドラマとかでありそうですよね。昔、そんなドラマに出たことがあったような……」
「ああ、見たことありますよ。棗さんが子役の頃の……えっと……タイトル……は……」
「……無理ですよ。この世界に存在しないものは、思い出すことなんかできません。一度忘れてしまったものは……」
「……変な感じ」
「よかった、その感覚を知ったのが私ひとりじゃなくて。共有できるって、幸せですね」
「そう……かもしれませんね……」
    巳波はあくまで安全運転だったが、車の混む夜の三車線をすいすいと上手く走っていく。惚れ惚れしてしまうようなハンドルさばきと、長く白い指。紡はなんだかどぎまぎしてしまって、そっと視線を逸らした。
    巳波は運転しながら、この世界で目が覚めた日――気がついたらマネージャーになっていた日のことから、今までのことまでを、簡潔に話した。この日になるまで自分で何度もまとめなおしておいたのだと、笑いながら言った。そして今日の朝起きた時、この世界での記憶に紡が追加されていたのだと話した。
「この世界、私たちの知っている人の中でいない人が多いんです」
「いない人……」
「例えば、七瀬さんがいませんね」
「えっ」
「ŹOOĻは全員居たんですけれどね……Re:valeも存在しないです。なんだか、欠け方もおかしな感じでしょう。特に法則性も感じない……ですから、宇津木さんや貴方が居ないことにもなんの疑問も感じていなかったのに……急に現れたので驚きました」
「……私の事、覚えていてくださったんですね」
「……まあ、当たり前、です……よ。ふふ。深く気になさらないで?」
「はあ……?」
    はっきりしない言葉で濁された紡は首を傾げたまま、すぐに興味を無くしたように前方車両に目を移した。そんな紡の様子をしばし伺いながら、やがて巳波も小さくため息をついた。その口元は、ほんの少し歪んでいる。
「……棗さんのお話通り、これが夢じゃないなら」
    フロントガラスに水滴が落ちる。ポタポタ、というよりはパチパチと音を立ててガラスが濡れていく。……そうして、強い雨が降り始めた。
「私たちは……どうすべきなんでしょう?」
    ラジオをかき消すような雨音の中、投げられた紡の言葉に、逡巡、巳波は片手でハンドルを切りながら答えた。
「決まってるでしょう。二人でアイドルとマネージャーやりながら、元の世界に帰る方法を探すしかないじゃないですか」
「でも、そんなの」
「困るでしょう、私がいないŹOOĻなんて。貴方抜きのIDOLiSH7だって」
    確かに言い切った巳波の熱に押されて、紡の瞳が強く光った。

    勿論、この世界でのŹOOĻにも手を抜く気はないので……と微笑んだマネージャー・巳波とのスケジュール調整を終えてから、紡は打ち上げに顔だけ出し、メンバーにやいのやいの言われながら早めに家に帰った。この世界での紡の家は実家ではなく、風呂トイレ付きの小さなワンルームマンションの一室だった。部屋の趣味は同じだったので、多少安心したが。
    巳波との会話を思い返している中、巳波が「一度忘れたらもう思い出せない」と言っていたのを反芻し、紡は慌てて適当なメモ帳を取り出した。
    この世界にいないと聞いた人達の名前。元の世界での自分。元の世界でのIDOLiSH7。とりあえず、思いつく限りを言葉にしてみた。
    それからしばらく経っても色々と思い巡らせていたが、思った以上に体が疲れていたようで、メモ書きまで終えてしまうとぐったりと居間の床に倒れこんだ。巳波に調整してもらったおかげで、明日は昼まで眠っていても仕事に間に合うはずだ。シャワーを浴びていない。メイクを落としていない。着替えていない。しかして初めて経験したライブステージの疲れというのは凄まじく、紡はそのまま意識を手放していった。

    翌朝、紡は何やら振動音で少しずつ意識を取り戻していった。目覚めてしばらくしてもぼんやりと天井と電気の傘を見つめていたが、はっとしてそれがマナーモードのスマホの着信だと気づき、飛び起きた。現在時刻は……すっかり夕方を回りそうな時計の針を見て、スマホに表示された「棗巳波」の文字に怯えながら……息を吸い込み、応答した。
『もしかして寝てました?』
    第一声からにこやかにそう言う声は何処か恐ろしい。それはそうだ。今から急いで身支度をしても、撮影の時刻に間に合わない。紡は頭の中が真っ白になるのを感じていた。マネージャーとして働いている時でさえ、寝坊なんて滅多なことじゃないとしでかさなかったのに……。
『いいですよ、混乱しないで。とりあえず迎えに行くので、準備しておいてください、間に合わなくてもいいですから』
「あ、えと……シャワー……メイク……えっと……」
『それならとりあえずシャワー浴びてて下さい。貴方の家の鍵、持ってるので……ドアロックだけ外しておいて。メイクと髪の毛は手伝いますから』
「えっ、ああ、いや、えと」
『仕事、穴あけるつもりで?』
「いえ!とんでもありません!」
『では言うこと聞いてシャワー浴びててくださいね』
    紡の返事を待たずに巳波が通話を切った。紡は慌てながらもシャワー、シャワー、と言葉を繰り返しながら脱衣所へ向かいかけて、ああドアロック!と急いで振り返って外した。バタバタと服を脱ぎ、寝ぼけた頭でそのままシャワーを頭から浴びれば冷水で、慌ててお湯に切り替える。
    頭に過ぎるのはアイドルが穴を開けた時の現場のことばかりだ。いくら急いだってもう間に合わない。おそるおそるスマホを確認したが、着信はあの一回だけではなかった。半ば青ざめながら急いで体を洗い、とりあえず着替えていたところでインターホンと共に、鍵を開ける音がした。脱衣所の扉にノックが響く。
「小鳥遊さん、棗ですけど、お邪魔しますよ」
「あ、あ、ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいです。体洗えました?」
「か、髪の毛……乾かし……」
「服着たら出てきてください、身支度手伝います」
「現場……は……」
「タレントが何かしでかした時に現場をなんとかするのがマネージャーでしょう。アイドルの貴方がいま心配すべきは現場でどう謝るかではなく、最短で身支度をすることです。良いから、私を信じて……私の言うことを聞いて。私は」
    ――貴方のマネージャーですから。紡は急いでワンピースを被りながら、みじたく、みじたく、と小さく呟いていた。とりあえず出ていった紡を見て、巳波は小さく呆れたように笑って、紡の部屋からカーディガンを持ってきて、手渡した。それから居間の椅子に座るように促す。机の上にミラーを置いて、その隣に置かれたのは紡の化粧ポーチだった。
「髪乾かしてますから、メイクしてて下さい」
「は、は、はい」
「ŹOOĻっぽく」
「それってどういう……」
    聞く間も無く、巳波はドライヤーを持ってきて紡の髪の毛を容赦なく梳いていく。温風と人の体温でまた半分寝そうになる紡を、たまに巳波がそっと揺り起こす。紡は瞼にシャドウを乗せながら、幼い頃、父親に髪の毛を乾かされていたことを思い出す。
「……棗さんって」
「はい」
「お父さんみたいですね」
「……知ってます?私たち、一歳しか変わらないんですよ」
「へへ……」
「余裕あるならアイライン引いてください?」
「すみません……」
    とっくにドライヤーの音は止んでいたが、そのまま巳波は何処から持ってきたのかヘアアイロンとスタイリング剤で紡の髪の毛を仕上げていく。その上に自分ではしたことがないような精密な編み込みがなされていくのを鏡越しに見ながら、紡は心臓が高鳴るのを感じていた。
「……シャドウ、終わりですか?濃い色塗ります?それに合わせますけど、リボン編み込むので」
「えっと……」
「ああもう。黒にしておきますよ」
    やがて出来上がった突貫工事のアイドル・小鳥遊紡は、マネージャー・棗巳波に腕を掴まれながら玄関を飛び出した。

    結局仕事はなんとかこなしたが、紡は巳波と同じ角度で何度も関係者に頭を下げた。紡は心底、今日は一人の現場でよかった……と、彼女の"メンバー"のことを想った。
    一日を終えたあと、送ります、と言われてまた紡は巳波の隣に座った。今日の仕事はこれ一件だけだ。……だけだったのに、大変なことにしてしまった。助手席に座ったとたん、紡はまた惨めな気持ちになり、項垂れていく。
「……ところで、昨日の話の続きなんですけど、小鳥遊さん……小鳥遊さん?」
    巳波が話しかけても上の空だ。返事が返ってこない隣を見るなり、巳波は思い切りため息をついて、ウインカーを出した。
    そのまま社用車は街を外れていく。巳波は小さく、この世界は今のところ地理は変わってないはず……と呟いて、ハンドルを切った。

    着きましたよ、と言われてようやく紡は顔をあげた。しかし、紡の家ではない。駐車している車の扉を開けて数歩歩くと、お世辞にも綺麗とは言えない暖簾が紡と巳波を迎えた。
「あの……」
「夕食まだですから、食べてから送ろうと思って。起きてすぐ現場でしたし、お腹すいたでしょう」
「ここは?」
「小料理屋さんです。美味しいんですよ。皆さんと宇津木さんに連れてきてもらったことがあって」
    覚えていたので、と微笑んだ巳波に続いて紡も店内に足を踏み入れる。煤けた床も、客を歓迎しているようには到底思えなかったが、狭い店内はほぼ満席で、おそらくサラリーマンと思しき人々が酒を飲み交わしているのが目立っていた。無愛想な、というよりも日本語が話せるのかもよくわからない店員に案内されて、二人が案内されたのは隅のテーブル席だった。幅は一人分あるかないかくらいの狭さ。巳波も紡も人より細身だから、なんとか入れたようなもんだった。
    注文を取りに来た店員に巳波が何言か伝え、やがて二人の前に次々と和食が並んだ。ぽかんとしているままの紡を放って、巳波は手を合わせた。慌てて、紡も同じように手を合わせる。いただきます。揃った声にならって、紡は料理に口をつけた。
「あ、おいしい……」
「でしょう」
    魚の煮付けを一口飲み込むと、紡の腹の音が鳴った。思わず巳波の顔を見ると、巳波も紡を見つめて微笑む。
「さあ食べて。明日もお仕事ですし、頑張ってもらわないと」
「すみません、ごちそうさまです……」
「私のおごりじゃないですよ。アイドルの食事は経費で落ちますので」
「ちゃっかりしてますね」
「当然の権利です。寝坊したアイドルのメンタルケアもしなくちゃいけなくなりましたしね、自腹切る理由もない」
「うっ……」
    急に刺すように飛んできた事実にダメージを受けつつも、紡は料理を平らげていく。食べれば食べるほど、なんだか腹が減っていた気がしたのだ。結局、巳波のオススメで料理を追加して、紡は満腹になって、巳波にまた頭を下げた。
「すみませんでした、今日」
「いいえ。というか、もう結構です。そろそろ本題に入りたいので」
「本題?」
「車の中でお伝えしようと思っていたんですけれど、まったく話にならなかったので……お料理もしっかり食べていらしたし、頭、働きますかね」
「えっ!?あ……す、すみません……寝坊して……しまったなーって思ってて……」
「切り替えてください。いつもの貴方ならもう切り替えてるでしょう」
「すみません……」
「それで、本題なんですけれどね」
    紡も巳波もまだ未成年なのはこの世界も変わらないようだった。こんな場所に来て、二人で酒ではなく、水を飲みながら、巳波はとりあえずつまみのメニューをいくつか頼んで、もうすこし滞在する意思を表明したようだった。刺身を一切れ口に入れながら、巳波は鞄から一冊のノートを取り出した。A5サイズのスケジュール帳だった。巳波はそのまま、細い指でページを捲る。マンスリーカレンダーから自由記入欄に代わり、巳波はそこに書いてあるメモ書きを指さして、紡にスケジュール帳を差し出した。そっと受け取って、紡はそれを見つめる。
「ずーる、四人組アイドル、メンバー棗巳波……パフォーマー、作曲担当……」
    そこにはつらつらと巳波のプロフィールが書いてあった。紡も知っている情報から、巳波しか知りえないような情報までが羅列されている。一部は、巳波が指で隠して見せてくれなかったが……一通り読んでから、紡は巳波に促されるまま、次のページを捲った。そこに書いてあったのは、おおまかな紡のプロフィールだ。挟まっているのは、昨日紡が眠りに落ちる直前に書いていたメモ。それを参考に書いたらしかった。
「これ、私の……?」
「そうです。貴方が今日シャワーを浴びてる時、床に落ちていたメモを拾ったので……それに加えて私が知っているあなたの事を書いておきました。だから、ここに加筆していて欲しいんです、貴方しか知りえない情報や忘れたくないことを……別に私、読みませんから」
「……どうして?」
「メモを置いていたってことは、昨日の私の言葉は覚えていてくれたんでしょう。改めて言えば、この世界にいると……いればいるほど……記憶が抜け落ちていくんです。そして一度忘れたことはもう思い出せない。……だから、忘れたくないことを書いて、私が管理しておきたいんです」
「棗さんが?」
「マネージャーですから。……というより、本来なら一刻も早くこの世界から元の世界へ帰る方法を探した方がいいと思うんですけれど……私はともかく、貴方はこの世界の著名人です。居なくなれば騒ぎになってしまう。ですから、貴方はアイドルとして違和感なく仕事を続けていて欲しいんです。その間に、雑務の合間を縫って私が調べ物をしますから」
「……うーん、でも、そんなの、見つかるもんですかね?」
    いまいち巳波の熱量が受け取れていない紡を見て、巳波はしばし指を絡めては解いて……やがて、紡の手を強く握った。
「見つけなくちゃ。私たち、帰らないと。ねえ、そうでしょう?」
「……そう、です、ね」
「ŹOOĻには私が必要で、アイドリッシュセブンには貴方が必要なんです。七瀬陸には、貴方が必要だ、そうでしょう」
「……七瀬陸……」
「そう、彼のことを忘れないで……ここにいない彼のことを忘れてしまったら、貴方は……」
    ぎゅ。巳波の真剣な顔と、手に籠った力で、紡はとりあえず頷いて、ボールペンを走らせていく。巳波はそれを見守りながら……内心、非常に焦っていた。
    どうして。たった一日で。自分がここへ来た時の何倍ものスピードで……。
    ――紡の記憶が、もう抜け落ち始めている。彼女が自分の最愛のアイドルの名前を聞いてもほうけているのを受けて、巳波は思わず爪を噛んでいた。
    書いてみたんですけれど、と言って差し出した紡のプロフィールは短く、巳波は……そこに、更に巳波から見た彼女を付け加えていく。元の世界の彼女を。小鳥遊プロダクションのマネージャー、小鳥遊紡を。いや。小鳥遊紡という、女性を。
(忘れさせてやらない、絶対に……彼女が彼女を忘れないように……そうしなくては)
    巳波は前のページ、自分のメモのページを見て……先程紡に隠して見せなかった部分を、声を出さずに読み直す。
    ――棗巳波は、小鳥遊紡に恋情を抱いている。彼女に告白する予定はない。
(……貴方のことは、必ず私が元の世界に帰す)
    巳波はスケジュール帳を閉じて、紡にありがとうございました、と微笑んだ。微笑み返す紡は、大きな欠伸をひとつ、なんだか眠たげな様子だ。そのまま巳波は彼女のスケジュールを確認する。朝早い仕事ではなさそうで、ほっとした。
「それじゃあ、ご自宅までお送りしますよ。」
    そう言って、巳波たちは小料理屋をあとにした。

    社用車は紡のマンションに止まり、巳波は紡を部屋の前まで送った。
「今日はすみませんでした……あと、ごちそうさまでした」
「はいはい。それと、元の世界のこと。コピーしたもの、毎日声に出して朝読んでくださいね?」
「え〜、本当にやるんです?」
「私はやっていますよ。毎日眠る度に……記憶が抜けていることは感じていますし。日々、この世界の棗巳波に私が塗り替えられていく感じが……するんです。世界になんか、染められてやるもんですか。もう私は、私の意思しか認めない」
「……そうですか、そうですよね、私も……マネージャー……だし」
「もちろんです」
「……でも……」
「大丈夫、私が必ず……帰る方法を探してみせるから」
「……わ、私もお手伝いを」
「大丈夫ですよ。その代わり、一日が終わる前に必ずお話をしましょう?仕事終わりなら会ってでも、会えないようなら電話でいいから。そうやって、お互いにお互いを覚えたまま、ここを生きて帰りますよ」
「わ、わかりました」
「なので……これ以上、仕事、増やさないでくださいね?新人さん」
「あ、あはは……は、はい!」
「よろしい」
    微笑んだ巳波が、そっと紡の頭を撫でた。紡はびっくりしたように、しかししばらく撫でられる間、目を閉じて心地よさそうにしていた。
    ――どくり、撫でられたまま、目を閉じたままの彼女を見ていると、想いが抑えられなくなりそうだ。巳波はふうと息をついて、そっとその手を下ろした。
「……おやすみなさい、小鳥遊さん、明日も迎えに来ますからね」
「はい、おやすみなさい!棗さん!」
    そうやって、巳波は部屋に入っていく紡を見送った。……まだ鼓動は高鳴っている。衝動が溢れてきている。目をつぶって、息を吐いて、吸って。それらのすべてを、どこかへ放り投げた。
    先程紡に見せていたスケジュール帳に、この世界についてわかったこと、というページがある。巳波が独自に調べたものが箇条書きになっており、そのうちのひとつに「元の世界へ帰るには、元の世界の記憶が少しでもあることが必要」と書いてある。
「……私は棗巳波。ŹOOĻの作曲家。そして……小鳥遊紡が、好き」
    マンションを降りながら呟いて。しかし。
    巳波はもう、自分が作っていたはずのメロディを口ずさむことは出来なくなっていた。
畳む
NO IMAGE リュウ トウつむ SS secret date


「狗丸さん、そのまま行く気ですか」
    お先に、と部屋を出てきた俺を追いかけて腕を掴んだミナが、怪訝そうな顔で耳打ちした。何が?と首を傾げてみると、呆れたように首を振る。
「私が思うに、年頃の女性はもっとロマンチックなデートをご希望かと。雰囲気くらい整えていったらいかがです」
「えっ!?今日の俺なんか変!?……じゃなくて、で、デートってなんだよ!そんなわけないだろ、トラじゃあるまいし」
「逆に御堂さんじゃないから心配なんですよ……」
「いや、だからその。ちょっと友達と遊びに行くだけ……でぇ……」
「そのお友達も、今日はお友達と遊びに行くって張り切ってましたけれど」
「えっ」
    まったく、危なっかしいお二人ですね、とため息をつくミナに連れられて、別室で髪をとかされて、少しワックスで整えられた。最近は専らストレートに仕上げることが多かったから、少し束を作るだけで印象が変わる。それから少しだけ目元にメイクされて、ああ、誰だこれ?俺っぽくない。戸惑っているうちに、「俺」が仕上がった。
「それじゃあ、お友達によろしく」
「あ、いや、あの、ミナ、えっと、いや、俺は」
「亥清さんは気づいてないと思いますけど、御堂さんはわかってると思いますよ、ご参考までに。けれどあまり派手な行動は慎んでくださいね、私たちアイドルですし……」
    彼女の立場はマネージャーなんだから、何かあった時に責任を被るのは彼女ですよ。何も話していないのに、ミナはそう言って去っていった。
    ――え。
    バレてんの?俺たち。付き合う時に「みなさんには内緒なら」と言った彼女の言葉が、頭に響いた気がした。

    待ち合わせ場所に着いた時、え、大人っぽいですね、と言って彼女は目を丸くした。俺も改めてガラスに映った自分を見て、そうかも?と言って彼女と目を見合せて笑った。そう言う彼女も、いつもより少し露出が多くて、治安悪いっつか、スカートも短くて、スタッズをギラギラさせてる帽子は俺がプレゼントしたやつだけど……なんつーか……超可愛い。
「いやぁ……その。ミナがさ、色々見てくれを何とかしてくれてさ」
「棗さんが……?」
「あ!いや、ちが、友達と遊びに行くってちゃんと……」
    ……いや、あれは完全にバレてたな。深く言わず、無理やり会話を一旦切って、俺はそっと彼女の手を掴んで、手を合わせた。俺の手よりちょっと小さい手が、少し迷ったように、でもちゃんと繋ぎ返してくれて、安心する。
    俺たちの仕事的にあんまり外でデートは出来ない、なんてのはわかってる。それでも時期は夏真っ盛り。暑くてダルい反面、外のイベントはどこだって大はしゃぎ。基本インドアのメンバーを無理やり誘ってあちこち行くのも楽しかったけど……「彼女」と遊びにだって行きたい。そう思って、俺は今日半日で仕事を終えた彼女をテーマパークに誘った。彼女は渋って渋って、頷いてくれた。
    世間は夏休み一色。人が多い方が、俺は目立たないはずだし、目立っちまってもなんとかなるだろ、なんて楽観的に考えていた。彼女――紡は「何かあったら他人のフリしてください」「ピンチの時には私がŹOOĻのマネージャーってことにしてください」と口酸っぱく言っていた。わかったとは言ったが、本当は俺が彼女を守ってやりたい。そうなりゃやることは決まり。目立たずにデートを楽しむ!逆に言えば、目立たなければ楽しみ放題だ。
    ……って、ちょっと前まで思ってた。
「あ、あの!狗丸トウマさんですよね!?なんか……雰囲気違うけど!」
    声をかけられるコンマ数秒前、何かを悟ったのかいつのまにか紡は手を離している。俺が「あ〜……」と言葉を考えているうちに、紡はそっと場を離れている。……早い。さすがあのアイドリッシュセブンを束ねるマネージャー……内心ぼろぼろ泣きながら、声をかけてくれた女の子たちに笑いかけた。
「ごめんな、今日オフだからさ……」
「あ!そうですよね、すみません……!」
「ああ、でも、その。いつも応援ありがとな!」
    それじゃ、と手を振って、その場を後にする。スマホの通知でラビチャを確認した。テーマパークの隣の区間のカフェで待っている、と目印の写真と位置情報付きで紡から。こういうの、慣れてんだろうな。しかきさっき声を掛けられたせいか、周囲から視線を感じる。……俺もまた、「こういうの」に慣れている。だから、真っ直ぐは向かわない。
    視線を感じなくなるまでそっと人混みに紛れて、誰も自分を見ていないことを確認してから目的地へ足を向けた。今度こそ、楽しいデートをしたくって。
    ちゃんと、手、繋いでいたくって。

    ラビッターに俺の目撃情報が上がったのはあっという間のことだった。見た感じ、さっき声をかけてくれた女の子たちでは無さそうだったけれど、どこにでも「ありがたいファン」とやらはいるもんだ。帰りましょうか、そう言って笑う紡に断る術も無く、俺たちはろくに回れないままテーマパークを去るしか無くなった。
    夏の夕暮れはなんだか休み時間が終わる五分前って感じ。仕事で言うならライブが終わるまでの数曲前。楽しいのに、なんか寂しくて、でも「これが終わりじゃない」、そう思える不思議な感じ。俺は少し距離をとって歩く紡に、そっと手を差し出した。
「なあ、代わりにさ、ここ出るまで手繋いでてくんね」
「……でも」
「そ、その……大丈夫!だいぶ夕方になったし、目撃情報は一時間前だし!見えづらいし!だからさ……」
    そんなこんな言いながらも、紡を納得させるには苦しい言い訳のような気もしたけど……紡は微妙な顔をしたまま、やがてその手を取ってくれた。今度こそもう離したくなくて、俺は優しく、けれどしっかりと紡の手を握る。
    俺たちはテーマパークの入口からは少し離れたエリアにいた。出るまで手を繋ぐ。出たら、この手を離さなければならない。出口がもっと遠ければいいのになんて思いつつ、なんだかいつもよりゆっくり歩いてしまう。あれ興味ある?あれ乗ってみる?たまにそう声をかけつつも、狗丸さん、と紡に優しく制されて、その度に笑ってみせて、なんことないように振舞って。それでも。
    もう少しだけ、こうやって。外で。手を繋いでおきたいのに。俺たちだって、付き合ってるよって。幸せだよって。みんなに見せつけて。俺の彼女、超可愛いよな!?んで、彼氏は俺なんだけどさ!って、思わせて。
    いや……もっと純粋に、外でもっと、紡と触れ合いたいのに。ただ、それだけのことも、アイドルだから許されないのだろうか。自分が憧れたその先にあったものは、こんな……寂しいもんなのか。
「……あ」
    紡が小さく声をあげたのはしばらく経ってからのことだった。足を止めた彼女の視線の先にあったのは、このテーマパークの名物の観覧車だ。夕方から夜にかけてライトアップが始まる。ちょうど、ライトが切り替わって、色とりどりに光っていた。下調べをした感じだと、カップルに一番人気なのはライトアップされた観覧車で、テーマパークを一望できる……確か十分くらいかかるとか、なんとか。
「……あのさ」
    また断られてしまうだろうか、そんな弱気な自分がひょっこり顔を出すのを押し込めて、俺は観覧車を指さした。
「乗っていこうぜ。次、いつ一緒に来れるかわからねえんだから。せっかく……」
    せっかく、一緒に来れたんだからさ。もう二度目があるかわからない、そんなことを考えながら、ようやく言い切ってみた。
    紡はしばらくぽかんとしたような顔をして……やがて、困ったように微笑んで……はい、と頷いた。

    無事に観覧車に乗ってから、俺たちはようやく安心して笑いあった。暗くて色合いがあまりよくわからなかったけれど、暗めの色のものに乗った。
「十分くらい回るんだってさ」
「じゅっぷん……?」
「すごくね?」
「た、高い……んでしょうか」
「そりゃ……乗る前に見ただろ」
「まあ、そう、ですね……」
「……。……高いとこ、無理なタイプ?」
「ああ、いえ!大丈夫です!」
    あはは、と笑う紡はどう見てもやや怖がっていて、俺は笑いながらその手を握った。
「大丈夫だって、落ちる時は一緒だし?」
「それ、シャレにならないですよ……」
「ああ、いや。落ちない!落ちないから」
    ふふ、笑いながら外を眺めた紡と一緒に、俺も窓の外を見下ろした。少しずつ離れていく地面。小さくなっていくテーマパーク。小さくなっていく、と感じていた感覚もやがて麻痺して、ジオラマみたいに思えてくる。ジオラマのライトショー。地面がふわふわして、落ち着かなくなって、たまにガタンと揺れる度に紡が俺の手を強く握った。
    小鳥遊さん、付き合って下さい、そう言ったのはけっこう前のこと。そこから相手にされるまで更に時間がかかって、紡の仕事熱心なところをねじ曲げてまで、あれだけ拒んでいたアイドルとの恋愛をさせている。今日、外でデートしたいって言ったのも俺のわがまま。普段はもっと、隠れた場所で会っている。きっと楽しいから、俺がそう思っただけで外へ出て、結局今日は大変な日にしてしまったし、紡にばっか気を使わせた。
    守ってやりたい、カッコイイとこ見せたい、そう思ってるのに、いつも守られてんのは俺ばっかだ。はしゃいでるのも俺ばっか。
「……なあ、後悔してる?」
    ふと、小さく呟いた。ガラスに映った紡が、俺の方を見ていた。
「俺と付き合ったこと。アイドルと付き合ってしまったこと……」
    紡の小さい手を、両手で包み込んだ。はい、って言われたら傷つくくせに、聞いてしまった。聞いてしまったら、答えを待つしかない。……聞いてしまったことを、後悔した。やがて、ガタンと揺れて、街中が小さな写真みたいになって。一番高いところに来たんだと知った。
「……狗丸さん……。……トウマさん!」
「……あ、ああ」
    紡に名前を呼ばれて、窓の外から視線を移した。下の名前では呼べないかもしれない、間違えて人前で呼びそうだから、と付き合う時に言われていたから、少し驚いてしまって。彼女はぎゅっと俺の手を握り返して、そして、何か躊躇いを吹っ切ったように――。
    時間が止まったように感じた。しばらく高さが変わらないその間、ゆっくりゆっくりとゴンドラが進む間……文字通り、紡と重なり合った。初めて感じた彼女の唇の柔らかさに、頭が真っ白になる。
    いや。え?何。これ。そっと離れた紡が真っ赤になって、また時間が動き出す。少しずつ下降し始めた俺たちと一緒に。俺はそっと……さっきまで紡と触れていた自分の唇を、指でなぞった。途端、急に心臓がうるさいくらいに高鳴って、体中が熱くなって。
「私が決めたんです」
    紡はそう言って、また手を握った。
「貴方といることを私が望んだんですよ。そりゃあ、最初に告白された時はズールの罰ゲームか何かだろうと思いましたけど……」
「思ったんだな……」
「でも、めげずに本気でアタックしてくれたじゃないですか。俺が幸せにしたいって!言ってくれたの嘘だったんですか」
「う、うう、嘘じゃない!俺がお前を幸せにしたいよ!俺が守りたいよ!……でも今日みたいなさ、俺、守られてばっかで……悔しいけどさ、立場的に、俺はアンタを守れないしさ……」
「……でも、楽しかったです」
「マジで?だって、俺は見つかるし、紡は気つかってさ……」
「……それでも、いぬ……トウマさん、オシャレしてきて下さったし……どきどき、しました。棗さん、さすがですね……」
「どきどき、したんだ」
「しました、ちょっと」
「……ちょっと、だけ?」
「……今の方が。どきどき、してますから……その……えっと……さっきのは、勢い、で……」
「……ああ、キス……」
    ……。お互いに顔を見られなくなって、俺たちは反対側のガラスを見ていた。十分間が非常に長く思えたのに、少しずつ大きく……現実的になっていく景色の大きさに、そんなに長い時間ではなかったんだと感じる。
「……私は……確かに……その……ものすごく、悩んだし……今も……悩まないかって言われたら嘘になりますけど……」
    ぽつ、ぽつと、紡が言葉を零す。……あー。また。俺が不安になってしまったから。俺が不安なのを伝えてしまったから。安心させようとしてくれているんだ。
    また、俺を守ろうとしてくれてる。守らせてしまってる。……かっこわりー。「御堂さんじゃないから心配」、ね。ミナの言う通りだわ、心の中でため息をついて。
    観覧車のタイムリミットはもう少し。結局、ライティングをきちんと見ていなかったような気もするが。
「……なあ、紡」
「はい」
「……その。えーっと。……あー。」
    ロマンチックなデートにしてやれなくて、ごめん!
    そう言って、紡の腕を引いた。肩をそっと掴んで、背中を優しく引き寄せた。驚いた顔の紡が、すぐ側にいて。
    そのまま、顔を近づけた。……観覧車の揺れでゴン!と勢いよく額をぶつけて、ごめん!って言いながら、そのまま近づいて。紡は真っ赤になって。なんかもう、どうにでもなれと思って、そんな紡の唇を奪った。
    目を閉じて。紡の体をそっと俺の膝の上に乗せて。こわごわと、ぎこちないまま、紡もちゃんと俺に抱きついてくれてて。ちらっと目開けたら、紡も真っ赤で、近くて。慌てて目をつぶった。
    お互いに恋愛経験は豊富じゃない。俺たちはとても不器用なキスをした。優しくくっつけて、離してみて、やっぱくっつけてみて。こういう時ってなんか……なんかあったよな!?って思いながら……いや、と思い直す。
    ……なんか、俺たちっぽくて、これでいいか、って。
    何度かキスをしているうちに、ガタガタと下降して、二人で外を見た。もう、すぐ終わりが近づいてきていた。俺たちはあわてて離れて、二人で顔を見合せて……笑った。
    お疲れ様でした、と案内してくれる係の人に従って俺は先に降りて……紡に手を差し出した。紡はその手を取ってくれる。そのまま、よっとゴンドラから彼女を下ろした。
    紡は、とった俺の手に指を絡ませた。……そっと、俺も同じように、指を絡めた。テーマパークを出るまで、俺たちは誰に声をかけられることも無く、気づかれることも無く、二人でゆっくりと歩いていった。
    二人で、静かに、ゆっくりと。……俺たちだけのペースで。

「昨日トウマ、遊園地いってたんでしょ!?ラビッターで写真撮られてたの見たけど……まさか一人で行ったわけ!?」
    翌日、楽屋で、まさかハルに詰められるとは……と思いながら、ああ、と微妙な返事をした。
「お、俺らとか〜?連れてきゃよかったじゃん……そ、それとも別の人?なんか……前のメンバーとか……」
「あ〜っ、いやいや、そういうんじゃない。全然、そういうんじゃないからさ……」
「えーっ」
    ちらちらとミナとトラを見てみたけど、どうやら助け舟はなさそうで。俺は大人しく、一人でテーマパークを歩いた上に見つかった間抜けなオフのアイドルとして話を合わせていた。そんな時、ノックの音がして、どうぞ、と声をかけたら顔を出したのは……紡だった。もちろん、今日はいつもの会社員スタイル。全体的にシャキッとしてて、やっぱデートの時とは別人に見える。
    ……まあ、でも、クールで可愛いんだな、これが。
「ズールさん、本日はよろしくお願いいたします!すみません、アイドリッシュセブンのメンバーが到着遅れていたので、先に私だけですけれど……!」
「ああ、よろしく……お願いします」
    ふと紡を見ると、ばっちり視線がバッティングした。あ。やべえ。俺もそう思ったし、紡もそう思ったのかもしれない。多分俺たちは……一緒に真っ赤になった。だって。
    昨日の――観覧車の中の出来事――が、俺たちの初めてのキスだったから。思い出す、感触も、熱も、感覚も。
「……あら、昨日はいい感じだったんですか?」
「やることやったのか?」
「やっ……!?バカトラ!キスしただけだって!」
「えっトウマさん!?……あ、い、いぬまるさん……」
「トウマ……さん?小鳥遊さんってトウマと名前で……え?何?き、きす……?きす?」
「あ、ちがっ、これは……ちがくて!」
「ああっ違うんです!違うんです〜!」
「なんだキス止まりか」
「嫌ですね御堂さん。貴方とはステップの高さが違うんですよ、狗丸さんからしたらお赤飯物です。炊いてきましょうか、私」
「だ〜っっっ!」
    情報量の多さにとりあえず混乱してそうなハルと、やっぱり俺をうっかり名前で呼んでしまった紡と、親みたいな目でこっち見てるミナと、つまんなそうにもうスマホ見てるトラと、テンパってる俺。そのうちに楽屋にアイドリッシュセブンが来て、スパッと紡もミナもトラも態度リセットしてくれて、空気はいつも通りになって。
    ハルだけが狐に摘まれたような、何かに気づきそうで気づかなさそうな顔をしたまま、その日の収録が始まった。
    収録の休憩時間、ケータリングを配る紡を手伝った。配り終えて、片付けを終えて。和やかな雰囲気でみんながだべってる部屋の中へ戻ろうとした俺の手を……するっと、紡の指が撫でた。どきっとして顔を見ると、少し照れながら……紡は扉の影で、そっと手を差し出す。俺も……やや周りを気にしながら、その手に自分の手を重ねた。する、するり、自然とお互いに指を絡めて。ぎゅっとして、それから……名残惜しさを残したまま、離れていく。思わず、堪らなく触れたくなってしまう。
「……あ、のさ、今夜……とか……会えない?」
    勢いでそっと囁くと、紡はさっき絡ませていた手を反対の手で撫でながら、首を横に振る。やべ、やっちまった、がっついてるって思われたか!?焦って何か言い訳をしようとした俺に、紡がそっと囁く。
「まだ……どきどきしてるんです、昨日のこと……。だから……また、二人で……会う勇気が……出来てからで……。……すみません……」
「……え」
    なあ、それってどういう意味?聞こうとした俺をかわして、部屋の中に元通り元気なマネージャーが戻っていく。俺もまた、さっき重ねた手を反対の手で撫でながら、昨日よりも高鳴る鼓動を持て余していた。
    俺たちのペースは、きっと周りよりもずっとゆっくりで、けれど確かに進んでいる。
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NO IMAGE リュウ みなつむSS 馬鹿みたいだ


    最後、彼は微笑んでいた。自分も笑っていた。これでお別れなのだと思いながら交わしたキスはやけに淡白で、それが余計に終わりなのだということを紡に実感させた。離れていく彼の熱は、いつもの何倍ものスピードで消えていった。
    現場での自分たちは何ら変わらない。この時ばかりは他社で働いていることに感謝した。もし自社で毎日顔を合わせていたら、いつもの様に笑顔は繕えなかっただろう。付き合っていることすら周りの誰にもバレなかったのだから、別れたって何が変わるわけでもない。変わるのは自分たちの気持ちだけだ。
    人は変わる。時間が合わなくなった。生活が合わなくなった。何より些細な価値観が合わなくなっていった。紡がいくら努力を重ねても塗り替えられなかった違和感を、彼は負担に思っていたのだと知った。彼もまた努力で塗り替えようとしていたことに、紡も負担を感じてしまっていた。だから……別れましょうか、そう言われた時、ほんの少しだけほっとした自分がいたのも事実なのだ。
    部屋に残された私物は各々で片付けておくように決まった。たまにお互いふらっと家に泊まりにきていたから、下着や小物なんかが少しだけ残っていた。紡はそれらを拾い集めながらも、捨てられないままそっと箪笥にしまい込んでいた。今日こそはと思って引き出しを引いても、手が震えてまた押し戻す。その繰り返し。今日、お疲れ様ですと声をかけてくれた彼に、ちゃんと笑い返せていただろうか――。

    帰宅後、買ってきたものを冷蔵庫に詰めながら、紡はふと手元にあるゼリーを見やった。スーパーによく売っている安くて容量の多いゼリーが、二つビニール袋に入っている。
    二つ。
「……間違えちゃったな」
    はは、と乾いた自分の笑い声が静寂に木霊して、ふと紡は部屋をゆっくり見回した。ソファにはクッションが二つ。テレビの前で、笑っていたいつかの自分たちが見えた気がした。くだらないことで笑い、くだらないことで喧嘩して、それでもその先に幸せがあると信じていた。終わりなんて、想像したこともなかった。あの時からずっと彼は悩んでいたのだろうか。何も考えずに彼に甘えていた自分に反して、彼は……。
「馬鹿みたい、私」
    ぽろぽろと止まらない雫が頬をつたっていく。構わずに馬鹿みたい、馬鹿みたいだ、と繰り返した。
    終わったことなのに。私はまだ、きちんと終われていないようだ。



    いくら唇を重ねても、いくら体を重ねても、埋まらない何かがずっと自分たちの邪魔をしていた。何度手を重ねても、心まで重なっていない違和感が、ずっと巳波を悩ませていた。
    長く付き合っていくうち、お互いに忙しさは増していった。手柄を立ててキャリアを積んでいく彼女と、アイドルとして大成していく自分。成長は楽しかった。忙しさすら心地よいと思っていた。彼女の成功も、自分の事のように嬉しかった。ただ、少しずつ、自分たちの関係には疑問を抱き始めていた。
    仕事と自分、どっちが大切?なんて、厄介な恋人同士の揉め事の常套句に過ぎないと思っていたのに、自分がそう思う日が来るとは思わなかった。巳波が二人で一緒に過ごしたかった日を、彼女は自分の担当アイドルと過ごした。ごめんなさい、と後日訪ねてきた彼女を抱きしめても、寂しさが埋まらなくなって行った。……焦った。
    自分が彼女を嫌いになってしまうのが、怖くなった。だから。別れましょうか、重くなりすぎず、軽くなりすぎないように、二人で並んで座っている時に、そう言って微笑んだ。何処を見ればいいのかわからなかったから、宙の一点を見据えて。横目で見た彼女の顔が強ばっているのに気づいて、慌てて目を逸らした。言葉は何も続けられなかった。やがて、わかりました、と言った彼女は微笑んでいた。いつものように――。
    別れを切り出したくせに、出ていく彼女を抱きしめたのは自分だった。愚かしい、馬鹿みたいだ。そう思いながら困惑気味の彼女の唇を奪った。それ以上はもう駄目だ。そっと触れて、離れた彼女の熱が、いつまでも……今でも、唇から離れていかない。

    現場での彼女と自分は普通のままだ。誰に付き合っていることを話してもいなかった。だから、変わったのは自分たちの気持ちだけ。外観は何も変わらない。秘め事はそのままに。しかし、どうしても彼女の揺れる後ろ髪を目で追いかけて、やめる。その繰り返しだ。彼女はもう吹っ切ってしまったのだろう、巳波のような名残を惜しむ様子は微塵も見受けられなかった。
「女性は、強いな……」
    彼女の私物は別れた日にすべて捨てた。名残惜しい、離れ難い、そう思う前にすべて消し去ってしまいたかった。それなのに。部屋のどこに居ても、なぜだか彼女の匂いがする、気がする。彼女の気配がする、気がする。冷蔵庫の中身を取り出しながら、夕飯何に……と声を掛けようとして、誰もいないワンルームの居間を見つめて、はっとする。
    これじゃ、振られたみたいじゃないか。振ったのは自分の癖に?
「馬鹿みたい、私」
    ぽたり、床に落ちた雫を見て、慌てて巳波は袖で涙を拭う。なんだか妙に可笑しくなって、馬鹿みたい、馬鹿みたいだと呟いた。
    終わらせたはずなのに。私はいつまでも、終わりに出来ないままでいる。
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NO IMAGE リュウ みなつむSS あまくテニガイ


    ざら、ざらり、舌が擦れる度に頭のどこかが痺れていく。ざら。思考が曇っていく。ざらり、もっと、もっと、舌先ではなくて、その先へ。もっと、根元の方へ……欲しくなる。求めて自ら絡めていけば、そんな自分を楽しんでいるのだろうか、相手はそっと逃げて、唇を合わせて、またその間から割り込んでくる。息をするのも忘れるほど夢中になって、呼吸が苦しくて、しかして今度は離れてくれない。後頭部と顎を掴まれたまま、今度はされるがままにするしかない――。
    ようやく解放された瞬間に、紡は息を吸った。はあ、はあと肩で息をする紡と同じように、巳波も熱を持った息を吐きながら、しかしその瞳はぎらりと光を称えたままだ。先程まで紡のそれと絡めていた舌でそっと唇を舐めずって、口の端を歪める巳波の仕草に、紡は背筋に妙な熱を感じ、体が熱くなっていく。
「ねえ……」
    今日は。それだけ言って、答えを待つ巳波の人差し指が、紡の首から顎を伝って輪郭をなぞった。もう反射を抑えられなくなっている体を震わせながら、紡は……小さく頷く。
    満足げに微笑んだ巳波の手に引かれ、紡はすっぽりとその腕の中に包まれていく。ざら、ざらり。今度は自分の首筋を伝うその感覚、熱。堪えきれなくなった紡のしずれた声が、二人を夜へと誘っていく。
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20240717194230-reverseroof.png
NO IMAGE リュウ みなつむSS 泣いてください

【ネタ部分呟き】
仕事で厄介Pに精神ボロボロにされて帰ってきて何も言わずに巳波の膝の上に座る紡を何も言わないでよしよしって撫でる巳波
ぽろぽろ泣く紡が落ち着くまでそのまま
きっともうずっとそういう流れなんやろなっていう
巳波の前で泣けるようになるまで紆余曲折は絶対にある
「泣いていいですよ」じゃなくて「泣いてください」って言われて初めて泣いたんじゃないか


「荷物もってもらってすみません、棗さん。助かりました」
「いえいえ」
    ドサッとマネージャーが荷物を下ろした。事務所の奥まった部屋の扉を開けて、再度荷物を抱えた彼についていき、指定された場所に荷物を下ろした。ダンボールの中には山のような書類が詰まっている。一人で何箱も持っていこうとしていたマネージャーを見つけて、手伝いを申し出て、今に至るが、二人で三往復。この人は一人でやるつもりだったのだろうか、と半ば呆れながら、壁に背をつく彼を見やる。
「いやー、助かりましたよ、本当に。僕しか手が空いてなくて」
「……こういう雑用、宇津木さんがやるべきことだったんですか?」
「いやあ、誰かはやらないといけないので」
「この後は?」
「これの整理です」
    はは、となんてことなさそうに笑う彼と、今まで運んできた数箱のダンボールを見比べた。自分は割と業界の人間の苦労を知ったつもりでいたけれど、それもまだまだ上辺のことだったのかもしれない。
    ふとぼんやり、”彼女”のことを想った。
「……宇津木さん、若手の頃悩んだこととかありましたか」
「若手の頃ですか」
    彼はもう私から目を離し、ダンボールの中身を長机の上に並べ始めている。書類、ファイル、必要なのか不要なのか私には判別のつかないようなくしゃくしゃの紙の束。慣れた手つきで処理していく彼はこちらに目をやることなく、言葉を返す。
「若手の頃は流石の僕もいっぱいいっぱいでしたけど。少しは話したかもしれませんが」
「靴下がちぐはぐだったお話ですとかなら」
「そうそう。だからたくさん悩みはしましたけどね。ほら、この業界って、理不尽の塊だから……納得のいかない叱責を受ける度に、心の中で舌を出したもんですよ」
「いまも十分そういう風に見受けられますけど……」
「はは、そうかもしれませんけど、今は昔よりは余裕あるつもりですね」
    会話をしながら、もう一箱、中身を整理し終えてダンボールを畳む彼の姿には、妙な説得力がある。
「……小鳥遊さんはどうでしょうね、何が嫌で、何が悔しいのか」
    一瞬、体が強ばった。マネージャーは相変わらずこちらを見ないまま、しかしおかしそうに笑いながら、手元の仕事をこなしていく。
「最近の棗さん、わかりやすくって助かります」
「……宇津木さんは相変わらず、ノンデリカシーですね」
「僕、抱かれたい男じゃなくて、察せない男なので」
    嘘つき。声を出さずに口を動かすと、彼は少しだけこちらを見て、カラカラ笑った。
「小鳥遊さんのことは小鳥遊さんに聞いた方がいいですよ。聞いておきましょうか、何して欲しいか」
「……結構です」
    自分で出来ますから。
    強がった。そのまま失礼します、と一声かけて部屋を出る。しばらく歩く。スマホの電源をつけて、メッセージアプリを開いて、彼女のところを開いて、閉じて、また開いた。その繰り返し。
    やっぱり、聞いてもらえばよかったかもしれない。最近なんだか疲れた顔をしている彼女を思い浮かべながら、そのままスマホをポケットに入れた。

    最近、現場で彼女を見る度、どうやら元気がなさそうだ。初めは具合が悪いのだろうかと差し入れをしてみたり、疲れているのだろうかと思って労いの言葉をかけたりしてみたが、何も好転しているように見えない。寧ろ日増に、彼女は疲れていっている。
    私は常に傍に居られない。彼女が受け持つアイドルの彼らにこっそり探りを入れてみたけれど、わからずじまいだ。彼らが支えてくれるのだと安心したかったのに、どうやら彼女は彼らの前ではいつも通り振る舞っているようで。察しが良い人たちも、あまり綻びを感じ取ってはいないようだった。――役者の自分より、彼女はずっと役者かもしれない。
    それでも、自分のアイドルが目の前にいなくなると、彼女は顔を曇らせる。仕事中、休憩、束の間、ふと彼女がいた方を見やると、何やら不機嫌そうなプロデューサーに頭を下げている姿が目に入った。……業界ではほんの少し、悪い意味で有名な人だった。私も少しは知っている。
    この業界、理不尽の塊だから。
    マネージャーの言葉が頭を掠めていく。

    悩んで悩んで、結局私が送ったのは『今夜、ご予定如何ですか?』なんていうちゃちなメッセージだった。送った私ですら、夕飯に誘ったのか、家に行きたいのか、どのような意図なのか、よくわかっていない。とりあえず、何か送らねばと思った結果、そんな曖昧な言葉になった。彼女はどう意図を汲んでくれるだろうか。彼女の判断に委ねてみようかな、なんて思いながら返事を待った。
    返事が返ってきたのはもはや夜になってからだった。仕事を終えてしばらくしても彼女から既読すらつかず、メンバーには少し残って作業があると言って事務所の部屋を借りた。スマホでできる範囲の作曲作業をして、いい加減帰ろうか、なんて思った頃に来たのは、なんとも名状しがたいスタンプでの返事だった。怒りなのか、悲しみなのか、笑いなのかすらわからない、謎の生き物のスタンプ。どうしたものかと思いつつ、とりあえず返事をひとつ。
『まだ私、事務所にいますよ』
    今度は瞬間で既読がつく。開いたままにしているのだろうか。もう一度、今度は別の生き物のスタンプが来てから、メッセージ欄は記入中の吹き出しになった。
『まだお仕事ですか?』
『いえ。貴方からお返事が来るかなと思って』
    しばらくメッセージが途絶えた。ストレートに言いすぎただろうか。自分のせいで私が家に帰っていないことを気に病むだろうか。しかし。
『前回お会いしたの、三週間前なんですね』
    カレンダーを確認していたのか、と理解する。付き合う時、スキャンダルを気にして、せめて三週に一度しか会えない、と言ったのは彼女のほうだ。そうですね、と相槌を打った。またわけのわからない生き物のスタンプが送られてきて、しばらく待つ。
『……明日、朝早いですか?』
    指先で髪の毛を弄びながら、少しどぎまぎして、しばし返事が打てず、やがて『いいえ』と返す。続けて『泊まりに来ますか?』と、送ってみた。
    メッセージが記入中になり、取りやめ、記入中になり、それを繰り返して数回。たっぷり約五分経ってから、彼女から今度は可愛らしいキャラクターの『おねがいします』と書いたスタンプが送られてきた。私は私のスタンプを送っておいた。

    私はアイドル。彼女は別の事務所でアイドルのマネージャーをやっている。つまり私たちが恋愛関係にあるのは、ゴシップ誌がこぞって集る餌でしかない。本当は事務所に迎えに行って、二人で手を繋いで、いや肩を抱いて?……笑い合いながら、時には愚痴を言い合ったりして、気がついたら私の家に着いているような、そういった脚本の中のような恋愛に憧れない訳でもないが……現実では合鍵を渡しておくのが精一杯。私が帰り着く前に、彼女から『お邪魔します』とメッセージが届いていた。先に着いたようだった。
    いつも誘うのは私からだ。それも、かなり無理やり誘わなければ、家になんて来てくれない。それなのに、今日は。ともすれば。
    彼女、私に会いたいのか。高揚感はすぐに冷静さに変わっていく。最近の彼女を思い出す。しばらく時間が合わず、通話もろくに出来ていない。いつもなんだか疲れているようで、今日見た姿はプロデューサーに頭を下げている姿だけだ。すっと背筋を正してから、自分の家の扉を開けた。鍵は開いている。
「あ、おかえりなさい!ご飯、食べましたか?」
「……ただいま。まだです、貴方は」
「私、まだで……何か作らせてもらおうかなって……あ!キッチン、綺麗に使いますので!」
「いいんですよ、鍵を渡しているんだから、もっと自由に家を使ってもらって」
「そ、それはやっぱまだ気が引けるというか……」
    あはは、と笑う彼女は……悲しくなるほど、元気そうだった。彼女のアイドルたちの前で笑い続ける彼女のまま、そのものだった。胸の奥がギリ、と軋んだ。私も……そんな彼女に、上手に笑い返してみせる。
「私が作りますよ。貴方はリビングに座っていて」
「えっ」
「料理がしたい気分なので。何が食べたいですか?和食か、洋食か」
「えっと……でも……」
「中華は材料がないので。和か洋か。どっちです?」
    彼女はストレートに選択肢を用意して迫ると、必ず答えるところがある。それなら、和で……と答えながら素直にソファに座る彼女の姿を見つめながら、私は冷蔵庫から卵と肉を取り出した。

    美味しかったですね、と彼女はまた、笑った。そうでしょう、と私もまた、笑った。変な間が起きるのを恐れて、何となくテレビをつけた。アイドルブームの現代、テレビに映っていたのは未だ無名のアイドルだった。その次に、私たちの映像が流れる。二人で並んでソファに座り、テレビの中の私を見つめる。客観的に見れば、おかしな光景かもしれない。
「……お風呂、入れますよ」
    ふと声をかけてみると、彼女は一瞬遅れて反応した。
「え?ああ、えっと」
「自律神経を整えるには湯船に浸かるのがいいですからね。ごゆっくりどうぞ」
「いや、棗さ……、巳波さんのお宅ですのに、私が先に入るのは、申し訳なく」
    急に慌て始めた彼女をじっと見つめる。こういうところ、妙にきっちりしているあたり、生真面目さが伺える。だから、だからこそ――心配なのだ。
「……それじゃ、一緒に入りますか?そしたら問題は解決しますよね」
「え!?」
「二人だと少し狭いですけど、まあ入れないことはない――」
「す、すみません、お風呂先に頂きます……」
「……ふふ、残念です」
    入浴剤ありますから、と言って彼女に渡す。そのまま彼女は脱衣所へ入っていった。テレビはいつの間にか、もうアイドル特集を終えたようだった。一人になってしまうと、なんだかそんな気分でもなくなって、テレビの電源を切る。部屋が静寂に包まれて、彼女が湯船に浸かった音が聞こえた。
    恋人と過ごす久しぶりの夜。泊まりがけ。風呂に入る彼女。その後には私が身を綺麗にして。……しかし。
    言葉とは裏腹に”そんな”気分になれないのは、どうしてだろうか。

「電気消しますね」
    スマホで操作して電灯を切った。そのまま布団に潜り込むと、先にすっぽり顔まで布団に潜っていた彼女が少し身を強ばらせたのを感じた。
「貴方の了承なく、何もしませんよ。安心して」
「わ、わ、わ……わかってます、けど。久しぶりにお会いして、その……こ、こんな近く、にいることが、ですね……」
「三週に一度しか会えないって言ったのは貴方で、今日泊まりに来ることにしたのも貴方ですよ」
「……お返しする言葉がありません……」
「……私に会えて嬉しくないんですか」
「う、嬉しい、ですよ……嬉しい……です!」
「……私も」
    会いたかった。そう言って頬を撫でると、ほのかに彼女の頬が色付いた気がした。そのまま髪を梳く。指に絡まる髪に、指を絡ませて、頭を撫でた。恥ずかしそうにしながら……しかし、いつもよりも素直に私の手に擦り寄る彼女の体を、そっと引き寄せた。またかちこちと強ばった彼女の背中を、そっと撫でて、落ち着かせる。
「……あ、あの」
「はい」
「今日って……お泊まりするって……あの」
「はい」
「そういうこと、しますか」
    少しずつ私の腕の中に引き込まれていく中で、彼女は少し不安そうにそう言った。複雑な気持ちのまま、どちらでも、と答えると、彼女は悲しそうな顔をする。……現場で見たような顔だ。傷つけた?半ば焦って、そっと擦り寄った。
「……貴方が嫌じゃなければ、私は、ぜひ」
「……」
    彼女は答えないまま。私は言葉を失ったまま。
    ……やがて、二人とも黙ったまま、私は天井を見上げていた。彼女の体をそっと引き寄せたまま、優しく撫でているまま。
    今日が終われば、また会えるのは三週後。しかし。言い換えるならば……別に、抱き合うのは三週後でも構わない。
    今日はもっと、他になすべきことがあるのだろう。そしてそれはきっと、三週後では、もう遅い。
「疲れているでしょう」
「まあ、今日は現場移動も多かったですから」
「いえ。最近、ずっと。貴方は何かに疲れている」
「アイドリッシュセブンの人気のおかげですよ。嬉しい悲鳴です」
「そうですか」
「巳波さんこそ、疲れてませんか」
「言うほど疲れては無いですよ。仕事も楽しませて頂いてますし」
「そうですか」
    間が空いた。そっと彼女の背中だけは変わらずさすっていた。そうすべきな気がしていた。凪いだ夜に、衣擦れの音だけが静かに響く。
    時に思う。私たちは、素直ではない。私も、彼女も。彼女はまっすぐな人だと思っていたけれど、相手が私だから、ひねてしまったのだろうか。それならそれで、嬉しいような、困ったような、微妙な気持ちになるけれど。
    彼女の方を盗み見た。天井をぼんやりと見つめている目は、少し眠たそうなものの、今すぐ眠る気配はない。私が彼女の背をさするうちに、彼女は私の服の腕のところを恐る恐る掴んだ。……遠慮がちに甘えている仕草だった。
    ふー、と長く息を吐き出して、私は天井に向かって言った。
「私、泣こうと思います」
「え」
    彼女ははっきりこちらを見た。何を言っているのか、そんな顔をしている。私は微笑んで、その頭を撫でた。
「今から泣きます」
「やっぱり何かお辛いことでもあったんですか!?ちゃんと宇津木さんに相談できてますか!?」
「いえ、別に。でも、悲しくなくても泣くと良いらしいですよ。ストレスが減るんですって」
「はあ……そ、そうは言っても急に泣いたりできるもんですか?」
「役者ですからね」
「はあ」
    やがて、彼女はぼとぼと涙を落とし始めた私を見ておろおろしていた。別に何が悲しい訳でもない。そんな彼女を見て笑うと、より訳が分からないといった顔をしていて、可愛らしい。
「貴方も、泣けばいいですよ」
    彼女はきょとんとした顔で、私の涙を袖口で拭った。
「いや、違いますね。泣いてください……でもなくて。貴方も泣いて。泣きなさい。私と一緒に泣くんですよ」
「何をおっしゃってるのか……」
「辛いから泣くのでも、弱いから泣くのでもありませんよ。恋人にせがまれたから、泣いてください。それだけです、ほら」
「……そんなこと、言われたって」
「泣き方がわからないなら、教えてさしあげますよ。役者はいつだって、笑いたい時に笑えるし、泣きたい時に泣けるんです。そうじゃないなら、役者なんてやめた方がいい。……貴方も、立派な”役者”をやるのなら、今、泣いて御覧」
    黙った彼女の背をそのまま優しく撫で続けた。反対の手で、頬をなぞる。複雑な面持ちの彼女は、少し現場の雰囲気と似ている。
「私は……立場上、貴方の仕事の内容は聞けないし……私に言えない愚痴もあるんでしょう。でも、ほら。一緒に泣けますから。いつだって、貴方が泣きたい時に一緒に泣いてあげる。代わりにではなく、一緒に」
「……巳波、さん」
「世の中、一瞬で泣ける役者ばかりじゃないんですよ。せっかく仕事が出来る彼氏なんですから、利用すればいい」
    さあ、ほら。そう言ってまた泣いてみせると、今度こそ彼女の目元にじんわりと雫が溜まっていく。
「そう、その調子。……筋がいいんじゃないですか」
    さすが、棗巳波の彼女ですよ。そう言って、彼女を包むように抱きしめると、そのうち嗚咽が聞こえ始めて。震え始めた体を上から下へ、下から上へ、抱きしめたまま、撫で続けて。
「……良い子ですね」
    そのうちに彼女は、声をあげて泣いた。私の背に手を回して、力いっぱい抱きついて。小さな体を震わせて。約束通り、私もそのまま泣いていた。
「貴方はあくまで泣きたいわけでもなんでもない、そうでしょう」
「……」
「私もそう。おそろいですね?」
「……。……はい……」
    そうですね、と泣きながら笑った彼女をさらに抱きしめて、その夜、私たちはずっと泣いていた。ずっと――。
    なんだか子供っぽかっただろうか。らしくなかっただろうか。もっと大人な手段で、もっと私の言葉や何かで、彼女を癒せたのではなかったのだろうか。しかし翌朝、私たちはお互いに泣きすぎて腫れた目を見て、二人で笑った。きっと、心から。
    彼女が本当に笑うのを見たのは、実に三週ぶりのことだったかもしれない。

    おかえり、と声を掛けたが返事はなかった。いつもよりやや乱暴に鞄を置き、ジャケットを脱いで壁にかけ、不機嫌を顕にしながら……私の膝の上に小さく収まった。お互いに何を言うでもない、私もそのまま彼女の体を包み、頭を撫で、その背に頭を預けた。
    ぽた、ぽた、とたまに手に零れて落ちているのは彼女の涙だ。あえて拭うことはしない。そのまま、彼女が泣き終わるまで、私たちは何も言わないし、何もしない。何があったかも聞かない。ほんの少し体をさすって、抱きしめて、涙を流す手伝いをするだけだ。
    あの日を皮切りにして、本当にごく稀に、彼女はこうやって涙を流す。――悲しいことがあったわけでも、辛いことがあった訳でもないのだ。私がそう頼んだから。そういう名目で、彼女は泣く。泣けるように、なってきている。少し泣けばまたすぐに落ち着く。運命が違っていれば、彼女は名女優のライバルだったのかもしれない。落ち着いた彼女は、言い訳がましく人差し指を立てながら言う。
「……巳波さん、私が泣くと嬉しそうにしますからね、だから泣いてるだけですよ、泣いてみせてあげてるだけです」
「あら、私のために泣いてくださってるんですね。嬉しいです」
「……そうでしょう?」
「ええ。これからも私のために泣いて、私のために笑って、私のために生きてください。ずっと貴方の全て、私のために生きて」
「それは……うーん……アイドルのマネージャーとしては難しいというか……」
「興醒めですよ。台詞だけでも言ってくれたらいいのに」
「私は役者さんじゃありませんから」
「ふふ……なら、まあ、せめて、泣くのだけは私のためにしてくださいよ。私、貴方の泣き顔が好きなので」
「趣味が良くないですよ」
「良いと思いますけどね、普段気丈な貴方の弱っている姿――」
「巳波さん!」
    ふふ、と笑いながら、そのまま体をもっと引き寄せて、改めてしっかりと膝の上に彼女を乗せた。帰ってきた頃と対照的に、彼女はころころ表情を変える。そっと頬に口づけて、真っ赤になった彼女が身じろぎする前に、今度こそ唇を奪った。……ほんの少し、涙の味がする。
    唇が離れるとそれはそれで名残惜しそうな顔をする彼女に、自覚はない。私は……彼女の表情のひとつひとつが愛しくて、仕方がない。仕方がなくて、そのまま抱きすくめて。
「そういえば、宇津木さんに最近言われましたよ。棗さん、あの時上手くやれたんですね、って。なんの事だかわかります?」
「……さあ、なんの事でしょう」
    夕飯、出来てますよ、と声をかけると、彼女は顔を綻ばせる。じゃあ私が準備しますね、と言って聞かない彼女に台所を追い出される。二人で手を合わせて、食事を取って、風呂が湧いた。着替えを用意している彼女に、私は、ねえ、と声を掛けた。
「……今日って、そういうつもりでいいですか?それとも一晩中泣きますか?」
    彼女は何も答えないまま、真っ赤な顔を小さく振りながら、脱衣所へ入っていった。ふふ、と私は小さく笑みを零した。
    どうやら、明日は目を腫らさなくてすみそうだから。
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NO IMAGE リュウ みなつむSS 解放

「……?巳波さん、お昼の薬はもう……」
「……嫌ですね。私が管理しているんだから、疑わなくたって大丈夫ですよ。今日のお昼はまだ飲んでません」
「……でも、こんな……こんなのでしたっけ……」
「……飲めないなら飲ませてあげます」
 錠を一つ、水を含んで無理やり彼女の唇と自分のそれを重ねた。今日に限って彼女は普通で、いつも通りで、でももうそれくらいでは引き返そうと思わないくらいに、私は壊れてしまっている。不審そうに嫌がる彼女の口の中に無理やり入れた錠は、何故だか甘い。諦めない私に根負けして、そのうち彼女はすべて飲み込んだ。そのまま彼女の唇をそっと舌でなぞって、口の中を味わっていく。ざらり、彼女の舌が絡まって、ああ、甘い。甘い。甘い……。
 一通り彼女を味わって顔を離すと、焦点の定まらない瞳で彼女が私を見上げている。即効性のある薬というのは本当だったらしい。
「……巳波さん、これ、は……」
「大丈夫ですよ。いつもより少し強い安定剤をもらっていたんです。最近の貴方、不安定ですから」
「そ、そう……です、か……?」
 既に呂律が怪しくなっている彼女が愛おしくて、そのまましばらく頭をなでる。髪の毛を指で梳くと、そっと手に寄り添ってくる彼女のそういうところは付き合った頃からなんら変わらない。好きで、好きで、好きで。彼女に付き合えないと言われるたびに引き裂かれそうだったことも、ついに彼女に受け入れてもらえた時にこの世のすべてを愛せそうに思えたことも、彼女が生涯を共にしてくれると頷いてくれた時の幸せも、すべてすべて。
 ――走馬灯。
「……準備しなくちゃ」
 彼女のスマートフォンの電源を落とした。通知欄にあった「七瀬陸」の文字を見て、少しだけ罪悪感に襲われる。けれど、でも。もう、いいですよね。貴方たちに彼女はあげない。真っ黒になった画面を下にして、私のスマートフォンを切ろうとして……未読の通知にあるメンバーの名前に、一瞬だけたじろいだ。
 ――ねえ、紡さんと……別れなよ……もう巳波、見てらんないよ。そう言った亥清さんも、それを心配そうに見守ってくれていた狗丸さんも、御堂さんも……。
「……ごめんなさい」
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。心の中で何度も謝りながら、自分のスマートフォンの画面も暗くなった。そっと床に置いて、遠くに蹴り飛ばした。きっと今夜電話が来るだろう。私はそれには出られない。
 ――私たちを最初に見つけてくれるのは、彼らだろうか。
「……み、なみ、さん……?」
「……大丈夫、傍にいますよ。……もうずっと一緒です。これでずっと……最期まで一緒ですよ……もう、私がいないって寂しくなって自傷しなくたっていいし……喚いて傷つくこともない」
「な、なんか、変……ですよ。みなみ、さ……」
「言っていたでしょう、ずっと一緒にいてほしいって。どこにも行かないで、傍にいてくれって。これしかないんです、もう。こうするしか……こうするしか、ないんですよ……」
 身なりを整えていく。少し前に用意しておいた綺麗なドレスで彼女を彩る。力が入らない彼女を着せ替えるのは聊か大変ではあったけれど、ほら、こんなにも似合っている。
「結局、お互いに忙しくて式も挙げられませんでしたからね。ほら、ウエディングドレスには少し及ばないけれど……ああ、メイクアップも。勉強しておいたんです……ほら、整えるから、もう少し起きて……。……もう、起きてられませんか」
「な、んか……ちから、が」
「ふふ、へにゃへにゃで……可愛らしい」
 大丈夫ですよ、そう言いながら彼女の体をそっと壁に寄りかからせて、彩っていく。このために数日、女優のメイクアップアーティストに練習させてもらっていたのだから。妻に化粧をしてあげたいのだと言ったら、ああ、さすが愛妻家ですね、と言って微笑まれた。
 私たちのことはどう報道されるのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、彩った彼女の顔は、花が咲いたようだ。
「ほら。ね、私、結構要領いいつもりなんです。可愛いですよ、紡」
「……ぁ……」
「ふふ。嬉しいですか?そうですか……それならよかった」
 ぁ、ぁ、と小さく聞こえる彼女の声は肯定なのか否定なのか、歓喜なのか悲鳴なのか、もうわからない。私も用意しておいたタキシードに袖を通してみた。仕事以外でこんな豪華な服を着たのは、初めてかもしれない。
「……ねえ、私、似合ってますか」
 ずるずると壁から床へ、ぐったりと倒れている紡にそう問いかけて、なんだか妙に嬉しくなって、体を起こしてそのままキスをした。
「あの世に行っても一緒です、誓いますよ。貴方も誓ってくれるでしょう?」
 紡はもうろくに体の自由が利かないのだろう。虚ろな瞳を懸命に動かして私をとらえて、なにやら唇を震わせる。私は……何も答えず、何もくみ取ろうとせず、ただ……彼女に向けて、微笑んだ。最後に私は、用意していた最後の物を手に取って……彼女の首にそっとかけた。
「……色々、悩んだんですけどね」
 麻縄が首に食い込むことをしっかり確認してから、長さを確認する。用意していた踏み台がちょうどよさそうだった。
「一緒に旅立つのに、なんだかいいじゃないですか。宙に浮いたまま逝ける、なんて」
 空を飛んでるみたいでしょう?自分でも狂っているような言葉を笑いながら。私も自分の首に、縄をくくった。ふう、と息を大きく吐いてから、私もそっと、紡に飲ませた睡眠薬を……飲んだ。
「さて……」
 紡を机の上に載せて、天井に縄をくくりつけた。彼女を抱きかかえたまま自分の縄を括りつけている間、私にも抗えない眠気がやってきて、それでもどうにか支度を終える。
 これでいつ、気を失っても……もう、大丈夫。
「……紡。紡。もう、寝ちゃいましたか」
 腕の中で寝息を立てる彼女の腕に、体に、首に、線状の傷跡が目立つ。
「辛かったですよね。ごめんなさい……もっと……」
 もっと早く、こうしておけばよかった。
 踏み台の上で、彼女の体を抱きしめた。愛しい体を何度も撫でて、自分で赤く染めた唇に何度も口づけて、やがて私の足も、ふらつき始めた。力が入らなくなっていく。
「……ふたり、で……ずっと。ずっと、いっしょに」
 ずっといっしょに……。
 かくん、と、からだが、ゆれ、た。
 ――。畳む

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NO IMAGE リュウ みなつむSS

「いえ、人の目がないだけでこんなに気が楽なもんなのかと思うこともありますよ」
    そう言って微笑み、髪をかきあげる巳波の仕草に思わず心臓が高鳴る。一般人には出せない色気や妖しさ。それでも、彼がタレントでない以上、周りも見目が綺麗なマネージャーとしてしか見ていない。紡はそっとガラスに映る自分を確認した。……こんな平凡な見た目であっても、タレントだから常に見られている。慣れない人々の視線に、たった数日で紡は疲れ切っていた。……巳波の言う通りだ。
「……まあ、その分、貴方に負担をかけていますね」
「い、いえ……棗さんだって頑張ってくれてるじゃないですか。ここは協力して、早く、穏便に、元の世界に帰るべきですから」
    巳波がマネージャー業と並行して調べ物をしてくれている以上、自分のやるべき事はこれ以上巳波の仕事を増やさないことだ。アイドルとしての仕事をこなすこと。失敗しないこと。期待に応えること。
「……。……スケジュールには余裕ありますよね。小鳥遊さん、少しこちら……よろしいですか?」
「?……ここじゃダメな話、ですか?」
「……ふふ。私はいいんですけれど、貴方は……アイドルですからね」
「……?……はい……」
    おいでおいで、と手招きする巳波に導かれるまま、紡は傍にあった会議室に足を踏み入れた。その後、巳波が部屋に入る。特に何も無い、机と数人分の椅子が置かれているだけの小さな会議室だ。
    ――カチャ。
    会議室の中を眺めていた紡の背後で、鍵が閉まる音がした。巳波の長い指が、そっと鍵から離れる。
    目が、合う。
「……あ、あの……」
    なぜだか急に気まずくなって、紡は急いで目を逸らした。優しく微笑んだままの巳波の感情は読めない。巳波はただじっと、紡の瞳を見つめているままだ。
「まだ私は研修が明けたばかりの新人マネージャーですので……」
    くす、と笑いながら、自分に伸びた手を、紡は反射的に避けようとして……左手首と右肩を掴まれる。
「ちょっと、癒し方が下手かもしれないですけれど。許してくださいね」
「ま、まっ……」
    ――体温。巳波との距離はゼロだ。だらだらと、背中が冷や汗だらけになっている。頭が熱い。体が熱い。離れようともがくほど、不思議と巳波の腕の中に誘い込まれていく。しっかりと背中と腰に手を回されて、もう、紡の意思では抜け出せなくなっていた。
(……さっき、唇、塗ったのにな……)
    妙に冷静になって、ぼんやり思う。ヘアメイクしてもらったのに、髪を梳かれて。化粧、崩れてないかな。大丈夫かな。一瞬唇が離れて、安心して息を吐いて、でもまた唇を奪われる。離れては奪われて。室内に、控えめなリップ音が木霊する。
    ――やがて、巳波が一息ついたところで、紡はキスが終わったことに気づいた。依然として距離は近いまま、そのまま巳波はまたしばらくじっと紡を見つめ……そのまま、紡の首元に顔を埋めた。
「……あ、あの……えっと……どうしちゃったんですか、棗さん」
「……なんか、キス慣れしてません?」
「そんなことないですよ?」
「……そうですか。なんだか私が思っていた反応と違ったものですから……癒されました?」
「メイクが崩れてないかすごく気になります、この後収録なので」
「……ちゃんと崩さないようにやってますよ。……崩して差し上げてもいいですけれど」
「え」
    はあ、と何やらため息をついて、巳波はそっと体を離した。さらさら、と何度か紡の髪を整えて、そのまま唇の端を親指で拭う。
「……甘いものとか、食べます?」
「あ、頂きたいです」
「……気まずくなったり、しないんですね。いきなりキスされたのに」
「気まずくなっても仕方ないですからね。アレですよね、なんかキスとかハグってホルモンが出ていいらしいですし、棗さんのお疲れも取れました?」
「……私はなんだか疲れがドッと来ました、今」
    そろそろ行かないといけませんよね、と呟くように言いながら、巳波は会議室の鍵を開けた。そのまま何も無かったかのように、二人で部屋を後にした。

    収録に行くアイドルたちを見送ってから、巳波は大きくため息をついた。
    この世界でなら、もしかしたら……そんな出来心で彼女の唇を奪ったのは自分、だけれど。抱きしめたのも、自分、だけれど。
(体は緊張してたし、赤くはなったものの……"あれ"じゃ、鈍感どころの騒ぎじゃない)
    だいたい、男に体を触られてそれもコミュニケーションだと思っているのなら、早急に認識を改めて貰う必要がある。それは別に、巳波と恋仲になるからとか、そういう以前の話だ。……心配になってきた。
(どうやったら意識してもらえるんだろう)
    自分がやるべき事は、元の世界へ帰る方法を探すこと。しかし、元の世界へ帰れば自分はアイドルだ。常に人の視線の中で生きる。今みたいに、気楽に彼女とは会えない。なかなか触れられもしない。
(……この世界にいるうちにもう少しだけ踏み込んだ関係になりたい、と思ってしまうのは……)
    ははは、と、小さく乾いた笑いを零し、巳波は口をしっかり結んだ。
畳む
NO IMAGE リュウ みなつむSS いつもの
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NO IMAGE リュウ RED double アダハル(うちよそ)
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NO IMAGE リュウ 没SS 夕月如月卯月
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NO IMAGE リュウ .
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NO IMAGE リュウ RED アダハルSS double

 お化け屋敷だぁ、とハルは思った。古びた廃れた館。蜘蛛の巣だらけ、ガラスは割れ、まあ一言で言えば、人間は住んでないだろうなぁ。
 隣を見ると、ヨシミは青い顔。アレ?お化け屋敷とか苦手だったっけ?って聞いてみたら「小動物がいるじゃないですか!」って、まあ、そうかも。こうもりとかいそうだし。でもハル、こうもり見たことないから見てみたいなあ。
「ハルさん、今回のトランスは催眠と思念のトランスらしいっすよ。ライバルですね」
 ライバル、ねえ。特に興味も湧かない。ただ今回こそは、ちゃんと寝ないで任務をこなしたい。
 そう、ハルはいつも気がついたら本部の中、ベッドに寝かされている。みんな「マリが催眠で」「別人みたいで」なんてゆーけど、記憶なんて一切ないし、ハルはどこでも寝てしまう。きっと任務もいつも寝てしまってるんだ。相方のヨシミが優秀だから、自分は首切られてないんだろうな、といつも思っている。
 行きますよ、と先陣切るヨシミについて、ハルも館へ入った。

 ぐらり、と頭が突然揺れた。大地震でも来たのかと思った。地震が来たら隠れなければ、でもどこに?周りを見渡すが、暗くてよく見えない。……その上、地震は一瞬で終わった。
「ねえヨシミ、いま地震あったね」
 いるはずの相方に声をかけたが、返答がない。段々と闇夜に慣れてきた目でも、ヨシミの姿は見えなかった。……保護官をひとりにするのは危険だ。そう思ってあちこち部屋を探したが、ヨシミの姿はついに見えなかった。
「ヨシミ〜、こうもりいないから出てきてよ。離れるのはヤバいってばぁ」
 割と大きな声で呼んでも反応ひとつない。困った。とりあえず、自分一人でも捜査できるところはしておこう。目覚ましに、自分に電流を走らせた。……一人なのに寝てしまってはまずい。全身を駆け巡った電流に、いてっ、と目が覚めた。ヨシミがいない間、寝てはいけないチャレンジしなきゃいけないのか。……ユーチューバーにでもなろうかな、とふざけながら色んな部屋を見ていく。
 どこも薄暗く、奥へ行くほど埃っぽい。だが、噂を聞いて色んな人が訪れたのか、足跡はたくさんついている。……不自然に途中でなくなっている足跡もある。
 トランス、催眠とサイコメトリーだっけ。ってことは、もうハルの思惑にも気づかれてるのか。ならしっぽを出さないのも仕方ない。本体さえ見つけられれば、とりあえず痺れさせて捕まえられるんだけど……。
 と、足元に何かがぶつかった。思わず癖で「ごめん」と声が出た。視線よりも下になにかがいる。物?いや、動いている。……小さい子供だ、と判断して、「ごめんね、立てる?」と手を差し出した。が、子供は下を向いたままだ。
「……立てない」
「どこか怪我した?ハル、絆創膏くらいしかもってないんだけど、擦りむいたならこれ使う?」
「……いらない」
「うーん。機嫌損ねた?ごめんね、仕事できてるから集中してたの。許してくれる?」
「……許さない」
「うーん、そっかあ。でもこんなところにいるのは危ないから、一回一緒にお外出よっか……」
「許さないよ、俺は」
「え」
 おかしいな。なんだか聞き覚えのある声だった。子供の可愛らしい声ではなくて。それはまるで……。
 ハルの声の、ような。
 いや、慌てなくていい。今日だって、ちゃんとヨシミから情報をもらってきた。確か、トランスは……。
 ……?
 トランスってなんだ?
 ヨシミってなんだ?
 ……あれ、何かおかしい。
 何も思い出せない……??
 ……自分は、誰だ?
「ナナシ」
 びく、と体が反応した。呼ばれた、と反射的に思ったのだ。子供が立ち上がった。その紫色に光る両目は、まっすぐこちらを見据えている。睨むように。
「俺は許さない、俺をナナシと呼んだ人間を。名前を付けなかった人間を。……そうだろう、ナナシ」
「……俺はナナシっていうの?」
「そう呼ばれてたんだよ。忘れたの」
「……覚えてる、気が、する」
 なんだろう、息が苦しい。頭が熱くなっている。反射的に腕が動くが、その腕が何をしてくれるのかわからなくて止まる。
「俺は捨てられた。その先の教会で名前を貰えなかった。奇病だから、気持ち悪いから、だからナナシだっただろ」
 ぱ、と目の前が変わる。たくさんの幼い子供たちとシスター。教会だ。ああ、覚えている。牧師様のお言葉を静かに聞く。賛美歌を歌う。そして一人ずつ、今週できたことをシスターに報告し、褒められて、祈りの間を出ていくのだ。
 気がつけば俺は並んでいた。今週は何を頑張ったんだっけ。そうだ、今週は……いつも眠くなるけれど、一日だけ寝ないでお話を聞いたのだ。誇りだった。
「さあナナシ、あなたが今週頑張ったことはなんですか」
「はいシスター、俺は一日、寝ないで牧師様のお話を聞きました」
 よくできましたね、とみんなと同じように言われると思っていた。だが、シスターは大きくため息をついただけだった。
「ナナシ、よりもヤクナシ、のほうがよかったかしら。神の慈悲がなければ、貴方なんてとっくに捨てられているのに」
 行ってよろしい、と言われて歩く。褒められなどしなかった。ショックではなかったが、どうして褒められなかったのか、ほんの少し悲しくなった。
 教会を出ると、元通り薄暗い館にいた。だが、先程とは様子が違う。あらゆる場所に鏡がある。落ちている手鏡、立てかけられた姿見、様々な鏡に見られている気分になって、少し吐きそうになってきた。
「なあナナシ、眠たくないか」
 姿見から声がした。映っているのは自分の姿だし、声も自分のものだ。思わず、小さく「あー」と声を出して確認したが、やっぱり自分の声だ。
「……眠たいよな、眠たいんだよな、いつも。大事な時に眠たい、大事な時に役立たずだ」
 落ちた手鏡から声が飛んできた。……言われてみると、だんだん眠たくなってきていることが分かる。
「どうせ治らない病気でしょ。じゃあもう……ずーっと眠るってのはどう?」
 壁にかけられた、一際大きな鏡が言った。見れば、俺が微笑んでいる。
「お前は捨てられて、教会でもお荷物で、だから追い出されたんだよ、能力なんて気味悪いしね」
「いつも寝てばっかりで仕事は相棒任せ、役に立ってるの?」
「お前はいまでもナナシのヤクナシだよ、ねえ」
「一緒に寝ない?眠たくなってきたよ。ここで眠れば、きっと幸せな夢が見れるよ」
 視界が変わる。一面の白い花畑。確かに。
 ここで寝たい……。
「そうだよナナシ」
「おやすみナナシ」
「そう……永遠におやすみ、ナナシ」
 俺の声がする。そうだね、ここで寝るのはとても魅力的だね。
 ごろん、と花畑に横になった。天井の鏡の中の自分は微笑んでいる。一緒に寝よう、と囁いてくる。……俺はうん、と頷いた。
「……そうだね、一緒に寝よう、ナナシ。……ハルと一緒にね」
「!?」
 鏡の中の自分が目を見開いた。
 目が合った。……「これ」がトランスか。
「覚えてるよ、ナナシって呼ばれていたこと。ヤクナシって言われたこと。でもね、REDで名前、貰ったんだ。だから……キミにもあげるよ、同じ名前。……マリハルトキ。だから、ハル、一緒に寝よう、おいで」
 ふ、と場面が変わる。ハルの目の前には、息荒く床に手を着く青年型の、バケモノ。ケモノのような毛を逆立てて、爪をむき、こちらを見つめている目は「信じられない」とでも言いたげだ。
「なんでだ!トラウマじゃないのか、お前は!なんで、どうして、催眠にかかっていたのに」
「だって、ハルはもうハルだもん。あんなの忘れた。それに」
 にや、と自分の口角があがるのがわかった。……ああ、眠たいなぁ。意識が遠くなっていく。
 
「催眠をかけている時は、催眠をかけられているのだ、ってな……さあ」
【おやすみ、俺の愛しい子】

「……さん、ハルさん」
 呼び声に、ハッ、と目を覚ます。薄暗い空。夜だ。ぼんやりとした視界。誰か。安心する声。相棒。
「……ヨシミ、おはよ。ハル、もしかしてまた寝ちゃってた?」
「……どこまで覚えてます?」
「ヨシミがこうもり怖がってたとこ」
「……じゃあもう、それでいいっす。帰りましょう」
「え。もうおわったの?ヨシミすごくない?」
「……。……まあ、他の隊も来てますからねえ」
 煮え切らない返事をするヨシミに首をかしげながら、ハルはその後を着いていく。
「……ヨシミ」
 呼ぶと、くるりと振り返る相棒の姿。
「なんっすか?ハルさん」
 名前を呼ばれる。……うん、よくわかんないけど、満足した。
「あーあ。報告書書くの、やだなあ」
「俺が八割やるんですけどね!?」
「ねむた〜い」
「あんなに寝てたのに!」
 相棒と帰路に着く。
 結局今回も何もしなかったなあ、と思いながらも、誰かがトランスを確保したならそれでいいか、と思う。
 ……だけど、なんだか今日は酷く疲れていて。
「……ヨシミ、ごめん」
「ハルさん?」
「おやすみ……」
「ハルさーん!」
 名前を呼ぶ心地よい声に、ハルは眠りに落ちていった。畳む
NO IMAGE リュウ ミクミヅ 出産前

「なあに、それ」
「手袋だよ」
 ぱちぱちと音を立て、赤く光を放ち続ける暖炉の隣で、棒を両手に、くるくると毛糸を回し、形を作っていく僕の指先を、彼女は吸い込まれるように見ていた。僕は危ないよと声をかける。集中している時の彼女は、気づいているのだろうか、眉間の皺が濃くなるが、それもまた愛しくて、思わず口が緩んでしまう。そんな僕を見て、彼女はそのままの顔で、やや首をかしげた。……その間も、手は彼女の少し膨らんだ腹部を撫でている。
 その姿に、ああ、たしかに母親だ、と思う。彼女の胎内には、いるのだ、一人の命が。
「もうすぐ冬だからね。生まれてくる子が、寒くないように」
 僕がそう言うと合点が言ったのか、彼女の表情がぱっと明るくなる。逆ハの字の眉がなだらかになる。すぐにころっと変わった柔らかな表情で、僕を見上げて、えへへ、と笑う。
 ああ、なんて幸せなんだろう。
「……女の子かなあ、男の子かなあ」
「トキはまだわからないって言ってたね」
「うーん、でも、たぶん、女の子だよ」
「そっか。お母さんだもんね」
「うん!そう!あたし、お母さんになるの!」
 うん、と頷くと、キラキラとした笑顔で彼女が少し僕に近づいた。編み物の手を止めると、僕はそれを足元のカゴに戻して、そのまま彼女を膝にのせた。彼女の背を支え、僕も彼女の腹部に載せられた手の上に、手を添える。そうしてお互い見つめ合うと、自然と笑顔になる。
「……もうすぐだね」
「……うん」
「体調は大丈夫?」
「問題ないよ!トキも言ってた」
「そっか、じゃあ安心だね」
 もちろん安心できないことはわかっている。彼女はいま、命懸けで命を背負っている。出産にも、何が命取りになるかわからない。毎日がサバイバルのようなものかもしれない。僕はそれを肩代わりすることも、一緒に持つことも出来ず、ただ歯がゆい思いをするだけだ。
 けれど、そんな彼女の一番そばにいることなら、きっとできる。そう思って、僕は今日も彼女の手を握る。
 彼女は顔を赤くしながら、あっちをみたりこっちをみたりして、ゆっくりと僕を見上げる。僕が笑うと、彼女もまた、控えめに笑った。
「……そろそろ寝よっか」
「うん」
 僕は彼女を姫抱きにしたまま、寝室へと向かう。歩くのも体力を使うから、歩ける時と歩けない時があった。身体に限界がきてる彼女が子を授かり、出産など、誰から見ても大変危険なことだった。それでも。
「えへへ、あたし、お母さんになっちゃうのね」
 そう言って楽しそうに笑う彼女が、ずっと家族が欲しいといっていた彼女が、頑張るのなら、僕はただ手を握り、後押ししてあげたいのだ。
 ベッドに寝かせて、電気を消し、彼女のおでこに口付けをする。寝るまでいてよ、と彼女は僕の服の裾を引っ張った。僕はベッドのふちに腰掛け、彼女の頭を撫でる。
「ねえ?」
「なあに」
「あのね、あたしにも作って、手袋。赤いのがいいな」
「わかった、任せて」
「でね、でね、ミクも作ってね」
「うん」
「赤ちゃんとね、三人でね」
 おそろいがいいなぁ。そう言いながら眠りに落ちていった彼女の頬に口付けをして、毛布をもう一枚かけてやり、それからまた暖炉のそばへ戻ると、編み物の続きを始めた。
 家族3人でお揃いの手袋。世界に一つしかない僕達の手袋を編むのだ。畳む
NO IMAGE リュウ 八原兄妹SS ふくれっつら

やっぱりな、と苦笑いをした。玄関扉を開けてすぐ飛び込んできたのは、腕を組んで仁王立ちした妹のふくれっ面。これは怒ってるぞ、と身構えていると「怒ってるわよ!」と声に出され、笑いそうになるのを堪える。
「遅かったようだけど!」
「悪い、急な仕事でさ」
「今日休みって言ってたのに!」
「ごめんな」
俺の仕事はまだ売れない歌手。それでもありがたい事に、最近貰える仕事が少しずつ増えてきたところで、舞い込む仕事は事務所も断らない。今日は休みで妹と遠出する予定にしていたのだが、朝連絡が来て、仕事になったのだった。
最初はガミガミと言っていた妹は次第に勢いをなくし、目線が下がり、瞳が潤んでいる。さみしい思いをさせたのだなと思い、そっと頭を撫でると、しおれた顔で俺を見上げる。
俺はしばらく迷ってから、玄関のほうを指さして言った。
「よし、いまから行くか!」
「え?今から?」
時刻は23時を過ぎているが、まあ問題ないだろう。車を使える知り合いに手早くスマホでメッセージを送り、口を開けたままぼんやりとしている妹にほほえむ。
「まだ今日は終わってないからな」
ほんっと、しょうがないなあ!妹が笑う。畳む
NO IMAGE リュウ 愛妻の日ミクミヅSS 【AGAIN3-0-0】

「今日もね、二人ともご飯をいっぱい食べたよ。ミトも元気に動けてた。もうね、すっかり大きくなったよ」
 彼女のような美しい花をそっと供えながら、僕は笑顔で続ける。
「君が産んでくれたおかげだよ。僕は今日も幸せだった。あの子達の父親で、本当によかった」
 当然ね、と彼女が笑ったような気がして、零れそうになる涙をこらえた。泣いては彼女に心配をかけてしまうな、と、深く息を吸う。
「……」
 口を開きかけたが、言葉が音を持つことは無かった。言えるはずがなかったし、言ったところでどうなることでもなかった。わかっている。わかっているんだ、そんなことは。
 もう二度と彼女には会えない。だから、こんな気持ちを抱えていたって……。
「……でも」
 もう一度、君に触れたい。君を抱きしめたい。君に口付けをしたい。溢れる願いは叶わない。
 彼女の眠る石碑に背を向けた。闇夜でも目が利くのは彼女のおかげだ。もういない彼女は、今でも僕の中に強く深く刻み込まれている。二度と忘れることなどない。僕のこの少し冷たい体温も、時に死ぬほど愛おしくなるのは、それが彼女にもらったものだからだ。
「……ああ、今日はだめだなぁ」
 どこで隙間が空いたのだろう、心に風が入ってきて、胸が痛む。当たり前のように無視できていたことを、今日は何故だか見てしまう。隣にいない彼女の姿を見た気がして、一瞬身を震わせた自分に、笑いとも泣き声ともわからない声が出る。
「……会いたいよ、」
 この世で一番愛した人の名前が、静かに闇に飲まれていく。
 
【AGAIN3-0-0】畳む
NO IMAGE リュウ ミヅキとカイト 今日のおかず

 頭の中がぐわぐわしていた。なにも纏まらなくて、ぐちゃぐちゃで。こんな時、いつもそばにいてくれた幼馴染が隣にいない、それだけであたしは頭がぐちゃぐちゃになっていた。
 友情とか恋愛とか、主従とか民だとか、王になるとか、色々。多くの場所で役割を持つようになったあたしへ向けられるようになった感情は大きく、けれどあたしはついていけていない。
 こんな時、いつも逃げ場は幼馴染の懐だったのに。
「……会いに……行っちゃうんだから……」
 自分のやった事の責任を取る。そう言ってあたしの前から消えた幼馴染のもとへ。逃げるように。求めていく。
 世界をくぐりぬける七色の空間には、もう慣れきってしまった。

 とはいえ、幼馴染の今いる場所は城である。そう、お城。幼馴染は元々王様だったらしい。
 入口でとりあえず形式的に門番に挨拶して、城の中を歩く。どこかですれ違うなんて土台無理なくらい広い、大きな城。とりあえずあたしは彼の執務室へ向かった。顔パスとはいえ、王の執務室の前の警護はかたい。アポもない。あたしは少し離れたところで待たされることになった。
 が、やがてバタンと音を立て、空いた扉から覗いた幼馴染の姿に、あたしは走って飛びついた。ぎゅっとそのまま抱きついて、きつくきつく背中にしがみつくと、一度あたしを持ち上げるようにしてから、しっかり抱き締め返してくれる。
「……どした、何かあったのか」
「……うん」
 そうか、と深く聞かず、幼馴染はしばらくあたしを抱きしめ続けてくれていた。そのあたたかさが変わっていなかったことに安心して、あたしはちょっとだけ、そう、ほんのちょっとだけ、幼馴染の胸を借りて泣いていた。

 王が言えばいとも簡単に執務室の中へ入れてしまった。幼馴染は紅茶とクッキー、それからチョコレートをメイドさんに持ってこさせていた。ちゃんと、あたしの好きなダージリンとミルク。クッキーもチョコレートも甘くて、美味しくて。夢中になっているあたしがたまにはっとして幼馴染を見ると、そんなあたしを隣でじっと見つめていて、よく知っている優しい顔で笑う。
「気にしないで食えよ。部屋に入るなり腹の音響かせてさ」
「……って、言いながら甘いもの出してくるのね?」
「しんどい時は、ちょっと贅沢したっていい。だろ?」
「……まあ、そうね」
 あたしは紅茶のカップのふちを指でもよもよと触りながら、中身が揺れるのを見つめていた。またしばらくして、それを飲み干す。
「……聞かないの?」
 何を、とは言わずに幼馴染に聴きながら、寄りかかる。幼馴染は流れるようにあたしを受け止めながら、そうだな、と答える。
 何があったのか、聞かないのか。そうだな。別にあたしたちの間には、そう言葉は多くなくていい。なのに。
「……何故だか、不安だわ」
「不安?」
「カイトの隣にいるのに、何故だか不安なの。一番安心出来る場所だったはずなのに」
 「……そうか」
「ごめん。あたしのために時間使ったって、カイト、忙しいのに。こんなことしてる時間なんて、勿体ないのにね……」
 あたしが来てから完全に執務をしている様子はない。ガラスペンは立ったまま、書類は置いたままだ。そんなのに構わず、幼馴染はあたしをとっている。あたしとの時間を……。
「そうだな。でも、勿体ないとは思ってない。俺もお前といる時間は好きだから」
 そう言って、幼馴染もまた、あたしに少し体重を預けた。
 あたしたちは、もちろん恋人なんかじゃない。むしろ、家族のように育った。道は、別れてしまったけれど……。
「ずっと、会えなくてごめん。寂しい思いをさせてるよな」
「……なんていうか、その。あたしも、たくさん疲れて……でもそんな時、カイトがいないと空っぽだなって思っちゃった。アグノムとかミクとかはまた違って……あたし、カイトがいい、カイトの隣が。」
「……わかった。それじゃ、今日のリクエスト聞くか」
「え?リクエスト?」
「ああ」
 一瞬、なんのことかわからずに聞き返す。けれど、しばらくして思い出す。時計を見れば、あたしたちのご飯の時間が近かった。
 昔はこうして、幼馴染に夕飯のリクエストをしていたのだ。あたしは忘れていたけれど、幼馴染は……王様になっても、覚えてくれていた。
 じわ、と目元が少し熱くなるのを感じた。そのまま、口からいつものように――前のように、リクエストが出てくる。
「オムライスと、ナポリタンと、ハンバーグと、あと、あとね……からあげと……あと……」
「……それじゃあ今日はお子様ランチだな」
「も、もうお子様じゃないけど!」
「バカだな、まだまだ子供でいいんだ……お前は。……いや」
 幼馴染は、言い直しながら、あたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
 俺たちは。

「王様が使うようなキッチンではないのです、ここは……!ああ、お召し物が、汚れてしまいます!我々がやりますから!」
「いいから、それでいいから料理をさせてほしいんです、料理長。どうして俺が立ってはいけないんですか」
「だから、王だからですよ!王というのは、自分で料理する必要なんてないんです!」
「うーん」
 王でも城で許されないことがあるらしい。厨房を借りる、と言った幼馴染に付いてきたものの、幼馴染も予想外だったのか、なかなかはいどうぞとは言えないらしい。危険だの、汚れるからだの、色々と理由をつけているが、あたしには居場所を取られることに恐怖しているようにも見えた。
 と。
「どうしたんだ」
「あ、兄王子様……」
「トキ!」
 この城の第一王子、あたしと一緒に戦ってくれていたこともある、トキだった。トキはあたしとカイトと料理長を一瞥して、ため息をつく。
「今度はなんの騒ぎなんだ。城の使用人たちが嘆いてるぞ、王様が自由すぎる、掃除もやりたがるし料理もやりたがる、と」
「その節はすみませんでした。その、そういうの好きなので……でも、今日は料理をさせてほしいんです。料理長の料理じゃなくて、俺の料理をミヅキに食べさせたい」
「……ふむ」
 トキはあたしを見る。あたしは何故だかなんとなく、カイトの服の裾を掴む。カイトはあたしの手を、そっと握った。
「……つかの間の家族ごっこを、させてくれませんか」
「……だ、そうだ、料理長。今代の王についてはもう諦めたほうがいいかもしれないな」
「そ、そんな……もしもお怪我があったら……」
「案ずるな。すべて自己責任、たとえ厨房で暗殺が行われようがお前たちに責任はない。……今日は先に休憩でも何でもしてくれ。給与には関わらないから」
「は、はい……」
 トキの言葉で諦めたのか、いやまだ諦めきれていないのか、あたしを恨めしそうな顔で見ながら料理長と、厨房の中にいた料理担当の使用人たちがぞろぞろと出ていく。
「……トキさん、俺、ちょっとだけ使わせて欲しかっただけなんですけど……こんな人払いしなくても」
 王だけど、カイトはカイト。だから、トキに敬語を使うその姿が、偉そうに変わっていなくて嬉しい。
「王に料理させる、なんて罪悪感やヒヤヒヤをあいつら全員にさせ続けるのも可哀想だろう。お前は……城の中ではいまいち気が配れないな」
「ああ、なるほど。それは失礼」
「……で、何を作るつもりだったんだ」
 トキは咎めているようではなく、興味本位のようだ。カイトはそれなりに説明する。
「そういえば、狭い客間が今日は空いていましたよね。そこで食うか」
「? 別に、いつも通りの食卓で食えばいいんじゃないのか」
「あはは、トキさんも意外とわかってないですね。……よかったら、トキさんとツバサも一緒にどうですか。お口に合うかわかりませんが……賑やかな方がいいだろ?」
 そう言ってあたしに優しくカイトが微笑む。
「……別に。今日はカイトがいれば、それでいい」
「じゃ、決まりってことで。飯が出来たら部屋まで呼ばせますから」
「……お前たちの意思の疎通は、俺には少し難易度が高いな」
 では待ってるから、と、トキは部屋へと戻って行った。それを見送って、あたしたちは城の厨房へとお邪魔する。
「そいじゃ、使わせてもらいますか。相変わらず、ひっろいな」
 俺用の狭い厨房でも作ってもらおうかな、なんて冗談を言いながら幼馴染は料理を始める。そんな姿を、あたしは眺める。
 そう、あたしは好きなのだ。この時間が。料理をしている幼馴染を見つめる時間が。少しずつ美味しそうな匂いがしてきて、あたしはいつもこの時間戦隊モノを見ていて、手伝えよ、なんて言われながら、お皿の用意をしぶしぶ手伝って。
 ――いまでは、それこそがこんなにも愛おしいのに。
「ねえ、カイト」
 手を動かしながら、なんだー、と返事が帰ってくる。
 ここは、城の厨房で。その一角を使わせてもらっているから、とても広くて。けれど。なんだかここが、元のウチの気がしてくる。
「……早く作ってよ、お腹すいたから」
「はいはい、じゃ……皿でも出して手伝ってくれ」
「……仕方ないわね」
 あたしたちは、変わらない。
 なにひとつ、変わっていない。
 幼馴染が王になろうとも。
 あたしが"王"になろうとも。
「ねえ、今日のごはんは?」
「お子様ランチ・カイト様スペシャル、だ」
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NO IMAGE リュウ クラージュ兄弟と八原兄妹の出会いの話(2017年頃)

「今日、でかけるからな」
 え?って言うと、前から言ってただろってきたにぃが後ろ向きで言う。え?ってもう一回言うと、はやく準備しろって急かされる。
「約束まであと一時間しかないからな

「約束?だれ?ゆうにぃ?りょうにぃ?あきにぃ?」
「んや、おまえは初めてだな。仕事の知り合い」
 じゃあなんであたしが、と思いながらも、寝巻きのボタンに手をかけた。
 蒸し暑い梅雨の晴れた日、昼寝の予定を返上して、知らない人に会いに行く。
 
 誰かわかんないし、とりあえずパーカーを羽織って、いつも通りのスタイルで家を出た。2人でバスに乗り、ついた先は……流行りのショッピングモール。小さな遊園地や水族館みたいなのもついていて、なんでも少しずつ楽しめるっていうのが人気だった。
 ショッピングモールの待ち合わせによく使われるのは、時刻によって噴射の仕方が変わり、音楽やライトアップで恋人達にも人気の噴水広場。あたしときたにぃはその噴水のそばに立って、誰かわからない待ち人を待っていた。暑いし人は多いし、イライラする。
「ねえ、めっちゃ人多いんだけど」
「日曜だからなぁ」
「仕事?仕事なの?」
「んや?ふつーにオフ」
「じゃーなんであたしも???」
「会ってみたい…って言ってたし、せっかくだからな。お前も、友達増えるいいチャンスかもよ」
 余計なことを言いながら、きたにぃはあたしにピースした。全然ピースじゃない。あたしはグーで返した。勝った。
 呆れた顔のきたにぃのスマホが鳴ってすぐ、こちらへ歩いてくる人影が見えた。2人。ちっちゃいのとおっきいのだ。昼間の強い日差しに照らされて、2人の金髪がキラキラと光っていた。
 金髪のおっきいほうは、きたにぃに片手をあげて、それからあたしを見て、手を振った。優しそうな笑顔。となりの小さい方はあたしを見て、その青の目をキラキラさせた。
「待たせたな」
「んや、まだ時間なってねーよ。俺らもさっき来たしな」
 な、ときたにぃに言われて、とりあえず頷いた。そんなあたしを見ながら、またおっきい人が優しく笑う。ちら、と隣を見ると、ちっちゃいほうもあたしをニコニコしながら見てる。ちっちゃいほうはあたしよりも大きかった。許せない。何を考えてるのかバレてるのか、きたにぃに頭をぐしゃぐしゃにされて、俯いた。
「…んじゃま、行く前に紹介するか。時々話すだろ、こいつ、ヤアス。俺の友達」
「ミヅキの話はキタツキからよく聞いてるよ。よろしく」
「………ドーモ」
 差し出された手を見ていると、きたにぃに手を掴まれた。引っ張られた。強制握手。…たくさん働いてる人の手だと思った。
「それでこっちが、弟のアマル」
「よろしくね、えっと、ミヅキちゃん」
 馴れ馴れしく名前を呼ぶな、と思ったところできたにぃにさっきより激しく頭をぐしゃぐしゃされて、大人しくその手をとった。…こっちもなんだか大変そうな手だな、と思った。
 きたにぃはあたしとアマルが握手をする所まで見届けて、ヤアスと目配せして、それじゃ行くかと切り出す。
「どこへ?」
 言った拍子にあたしのお腹が鳴って、恥ずかしくて頭が熱くなる。
「…まずは昼飯だな」
 きたにぃたちに流されるままに、あたしは全然知らない人たちと一緒に昼食をとることになったのだった。畳む